なべしまの友人狐に化かされ鹿を食すこと~孤独(物理)のグルメ~/食レポ/なべしま

春には牡丹、秋の紅葉、季節は巡りますれば花と散る折々を味わわねば損と来たるは丹沢。しかし、これはいかに、はたと見れば丹沢の渓谷はいずこ、五目いなり亭と、鴉の濡れ羽色に染め抜かれた提灯が一つ。
ぼうと見ておりますと、陽に透かすと桃色にも見える細やかな髪を島田髷に結った涼しげな目元の別嬪さんがちろりとこちらを見やりまして、いらっしゃいましとたおやかに暖簾を上げ私を誘います。秋の深い山の中、苔生したような着物の、その髪と似合うこと。
遂にその手に惹かれるままに、その美人の誘いに乗ったのでありました。

その美人さん、うちのシェフ、エエこう見えて洋食屋なんですの、少ぅし難しい人で困ってしまう。先に謝っておきますね、と気遣いを見せる。姐さんそりゃどうもと言うと意味ありげに目を細めて、我が意を得たりと笑うさまの愉しげな様子。
綿の詰まった上質な椅子に着きますとまずは一品目。
「鹿の干し肉でございます」

俗に言う、ビーフジャーキーに似ているが少し柔らかく、甘みを持った醤油の味が心地良い。上に乗ったにんにくが単なる醤油味でなく、燻製にも似た風味が加えられている。獣の灰汁のようなものもない。

こうしてお通しに舌鼓を打っているといつの間にやらシェフとやらが板場で包丁を振るっていたが、その様子は番頭とでも称した方が似合う。客がいるのに無口を貫き通すその姿勢は近寄りがたいものがあった。美人さんが人間嫌いなんですと囁くが、この番頭の様子は愛想というものを親の腹の中に忘れてきたかのようであった。囁きついでにビールを置いていってくれたので、打ち捨てられた番頭の愛想に想いを馳せ、また瀟洒な豆ランプを手慰みにしていたら次なる料理が運ばれてきた。
「鹿肉のシチューと、鹿ときのこのアヒージョです」

なるほど、洋食と名乗るのもうなずける珍奇な料理が出てきたものである。アヒージョにはフランスパンが狐色に焼けて添えてある。それにしてもこのパンは量が多いなと考えていると、どうもシチューにつけるのだというような素振りを番頭が見せるので大人しく食べた。
シチューの鹿肉は先程とは違った柔らかさがあり、とろけるとはいかないものの、ぞぶりと歯を入れ噛み締めるとじんわり、仄かに肉の味がふくらむ。ただ妙なことに、スープを口に含むとブロッコリーの味が広がり、まるでブロッコリーを溶かしてしまったようでもあった。それにさえ目をつぶれば満足。番頭はシチューを食す様子を気にかけており、ははあ失敗したなと想像に難くないが、ブロッコリーの一つで損なわれるような味ではないから安心してほしいものである。
さて慣れないアヒージョであるが、これはそのまま食べると大変塩辛い。がフランスパン、また例の美人さんはバゲットですと得意げな顔で告げていたが、これと同時に口に運ぶのである。この鹿肉はたしかに、鹿肉と想像した通り固い。だがやはり臭みはなく、その為にオリーブオイルとにんにくと、赤唐辛子とを一緒に和えていたのが功を奏し、オリーブを基調に味が整っている。この鹿肉はむしろ食感に締まりをつけるために丁度良いものであった。

食器が下げられ、美人さんが少し消えたのと同時に美味いかと番頭さんが尋ねてきた。細面の割にこの鹿は貴方が獲ってきたのですかと問い質したくなるほど、熊のようなのっそりとした声である。うまかったですと答えると得意げに鼻を鳴らした。照れれば良いものを可愛げのない男である。
まァ珍し、貴男、人間と話出来たんですのと美人さんが煽る。番頭さんも負けじとうるせぇなァ、お前もシナ作りやがって、女みてェな格好してよう、と反駁するも、そンなことを言うんじゃあないですよ、お客様の前で、などと涼風に吹かれたように受け流し、ふんと鼻を鳴らすと綺麗な立ち姿を披露した。少しく驚いているとこの美丈夫は最後の料理を持ってきてくれた。
「ビフテキ、もとい鹿テキです」

鹿のステーキはこれまでにない程の厚さを持っていたにも拘らず、すんなりとナイフが通った。なんでも一番良い部位らしい。中は肉の赤身の残るレアで、ただ血抜きの腕が確かだったのか、下処理が良かったのか、血液が垂れてくることもない。生憎肉汁もまた垂れてこないのだが、それもまた鹿の魅力、脂肪の無い引き締まった肉は胃にもたれることもなく嚥下され、腹に溜まる。鹿は、これと言えるほど際立った味はしないのだが、ステーキにかけられたタレが和風とも、何ともいい難い。何やらの香辛料、辛くはなく、芳ばしい味の、甘みとも酸味ともつかない個性的なタレがステーキの味を引き立てるのに一役買っている。
かくして私は満腹になったのであった。

「うまい!」
という己の叫び声で目を覚ましてみれば丹沢からの帰りの電車であった。きちんと帽子も、コートも羽織っているし、鞄も右手に握りしめている。ハテどうしたことだろうとあちこちを探ってみれば鞄とポケットから甘味が一式消えていた。また紅葉の透かしの入った半紙に流麗な文字で
『五目いなり亭二号館・のれん分け致しました女学生が営んでおります・どうぞ御贔屓に・上星川にて』と書かれており、広告らしかったがちゃっかりしたものである。

というのが私の友人の談であるが、上星川駅の寂れた雑踏を抜け、二号店の味を試したところ大変美味しゅうございました。

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