拾ったら、/自分大好き/エーオー

拾ったら 手紙のようで 開いたら あなたのようで もう見れません
笹井宏之『えーえんとくちから』

 とてもとても、わかる歌。この並びを見ただけで胸がいっぱいいっぱいになって顔を覆ってしまいたくなる。
 これは私のだいすきな笹井宏之の短歌なのだけれど、まだ、いつもいつも“あなた”のところに“わたし”を入れて詠んでしまう。

「拾ったら 手紙のようで 開いたら わたしのようで もう見れません」

 わたしは、私がよくはみ出る。友達はいるしみんなが好きだから一人ではないけれど、やっぱり独りだと思っているかぎりさびしい。孤独はおはなしの燃料だから必要、でもそれを上回るほどにさびしいと、私の範囲を見あやまって、でろーんと。小説をみても映画を見ても漫画を見ても、そこに私を見つけてしまう。共感といえばそれまでなのだけど、このかなしみは誰のものなのだろう。

 人に会うとおつかれさまって言ってしまうのは別に相手をねぎらう訳でなく、わたしがいつも荷物が重かったり眠かったりして疲れているから、みんなも生きるだけでさぞ疲れているんじゃないかと勝手に自分の物差しで測ってしまうわけです。
 ただ、自分と相手は違う人間だから、何かが起こったときの受け止め方はもちろん違って、私の妄想の相手の苦しみイコール相手の本当の苦しみではないから、いっさい間違っている可能性も、余計なおせっかいをしてしまう可能性もあって、一歩間違えると危ない。
私はいつも私を探している。取り憑くための感情を探している。他人のものであるはずのほころびや隙間に私がはみ出して正しいかたちを見えなくしてしまう。自分しか見えていなくて、本当に誰かのことを考えることができない、かもしれない。
 でもなあ、当たっているんじゃないかと思ってしまうのもやっかい。

 人間と言うのは、どうも集まれば補い合う性質があるようで、甘ったれた話なんですけど疲れたと言うと(疲れすぎかよ)「大丈夫?」って言ってくれる人がいるし、転んでひとりで大笑いしてると代わりにまわりの子が心配してくれる。
 小学生のとき、運動委員で一緒に掃除をしていたAちゃんが「お前遊んでただろ」と男子に言われて泣くのをこらえた顔を見たとき、離れたところから見ていた私のほうが泣いてしまってクラス中の人に驚かれたこと。あれは謎だったね。こう、よくあるじゃないですか。「あなたが代わりに泣いてくれたから、私は大丈夫」とかいうやつ。まって。悲しい人が泣ける世界で在って。私はいっつもよく笑ってよく怒ってよく泣くので、本当にそうしたい誰かのぶんを奪っているんだなあと罪悪感。私が心配されてしまうけど、その人が泣いてみんながその人を助けてくれるのが一番いいのになあと、思っているんだけどね。ずびずび、うええ。

 どうも感情に振り回されて、私は誰かを疲れさせて削って奪って生きている。
 こういう自分が好きかというより、もうしょうがないからこういう私で生きるしかない。

 私が好きになれる私は、水のようになって人の間で生きられるわたし。助けがないと生きられないのを、知っているのはいいところかも。わたしはこれからも誰かを削る。ごめんね、しんどいときは離れていいよ。そのぶん削られても大丈夫なように心を満たしておくからさ、どんな喜びも怒りも悲しみもうんうんうなっていけるところまで一緒に想像するからさあ。拾ったら 手紙のようで 開いたら。いつかしぜーんに、“あなた”と入れて詠める日がこないかなあと夢見ている。

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