私はカーペンターズあたりで。/遺書/どみの

遺書ほど身勝手なものはない。

死人に口なしとよく言う。そのない口が唯一喋るのが遺書であろう。それは、言うだけ言って、返事を全く受け付けない。その言葉を受け取る人は否応なしに受け入れるしかない。法律としても優先される事項であり、無視されることはない。

もし法律で決まっていなかったとしても、その言葉に従わないことは、罪悪感を掻き立て何もしてないはずなのに、こちらがまるで悪者になってしまったような気にもなる。

 

遺書は、身勝手を承知しつつ、故人はちゃっかり書くものである。

人は後悔なく死ぬのが理想的である。死にたいと私自身がまだ思えないのは、とりあえずやりたいことが残っているからであり、逆にやりたいことがなければ、いつ死んでもいいと思うと言うのだろう。しかし、すべての人が悔いなく死ぬことは出来ない。どうにか少しでも、死んだ後の後悔が少なくなるように、願望が叶うように、気休め程度に書くのである。だって死後の世界は故人にとっては知ったこっちゃない。

しかし、存在するが見えない、でもみんなが従ってくれるという遺書と言う言葉の圧力に後押しされ、ペンを進める。

それが、そのちょっと書いたものが後に大きく他人の人生を変化させるかもしれないと考えると恐ろしい。そこを理解して皆書いてきたのだろうか。それをも分かっていて遺書を残してきたと言うならば、末恐ろしい。

気持ちを楽にするため身勝手に書くのは十分理解できる。しかし、安易に後悔を、気持ちを、残すべきではないし、伝えるべきではないような気もしてきた。私はもし死ぬとなったらどちらの選択を選ぶのだろうか。

 

そんな遺書問題を平和的に解決するには形に残すべきではないのかもしれない。

紙や録音、データ化など、目に見える形に残す方法が正しいか、どうなのだろう。

むしろ、その場にいた人しか聞いていない、刹那的な言葉に乗せることのほうがいい。受け取る人にとって、残す側がどんな立場かによって、記憶の鮮明度は異なるし、人伝いに伝わっていくならば、尾びれ背びれついて、元の原型すら無くなるかもしれない。でもそれぐらいがちょうどいい。真実は分からない。死人に口なしであるから。

その程度の強制力の、かつ変化しても大丈夫なちっぽけな後悔や願望を述べる。その程度でいいんだ、遺言というものは。

 

告別式のBGMは、あの曲にして、程度でいい。それぐらいがちょうどいい。

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