『バックラッシュ!」要約/jboy

『脳と科学と男と女 -心脳問題〈男女脳〉編』 山本貴光・吉田浩満

 21世紀は「脳の世紀」と呼ばれる。急速に発達した脳科学によって、様々な分野での研究が進んでいるが、男女の性差に関する研究も盛んにおこなわれている。一般人には専門書はさておき、我々が手軽に触れられるのは研究成果を入門者向けに解説した啓蒙書や、それらを応用した恋愛論や人生論ということになる。本稿ではこうした脳科学に基づくとされる性差についての言説を読み解く際に、念頭に置いておきたいポイントを簡単に述べたものである。

 脳の性差についての言説に当たっていくと、結局統計的にみると生物学的な性差に応じ脳にも男女の性差が確認できるが、現実を見ると人それぞれである。では実際に脳の性差にはどのようなものがあるかというと、二つの観点がある。一つ目は脳の性分化の研究である。受精卵から胎児への成長に伴い、どのように変化が生じるかというものである。もう一つが生後の脳の構造や機能から性差を調べる研究である。これらはMRICTなどによって、脳の形や機能の違いを調べるものだ。こうした研究から実際に、男女の脳で構造的な違いがあるということが分かった。他方で機能的な面では、言葉を用いる際に活発化する脳の部位が違うという観察例があったりする。以上のように、脳科学では生化学や神経科学の観点から、脳の性差を明らかにするということが目的となっている。

 これらを踏まえて、「脳科学に基づく」と称している男女の人生論や恋愛論にみられる情報に出会った際に、どう接したら勘違いや思い込みを避けられるだろう。またどのようにそれらを位置づけたらよいのだろう。こうした問題を考える際に、抑えるべきポイントが二つある。

 一つ目は統計との接し方である。例えば男性は「システム化」(個々の事例を全体の中に位置づけ組織化する)、女性は「共感」の能力が高いとされるが、個々人では「そうそう」と頷く人もいれば、「私は違う」と首を横に振る人もいる。要は集団を対象とする統計情報を、直接に個人に当てはめることはできないということである。それどころかあらぬ偏見にもつながる。一方で統計は信用できないとはねのけるのも、また別の間違いを招きかねない。大事なのは統計をあくまで統計として理解し、その信憑性を吟味することである。

 二つ目は「ヒュームの法則」だ。これは「~である」という事実の中をいくら検分したところで、「~すべきである」という価値判断を見出すことはできないというものである。価値判断は事実の中にあるのではなく、もっぱら我々の中にあるからである。ひとが「である」から「べきである」に移行する時には、必ずそこに飛躍がある。飛躍自体が問題なのではなく、それがいったいどんな飛躍なのかということが問題なのである。脳科学と性差の言説にも同様のことがいえ、脳科学が解き明かした「である」という事実に対し、だからといって「べきである」というような主張やアドバイスに結び付けることが問題なのである。

 

 

 

『バックラッシュの精神分析』 斎藤環

 この種の話題を論じるにあたり、精神分析の立場はつねに「ジェンダー」を前面肯定してきたことをはっきりさせ、斎藤はあくまで精神分析の立場を貫く。それはジェンダーをめぐる議論にある種の公正さを導入するためである。

 「バックラッシュ」をめぐる議論について、ある種の「実感」に訴えかける「素朴さ」や「分かりやすさ」があり、根絶しがたいしぶとさを発揮する。例えば西尾幹二・八木秀次共著『新・国民の油断』で、「生理的宿命」について述べているが、これはバックラッシュがオカルトに対して持つ高い親和性の露呈である。斎藤は、「ジェンダー」格差が少しでも不利益をもたらすような機会はより少ないほうが好ましいという、穏当な主張をしているに過ぎない。

 バックラッシャーの主張は、性差は生物学的な区別以外の何物でもないという素朴な印象論に過ぎない。しかし一方で、この素朴さが形を変え何度も反復されて、都度共感を得てきたという問題がある。こうした素朴さの一例として、内田樹・三砂ちづる共著『身体知』について検討する。両者に対し、内田がフェミニズム嫌いを装うパフォーマンスによって、そこに本質的なものがあると錯覚させること、三砂の「身体性の肯定」がはらむ政治性に無自覚な態度は、論理的に見えて前提が決定的に間違いというオカルト的なものであると評している。彼らの無責任な放言は、バックラッシュ陣営の身体的決定論を間接的に後押しする。

 ここで代表的バックラッシャーとは言えない二名を取り上げたのは、彼らのように糸の有無にかかわらず、ある種の身体論がバックラッシュを補強する可能性について警戒を促すためである。バックラッシュの重要な争点の一つは、「自然な女性性」と呼ばれるものを肯定するか否かということである。バックラッシャーたちは、女性の自然な身体性は自明のものであり、フェミニズムこそ不自然な女性性のねつ造であるという本質主義的な主張に依拠するものである。斎藤はこれらに関して、「精神分析」がとりうるある種の倫理的役割にまつわるものを主張する。精神分析は、女性性を最初から事後的に構成されたもの、即ちジェンダーとみなし、セクシュアリティを存在論の基底に据えた点に思想的独自性がある。フロイトの精神分析の出発点は、ヒステリーこそが、女性的自然の一典型でありそこにいかなる本質的な身体性も持たないというところである。斎藤はその意味で、精神分析は身体論のオカルト化に対し抑止効果を及ぼしうるとも考えている。

 一方で、フェミニズムと精神分析を接合させようとする試みに多大な抵抗が生ずるのは男性中心主義とみなされている偏見のために避けられないが、エリザベス・ライト著『ラカンとポストフェミニズム』ではそれにある程度成功している。彼女が主張するように、ラカン的には、男女はともに身体性において「ペニスの欠如」という不完全さをまぬかれない存在である。性差とはその意味で、不完全さの構造的差異に他ならない。だからこそ「ジェンダー」は、つねにすでに本質的な属性であるかのように、その都度構成されるのだ。そしてこうした「事後性」こそが、「ジェンダーの科学」の本質であると斎藤は確信する。語る存在である人間が、つねにすでに性的存在でもあるほかないという事後性に依拠することこそ、ラカンによるフェミニズムの可能性の中心がある。この事後性とは一回的事後性であって、バックラッシャーの主張するような本質論や決定論とは無関係なのである。

 ここでジェンダーの選択の自由とは、セクシュアリティがつねにすでに構成されたものとしてあらわれるために、事後的に自らのジェンダーを主張する権利と言える。精神分析は、バックラッシュ批判という文脈において和解と共闘が可能であるばかりか、さらなる倫理観の構築の可能性をも秘めている。

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