自分好きだけど自分て誰さ/自分大好き/いせ

『自分大好き』

…すてきなテーマだなぁ。私は盛大な自分語りをする口実がずっとほしかったんだろうな。多くの方々が私にさして興味もないだろうが、読み手の心地を全く考えていないような恥ずかしくて、我の強い内々語りをしてでも間接的に自己紹介がしたかった。

 

他人や自分に「自分が好きか」と問われるたびに、私はぼんやりした直感でイエスと答える。その返答が覆ったことはたぶんない。そしてそれは、私が私であるゆえんのようなものが曖昧ではあるが、一方で両親の存在がどうしても絡んでくるからなのかもしれない。

私の核をなすのは私の母と、特に父親だ。それ以外には思いつかない。

 

大好きな自分を語るということは、今の自分の中ではすなわち、愛する親のことを語ることと同義だ。この際、内々に秘めたる自己顕示欲を。 

 

***

父は憧れ。母は安らぎ。

 私は両親の第一子として生を受け、片田舎の未だに封建的で家父長的な考え方の残っているらしい小さな農村の土地で育った。しかし、同じくそこで育ってきた父は苦労したであるが故なのか、村の雰囲気とは真逆と言っても良いほどおおらかな性格で、私はそんな風に接せられてきた。だからか多少のファザコン気質がある気がする。

ところで、うちの家の者はその村の神社の宮司を務めているようで、現在のそれを担うのが父だ。この「家が神社」は私の身の振り方に大きな影響を与えていると思う。神社なんて全国に大小10万もの数が存在し希少でも何でも無い。だが小さなコミュニティの中では同級生に同じ境遇の人は見当たらなかったし、その状況が子供心に、自分はちょっとばかり特別な立ち位置にいるのだと錯覚させた。その感覚が抜けきらない。

また父は宮司でもあるが、教師でもある。加えて、人の学童期、青年期にもっとも関わる他人といえば、「先生」だ。小さい頃からいろいろな夢を抱いてきたが、いつの頃からか誰に言われたわけでもなく漠然と、自分は大人になったら教師になるものだと思っていた。それ以外の職業を知らなかったからだ。しかし、高校生になった私は教師が、というより勉強が憎くなりその計画はあっさりご破算になった。はて、これからどうすべきか。

 

一方で、母はとにかく心配性で過保護な人である。私はあまあまとぬるく育てられた。周囲には揶揄とからかいを込めて『鍵付き箱入り』と呼ばれるほどだ。これはあながち大げさな比喩ではない。実際に私が留守番をするとき母はいつも外から玄関の鍵を閉めて出かけた。かくして行動範囲がかなり狭くして育った私は横浜に出てきて初めて自分の経験値の乏しさに気づかされた。その証拠に私の考え方や行動基準は両親からの輸入品だ。自分自身で手に入れ、オリジナルに生産したものなど如何ほどあるだろうか。

 

そして、くそまじめでプライドの高い自尊心だけが私に残された。自分の誇りを親に寄生している者がどうして自信なんて代物を手にできるだろうか。

 

***

 

自分が好きである論理的な根拠は上記できなかったが、それでもなぜだが自分が好きだと言えてしまうのだ。自分を大切にするのに理由は必要ない。自分だから無条件で好きだ。

たとえそれが父、母をそのまま中心に据えて自立できてないようなヤツでも。

 幸い、私を収める箱の鍵はもう外れている。自分の意思と感情で行きたいところにいける、行けてしまう。おっかなびっくりでもいいから、唯一の財産である臆病な自尊心を携えて好きに生きてみたらどうだ。

案外、自分らしさなんてそのへんに転がっているかもしれない。

0 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 5 (0 投票, 平均点: 0.00,  総合点:0  |  
投票する為にはユーザ登録する必要があります。
Loading...

「自分好きだけど自分て誰さ/自分大好き/いせ」への5件のフィードバック

  1. こんな境遇にいる私を救ってほしいのか。あるいは比較した結果変えようとしているのか。自分が何をもって自分になってしまったのか理由付けして納得するのは、いかにもそれっぽくて安心しますよね。本当にそれが原因でそうなったのかなんてわからないのに。

    最後の部分の文章がとにかく眩しいです。羨ましい。
    いつからこんな文章かけなくなったのかな、私は。少なくとも自分語りではもうしなくなりましたね。

  2. 自分大好きというテーマで、曖昧だけれども間違いなく大切な自分が紛れもなく大切にされていたという過去、そしてそこから祝福を持って追い出されるという絶対的でありながら揺らいでいる境界線みたいな、迷いつつ途を探すような、悲しみのないお別れの様な文章だったように思う。
    自分を見つけるということが大切なことであるのか否か、どう足掻いても絶対的に自分を中心に据えてしまう私にはもはや考えることすらもない命題は、理解をしろと言われれば難しいけれど、突き放すだけの覚悟もなく、ただこのまま明るい音の鳴る方に歩いていって欲しいなと思った。

  3. 自分の家族のことを向き合ってそんなに素直に書けることがすごいなと思いました。
    その人らしさは、その人の生きてきた環境とか周りの人とか、その人を取り巻いてたすべてが影響して作られてるって思います。私は、いせさんの語り口調とか、文章の雰囲気とかから、いせさんらしさをすごく感じます。両親の輸入品って思うかもしれないですけど、それを身につけたいせさんらしさも魅力のひとつになれるんじゃないかなって感じました。

  4. 自分語りなんかして、他人は全く興味ないだろうと思ってしまうって、前も誰かからコメントされました。でも他人のために書く文章って、何なのでしょう。食べものとか商品のレビューとかも、書いた人の正直な感想が知りたくてわざわざこっちから検索して見に行くし、ブログとかも、芸能人のものじゃなくても面白くて読んでしまうことがあります。会議とかで求められるのも、みんながよろこぶことじゃなくてその人目線の新しい意見だと思います。他人のことなんか気にしないで自分!自分!って文章書いた方が楽しんでもらえるような気がしています。そうは言いましたが、私は楽しんでもらうつもりは一切なくて自分のためだけに書いています。書こうとすると自分でも気づかなかった考えに気づいて成長できたような気になるからです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。