良い師よ/遺書/ほのほ

遺書でない文などありません。

明日になれば、今日の僕は死んでいるでしょう。例えば今回、小説を書いていないのだって、「文才があるならこれまでの人生で文学賞のひとつくらいとっているはずだ」などという親の嘲笑に気が萎えたからです。嬉々として小説を書いていた僕は、今のところ死んでいます。書きためてきた小説は、まさしくこれまでの僕の遺書となるでしょう。

毎回の文にしたって、読んでくれる人の心に少しでも爪痕を残したいと思って書いています。これは、僕以外の誰かの(もしかしたら貴方の)心の中にいる僕からの遺書です。僕が死んでも、あるいは僕が死なないために、あわよくばいつでも開けるように、証を残しておいてやりたい。もっとも端から、生きてなどいないのかもしれませんけれど。

さらに言えば僕が今日放つ言葉は、今日の僕の遺言です。今の僕を留めておけるのは今が最後だから。それがどれほど些細でも必然、一番最後、最新の生の記録です。笑顔や仏頂面のひとつにしたって、その一つ一つが遺影と言うに相応しいのかもしれません。詭弁でしょうか。詭弁かもしれません。

ところで誰かの中にいる僕が死んでしまうのと同じように、僕の中にいる誰かが死んでしまうのも、これはもちろん悲しいことです。とは言えたいてい後者は無意識だから、これがまたなんとも憎いところなのですけれど。

うんと遠回りをしましたが、つまりお別れはいつだって寂しい。結びついてたかだか数ヶ月、一言も話したことのない方だって沢山いましたけれど、それでもやはり寂しいものです。こちらからそちらへは、愛はあったと思っています。もしかしたら恋だったかもしれません。とてもどきどきしていました。もっと沢山の刺激や感動を願わくば浴び続けたいと、名残惜しくてなりません。

ですからそれだけに、今回の「遺書」が鬱憤の吐き捨てとなっているのは、なかなか胸が痛みました。人間、誰でも後ろ手にナイフを隠しているものです。ナイフをかざすのは楽なことです。怖気づいた相手に逃げられるか、同じく殺気立った相手と争いにもつれこむか、そのどちらかだからです。

かと言ってナイフを捨て置いているのも、これはまた愚かなことです。これは立ち向かう権利の放棄にあたるからです。いいえ、それは半ば義務のようなものです。人間が人間として生きるということです。

では何が大切なのかと言いますと、僕はこれは、隠したナイフをぎゅうと握りしめておく覚悟であり、忍耐ではないかと思っています。ナイフをかざせばすぐさま問題は解決へ向かうでしょう。ナイフを捨てれば問題を解決する必要はなくなるでしょう。

そうではなく、立ち向かう権利は背負ったまま、なんとかナイフを使わずに解決を試みる。人間存在の意義はこういうところにあると、僕は思うわけです。

だいぶ話が逸れましたが、遺書を続けます。今回はとりわけ、もう会えなくなる皆さんに指向しているつもりです。忘れないでほしいとか、偶には思い出してほしいとか、そんな烏滸がましいことではなくて、間違いなく皆さんが最高だったということを、ただ僕の言葉として残しておきたかったのです。

なかなか満足しております。ありがとうございました。

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