喜劇王は笑う/自分が今情熱を注いでいること/温帯魚

「Titina」という名前をご存じだろうか。この言葉は、成績不良でもまがりなりに文化について勉強する僕が知る中で最も好きなエピソードの一つに関係する言葉である。

と言ってもこれから始める話の裏付けを今の僕は持っていない。もう題名さえ忘れてしまった本に書かれていた、それでも記憶に残る一節だったものだ。グーグル先生に聞いても明確には出てこない、それでも僕の中で何かしらの指針になっている話。そんな与太話をこれから始めようと思うけど、だからまあ、冗談半分に聞いてほしい。

 

 

とはいえそんな名前は聞いたこともないといっても、この動画を見ればどこかで聞いたことがあるとピンと来る人も多いだろう。

 

https://www.youtube.com/watch?v=OUxg162QbDw

 

そう、喜劇王チャールズ・チャップリンが作った名作「Modern times」のワンシーン。無声映画から有声映画へと世界中の熱が移っていった時代に、それでも無声映画を愛した彼がフィルムの中で初めて声を届けた歌。その象徴的な曲名こそが「Titina」である。

 

でもこの曲の音楽性が好きかと言われると、僕は実はそうでもない(さすがに少し古臭いと感じてしまう)。乏しい映画鑑賞の中で答えるとするならば、映画音楽の中で一番好きなものはと聞かれればボブ・フォッシーの「ALL THAT JAZZ」でラストシーンに唄われるサイモンアンドガ―フィンクル「bye bye love」の替え歌だし、作品そのもので言うならばトーマス・ヤーンの「ノッキン・オン・ヘブンズドア」だ。監督ならラース・フォン・トリア―。

 

でも僕は「Titina」という表現を素晴らしいと思う。この名曲にあるものは一つの謎であり、嘘かもしれない物語であり、まぎれもない歴史だからだ。

前述した通り、「Modern times」は無声映画から有声映画へと変遷する流れの中で作られた作品である。より正確に言うなら他の映画はほぼ有声映画へと移り変わり、「Modern times」が発表されたときは既に物珍しい存在ではなくなっていた。

しかしチャップリンは当時無声映画にこだわっていた。これに関しては当時の同じような有識者のように映画における音を不必要なものと考えていたのかもしれないし、あるいは声が付くことによって彼の象徴的なキャラクター(白塗りにちょび髭で帽子をかぶったやつ!)の印象が崩れてしまうのを恐れたという話もある。なんにせよ、しばらくは彼は無声映画を作り続けた。

だが観客はチャップリンの声を聴きたかった。中には彼の声は聴いていられないほど酷いものなのではないかと邪推する人もいたらしい。頑なに声を発しない彼に対し、群衆は期待と懐疑を寄せる。「彼はいつ、古臭くつまらない無声映画から新しく面白い有声映画に乗り換えるのだろう。それともこのまま黴の生えた無声映画を続けるつもりなのか?」

そんな視線の中で、しかし彼はついに声を発した。彼自身の声で、観客に向け表現した。

 

ところで先ほどの動画を見て、歌詞の意味が分かった人はいるだろうか。

もちろんいないだろう。だって彼はでたらめに歌っているのだから。「Titina」が歌われたのは要約するとこんなシーンだ。

チャップリンが扮する男は、連れ合いの女性と共に酒場で働くことになる。彼はステージで歌うことになったが、緊張で歌の歌詞を忘れてしまうのではないかと考える。そこで袖口に歌の歌詞を書き、途中でそれを見ることでカンニングできるようにすることを思いついた。彼はカンニング用の袖を仕込み意気揚々とステージに現れるが、余りに勢いが良すぎて前奏の踊りで袖口を飛ばしてしまう。困った彼はそのまま出鱈目な歌詞を歌いパントマイムでその場を盛り上げた、という話だ。

話としてはよくできていてかなり面白い。さすが喜劇王。ただちょっと待ってほしい。この話の中で、彼の歌声は本当に必要だったのか?なぜ今までのようにパントマイムだけで表現することを選ばなかったのか?あるいは、初めて観客に彼自身の声を聞かせるとき、なぜ彼は歌詞のない、意味のない歌を選んだのか?

 

もちろんここからの話はさっきも言ったように裏付けのない話である。恐らく現実はもっとくだらない理由でできているのかもしれない。

つまり喜劇王は、愚昧な観客を笑ったのである。観客があれほどまでに求めた声はシーンにおいて不必要な、あってもなくても構わないものだった。当時の群衆に対して、彼は求められたものを、最も無意味な形で提示した。あまりにも鮮やかに、チャップリンは観客の無能を知らしめたのである。観客が熱狂した有声映画に対して、声は何の役にも立っていないことを表現したのだ。

冗談のような皮肉である。あまりにも圧倒的な発想の転換によって、喜劇王は映画を表現したのだ。

 

もちろん私はだから無声映画が素晴らしいと言っているのではない。前述した通り私は有声映画のほうが好きだし、なにより「Titina」自体が表現として有声映画を肯定するに有り余るだろう。

私は何かに情熱を注げられるほどエネルギーのある人間ではない。本も映画も音楽もゲームも、他人に誇れるほどやったと自分で思ったことは無い。しかしそんな私でも惹きつけられて止まないもの。人間が作り出した素晴らしい表現を探求することに対してだけは、私は情熱を持っているということができる。

かもしれない。

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