さよなら、キャンディー。またきて、夢。/共作/エーオー

※筆者の技量不足によりθnさんの元のプロットとかけ離れに離れてしまったことを深くお詫び申し上げます。

 例えば、西日に柔らかく包まれているとき。スプーンをかき回すと浮かんでくる紅茶の葉っぱのように、杏奈との思い出が音もたてずにあらわれる。観覧車のようにひどくゆっくり回転する間に、思い出した会話をなぞって磨いている。硬くなるように。もっと光るように。ちゃんと残るように。
 博物館の恐竜の化石を私はいま一人で見上げている。平日の午前中だから私以外の人はいなかった。
頭の中でまたスプーンをまわす。高三の真冬、杏奈に連れられて一度だけ来たことがある。首長竜の太く大きな肋骨が内包した空洞を見て「あの骨をテントにして、キャンプとかしたいね」って喋ったこと。タイムスリップして二人で哺乳類を捕まえて肉を食べて、星座とか見つけようぜと言い合った。
 杏奈の左手にはもうすぐ用を果たさなくなる単語帳が握られていた。大学進学を周りの大人に反対されていた彼女に、せめてものエールとしてプレゼントしたものだ。「好きな場所で覚えたら記憶に残るとか、ないかな」と右手で私の手を握りながらページをめくっていた。
「麻子!」
少し低めの声が響く。ほんもののあの子だ。三年ぶりに見た姿は少し大人びていて、肩で切りそろえられた髪が輝いていた。一歩一歩、杏奈が近づいてくるたびに、凍るみたいに身体がかちこちになる。

「博物館のガクゲイインの資格を取りたい」と言って杏奈が上京するとなったとき、それはもう周囲は大騒ぎだった。そもそも、高校に通う生徒、女子となれば半数以上地元に留まるくらいには閉鎖的な場所だったし、そんな職業があることをこの街のみんなは大人だって老人だってほとんど知らなかったと思う。どう丸め込んだのかわからないが、あっという間に彼女はトーキョーにいってしまった。
「大学、どう?」
「おもしろいよ。好きなことを勉強すんのは楽しい。この春休みもレポート出さなきゃいけないから地獄だけど」
「サークル、とかは?」
「サークルは入ったんだけどあんま行ってない。飲み会、だんだんめんどくさくなって」
「そうなんや。なんだあ、もっと中身も都会っ子になってるかと思った」
 博物館からバスと電車に揺られて二時間強。雪かきされた道を歩く。この街では杏奈の通う大学付近ではおおよそ見られないであろう程の高さの雪の壁がその両脇にそびえたつ。
「でも、むこうにも森とかけっこうあるんだよ」
 相変わらず歩くのが速い。影法師が置いてかれるんじゃねえか、なんて近所の和久井さんによく言われていた。肩で風を切って歩く杏奈の頬に艶っぽく赤みが差していて、それが寒さによる紅潮なのか化粧のせいなのか、私には分からなかった。
「麻子、彼氏できた?」
 多分、お互い一番気になっていることだった。なるべく普通に聞こえるように声音を作った。
「残念ながら」
「そっか。私も」
 短い二言が雪に反射して返ってくる。しばらくの間、会話はなかった。
 杏奈が振り返った。白い空が電線でひび割れていた。
「就職、こっちでしようかと思ってさ」
 沈黙が頬を張った。冷気で鼓膜がキーンと鳴りつづけている。

