託したもの 託されたもの/遺書/あおいろ

目が覚めると、そこにあるのは見知らぬ真っ白な天井だった。

なんて始まりはなんだかありきたりな気がしてしまうが、それが事実だったんだから仕方がない。

 
ここはどこだ、と考えながらも首だけ回して周囲を確認する。仕切られた空間。どこもかしかもさっぱりとしていて綺麗で清潔感がある。きっと、いや、確実にここは病院のベッドの上だろう。にしてもどうして自分がこんなところにいるのか分からない……。

どうしたものか、とりあえず体を起こそうか、そう思ったとき初めて体の節々が痛いことに気付く。仕方がないので誰かが来るまでそのまま待つことにした。

 

しばらくして看護師がやってきて、自分が目覚めたことに気が付くと先生を呼んできますねと言って出ていった。

「どうもね、こんにちは」
「はぁ、こんにちは」
「どうですか、身体の調子は」
「痛いです、あちこちが」
「そうですか……しばらくは安静にしていてくださいね」

やってきたのは、50代くらい、人のよさそうな男の医師だった。

「どうして今病院にいるのか、覚えていますか?」
「どうして、って……」

口を開いて、言葉を続けようとするが、何も、紡ぎ出されない。当然のようにあるはずの、眠る前の――この場合は気を失う前の、の方が正しいかもしれないが――記憶が何もない。

なに?なんで?どうして何も思いだせないんだろうか?
もしかして、事故にあったとかそういうことなのだろうか。それで頭の打ちどころが悪くて記憶が飛んでったとか?

動揺したように「えっ……えっ……」を繰り返すことしかできない私に、医師はそうですかと静かに言う。
「無理に思いだそうとしなくて良いですからね。とにかく身体の調子が一番ですから。快復することを一番に考えて過ごしてください」
「は、い……」

立ち去っていく医師を見ながら、自分はそう呟くので精一杯だった。

 

 
病院で過ごし始めてから1週間ほどが経過した。この1週間で分かったことがある。
自分は、どうして病院にいるのかという原因はおろか、自分が何をしている者なのか、これまで何をしてきたのか、今何歳なのか、どこに住んでいるのか、名前は何なのか……という、自分にまつわるありとあらゆることを覚えていなかった。

つまり、記憶喪失ってやつなんだろう。

まさか自分が、とは思ったが、どれだけ頑張っても欠片も思いだせないから、結局その事実を受け入れるしかなかった。

 
一方、身体の方は想像より早く快方に向かっていた。今では全く何の違和感も無く体を動かすことができる。
だから、とても不思議であった。最初は事故か何かで記憶を失ったのだと思っていたが、それにしては身体はそんなに損傷を負っていないように思えたのだ。

そのことを医師に伝えたところ、「そうですね、そろそろいいかもしれません」とよく分からないことを言われた。
「はい?」
「では、あなたに何があったのか、わかる範囲のお話をしようと思います」

あなたに何があったのか。

急に、鼓動が速くなるのを感じる。1週間考えても全く思いだせなかったその答えを、こんなにあっさり知ることが出来てしまうのか。戸惑いと恐怖の反面、早く聞きたい好奇心に駆られる。

「お、お願いします」

「あなたは恐らく、自殺をしようとしたのかと」

「じさつ……」

 
可能性の一つとして頭をよぎっていた言葉だった。
なるほど、では自殺をしようと試みたけれど死にきれなかったというわけか。

「はい。あなたは、ビルの屋上で気を失っているところを発見されました」

「なるほど…………

 

……んっ???」

屋上?えっ、なんで屋上?飛び降り自殺なら、ビルの下にいるはずじゃないか???

「なので、自殺をしようとした、とお伝えしたんです」

ちゃんと靴はそろえて置いてあった。遺書?らしいものもちゃんとあった。でもあなたは飛び降りておらず、屋上にいるまま気を失っていた。だから、自殺は未遂だったのではないか。
混乱する私に、医師はそう伝える。

待って、意味が分からない。そうなると、私は実行に移す前に倒れてしまったということなのか。でも、そうするとこの記憶喪失が説明できなくないか?

「でもこれは私の推測の域を出ないので、あなたに、見ていただきたいものがあるのです」

そう言って医師は一枚の折りたたまれた紙を取り出して私に渡した。そこにははっきりと、“遺書”の2文字が記されていた。

「遺書……」
「もしかして、あなたには、なにか書かれているものが見えますか」
「え?」

医師は困ったように眉を下げる。

「実は私たちには、何も書かれていないただの真っ白な紙にしか見えないんです。でも、あなたは発見された時、その紙を大切に握っていました。だから、あなたが見れば何か分かるのではないかと思いまして」

文字が、私にしか見えない?そんなことってあるんだろうか。
訝しく思いながらも、私は遺書と書かれたその紙を丁寧に開いた。

 

 
遺書

今日、私はあなたの元から去る決意をしました。
あなたは、とても辛い人生を今まで送ってきたのだと思う。ことあるごとに、私が消えればいいのにと言っていましたね。
それを言われるたびに、私は辛かった。どんなに辛いことがあろうとも、あなたの人生はひとつしかなくて、そこから逃れることはできない。それなのに、あなたは私に消えろと言った。
あなたは私で、私はあなたなのです。私が消えたら、あなたも消えたことになります。
でもね、もし私が消えることであなたが心機一転新しい一歩を踏み出せるなら、私はあなたのために消えてもいいのかもしれないと思いました。
今までありがとう。これからは新しい人生を歩んでいってください。
生きてください。

あなたの記憶より

 

 

読み終わって、私は頭を抱えた。
混乱が、大きい。何が起こっているのか、理解が追いつかない。

これが……この遺書が正しいとしたら、これを書いたのは、私の記憶、ということだろうか。
私が、自分の記憶が消えるように強く願って、その結果このようにすっぽり自分の記憶だけが思いだせなくなっているのだろうか。
記憶を消したいほど、辛い何かがあったのだろうか。
それでも、死ぬのではなく生き続けたいと、図々しくも思ったのだろうか。

 

 
「先生」
ぼたり、と大粒の水滴が目から零れ落ちた。

「私、生きようと思います」

 

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