考察/自分大好き/温帯魚

少々長いが、まず始めに引用から始めたいと思う。引用元は前回も紹介したカレー沢薫の「ブス図鑑」からだ。

 

(前略)じゃあ、そういうお前は結局どうなんだ、と言われるかもしれないが、日本において「自分の容姿を自己評価する女は全員ブス」なのである。例えば、「私はブスです」と言えば、「他人に『そんなことないですよ~』と言って欲しいだけだろう。なんて根性の曲がった女だ、それが顔にも出ている。ていうか本当にブスだ、死ね」となり、「美人です」と言えば「自分で自分を美人と言うなんて、なんて嫌な女だ。性格の悪さが顔に出ている。ブスだ、死ね」となり、「普通です」と言えば、「その顔でよく自分が普通だなどと思えるな、ブス、死ね」となるのだ。つまり、卑屈でも自信満々でも公平でも許されず、とりあえず死ぬしかなくなるのである。

 

つまり、自己評価を他人に話すことなど今の時代において愚の骨頂、飢えた獣に生肉を差し出すようなものだ。無自覚あるいは自覚的なマウンティングが横行する現代で自ら腹をさらすことはそれすなわち死あるのみ。コメント欄は「わかる~」で埋め尽くされるが、皆が皆心の中で「だからお前はダメなんだよ」とメモしているに違いない。あるいはそんなにみんな興味ない。そもそもリアクションし辛い。

そう、今回のテーマ「自分大好き」に正面から取り組んではならないのだ。もしみんなのことをもっと知りたいや自分のことを分かって欲しいというのなら、テーマを「エロス」にして性癖の暴露大会をしたほうがまだ盛り上がる。談だが最近女性の足元がいいと思うようになった。より正確に言うならば靴と足首の関係性、装飾された部分とシンプルな肉体のコントラストなのだがここに書くには余白が少なすぎる。話を戻そう。

 

別に皆さんが自分を好きということを攻撃しようという訳ではないのだ。でも自分のために何もしないだろう、って話。不完全な文化。自分は好きだけどだからって動けるほどではないよねっていう、なんていうかレベルの隔絶。一つの行動で幸福になっていく自分と不幸になっていく自分が同時に居て、その波を行ったり来たりする中で意識が疲れていく。それが引き伸ばされていくようで気分が悪い。本当に必要なのはそれらをできるだけ一致させることだろう(それがどっちによるかは別として)。

 

そもそも「自分大好き」というところに理由というものは無いのではないだろうか(これは嫌いという話も同じ)。もちろん「いや俺は自分のここが大好きだとはっきり言える」という人もいるかもしれないが、しかしそんな人でもその部分がなくなって自分が嫌いになるかと言えばそんなことはないだろう。

自分が好きだという感情と自分の肯定は、ある程度関係していても完全には重ならない。アイデンティティがなかろうが自分自体がなくなるわけではない。逆に言えば幸せになれないのは変な奴だからではなく、単純に能力不足だ、とまたわき道に逸れた。言いたいのは自分のどこが好きかという話はそもそも的外れだということだ。

 

思った以上に話がまとまらない。完全に自分が好きな人はフィクションの中にしかいないのだろう。だからなんかみんな嘘っぽい、ということにしておこう。無視されているようでなんかいやだ。

私に関しては、自分大好きな自分が、嫌い。ということで。

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「考察/自分大好き/温帯魚」への2件のフィードバック

  1. 引用から始まって自身の考察に行くという形はやはり読みやすいですね。ちょっと脇道にそれすぎな印象もあるけれど。
    内容はめんどくさい考え方するなぁ〜って感じです。頭よさそう……。という分とっつきづらいというか。まあとっつかれることは目標にしてないのだろうけど。

  2. 私の場合ですと、自分の好きと言える部分がなくなれば自分が嫌いになってしまうと思います。

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