***

「もうすぐお父さん帰ってきちゃうから、二人で一気に入っちゃいなさい」
 ご飯を食べ終わると私たちはそそくさと脱衣所に追い立てられた。寒さにがたがた震えながら服を洗濯機に突っ込み、急いで風呂場に飛び込む。
「うわっ、このシャンプー久々に見た。墨のやつ。向こうじゃ売ってないよ」
「これ毎年、保科さんがくれるんよ」
直後に杏奈が化粧落としを忘れたことに気付きバスタオル一枚つっかけて廊下をダッシュする羽目になったけど、それ以外は問題なく済んだ。ようやく髪を洗い終えた私が湯船の方に向かうと、杏奈がスーッと動いて避けた。それからしばらく空気を抜かれる浮き輪のように私たちは湯船の中で脱力していた。
「こっちに帰ってきたらさ、また麻子と遊ぶようになるのかね」
「……どうやろね」
「そもそも就職先あんのかなあ」
「うーん。ないことはないだろうけど」
「ってかさ、織部と平山さんがデキ婚したってホント?」
「それだいぶ前。たぶん今もっといるよ。だいたい同級生とかとくっつくしかないみたいだし」
「うわー」
 杏奈が両手で顔をぬぐった。みるともなしにそのほっぺたを見ていた。
「それなのに、麻子はなんもなかったんだ」
 身体の輪郭、杏奈に近い左半身が強烈に意識された。床のタイルの境目を見つめるしかなくて、お湯から出ている肩の部分が震えるような気がする。指が二の腕に食い込んだ。立ち込める湯気で視界が曇る。そして、杏奈のまっさらな額と瞳がすぐそこまで迫っていた。
 赤い唇の、皺の一本一本がくっきりと見えた。それががぱりと開いたら、もう駄目だった。
「やめて!」
 私は、風呂の蛇口に後頭部をぶつけて、そのまま後ろへと滑ってがぼがぼとお湯に溺れながらもがいた。柔らかいお腹を蹴ってしまった気がする。それでも何とか這い上がって、咳き込みながら湯船の縁に腕をついた。尾骶骨の痛みが今になって響いてくる。
「……ごめん」
 その姿は、もうただの白い肉の塊に見えた。
 それからどれくらいの時間がたったか分からない。玄関が開く音で我に返った。本当は、杏奈は今日うちにとまるはずだったけど、帰ってきた父に車で彼女の家まで送ってもらうことになった。
私は裸足で玄関に立っていた。身体が冷えて、でも心には到達もしないから、どうにでもなれと思った。

 二月の下旬、杏奈は東京に戻るからと洗濯物を取りに来た。
「無事就職出来たら連絡する。気が向いたら麻子も旅行とか、行ってみなよ」
「うん」
 目の前にいる彼女をぼーっと眺めていた。あの瞬間、これまで私が杏奈の顔に色とりどりのピンで留めていたものが、全部すべり落ちてしまって、知っている人の顔のはずなのにまったく違うものにみえた。
 彼女が折りたたまれた紙きれを取り出した。そうして、私のポケットにねじ込む。
「なにこれ」
「見ても、見なくてもいいよ」
 じゃあね、バイバイ。と杏奈は笑顔で手を振った。ためらいなく風を切って歩いて、もう彼女は見えなくなった。

***

 私はまた一人で恐竜を見上げていた。星空を思わせるような暗いこのコーナーで、力いっぱい首を逸らして首長竜の肋骨を見る。
 スプーンを回す。これが最後だ。ほねほねテント、肉を焼くこと、星座を探すこと。茶葉のようにくるくる回って終わりの観覧車みたいに光って硬くなった。口から吐き出す。飴玉くらいの大きさの琥珀になったけど、もう持っているのも苦しくて痛くて耐えられないから、さよなら。
 あのときここに降り積もった単語。私のあげた単語帳。その一ページだけ破り取られて、いま手元にある。杏奈が最後に渡してくれた言葉が、ありがとうなのかごめんなさいなのか、もっと別のものなのかも確かめないまま琥珀をくるむ。両端をねじってキャンディーみたいに。そして、肋骨の下に投げ込んだ。
 手を合わせる。これが、いつか化石になりますように。特別光っているのを誰かが見つけてくれますように。二人はずーっとずーっと仲良しでしたという夢を私はもう見ることが叶わないから、せめて他の誰かがこの光に夢を見てくれますように。
 私はいつの間にか膝をついていた。耳元でごうごうなるのは、空調なのか私の喉から鳴る音なのか分からない。お湯のように涙が熱くて手のひらが焼けて痛かった。かわいそうな、杏奈。あなたが好きだったこの場所に、きっともう二度と戻ってこれないんだね。

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