バックラッシュ!要約/眉墨

〇山口智美「ジェンダー・フリー」論争とフェミニズム運動の失われた10年

1995年前後は、日本の女性運動にとって重農な転換点だった。94年には「男女共同参画」審議会がつくられ、その中で「ジェンダー」や「ジェンダー・フリー」、「エンパワーメント」などの言葉が新聞で取り上げられるようになった。

一方で、96年に「行動する女たちの会」が解散したことを受け、「フェミニズムは終わった」「ポストフェミニズム」をテーマにした記事もよく見かけた。

70年代から続いた「行動する女たちの会」は、政府による「男女共同参画」を目的とした諸所の活動により新しい会員が訪れることがなくなり解散、「性差別撤廃」や「性別役割分担」などにかわって、わかりづらいカタカナ言葉が多く用いられるようになった。

女性学が大学でも扱われるようになると、男性学者たちが参入しやすい状況となり、従来の女性運動にかかわってきた層よりも、行政と女性学者、男性のジェンダー学者が「男女共同参画」を引っ張ってきた。

しかし、和製英語である「ジェンダー・フリー」は、文脈によって内容が変わるようなあやふやな訳しか持たず、それゆえ政府はじめ様々な研究者に都合のよい解釈がなされてきた。当然、そこには相応の反論がある。

例えば、行政主導のプロジェクト下で考案された渋谷の「ジェンダー・フリー」の概念は、不平等は市民一人一人の個々の中の問題、すなわち「ジェンダー・バイアス」にあるという問題意識から出てきたものであるとし、従来の実践を前進させる意味で、「男女が一緒に居る世界」という新しい視点を提案したが、いったいどこが新しいのか、と山口は呆れる。
「ジェンダー・フリー」教育の実践としては、第一にじぇんdナーに関する大人側の「しばり」や「とらわれ」に気づき、第二に子どもたちの保持する「ジェンダー・コード」への教師による働きかけが必要だという。
ここには、”意識”偏重なアプローチであることが明らかであることと同時に、「差別の積極的な是正」にはなっていないという問題点がある。

このように、「ジェンダーフリー」という概念の初発は、ラディカルとはかけはなれたものであり、意識にのみ焦点を当てた後ろ向きなものであった。

 

東京女性財団のハンドブックや報告書に用いられる「ジェンダー・フリー」だが、その概念は英語には存在しない。アメリカで実際にこれを使うと、「ジェンダー・ブラインド(ジェンダーを見ないようにすること)」ととらえられる。
「ジェンダー・フリー」は渋谷が教育学者バーバラ・ヒューストンの『公教育はジェンダー・フリーであるべきか?』という論文から、おそらくアメリカでも使われているだろうと引用したのが始まりである。が、実際はヒューストンはジェンダー・フリーを批判し、「ジェンダー・センシティブ」な教育を支持しており、渋谷はじめ国内の「ジェンダー・フリー」派の引用は誤りである。

しかしながら、行政主導のプロジェクトで発表された「ジェンダー・フリー」は急速に全国に広まり、その意味はさらに揺らぐこととなる。また、「ジェンダー・バイアス」の定義もばらばらで、これらの問題を語る際に混乱のもととなっている。

また、「ジェンダー・バリア」という発想まである。
「ジェンダー・フリー=バリア・フリー」と読み替えた東京女性財団の報告書が元とされているが、ここから見えてくるのは「ジェンダー=人工的な概念=悪」という図式だ。しかし、他人が作り出した概念は、かならず取り除かれなければならないのだろうか?

「ジェンダー・フリー」は、それまでの女の歴史を拭い去ることで生まれた概念であるが、その明確な意味は未だ存在しない。

 

 

 

〇小山エミ「ブレンダと呼ばれた少年」をめぐるバックラッシュ言説の迷走

(文字数を省略するため、デイヴィッド・ライマーについてはリンク先を参照してほしい)

ブレンダが日本で注目を浴びたのは、「新しい歴史教科書をつくる会」関係者や保守系総合誌『正論』などが中心となって、「ジェンダー・フリー」教育やフェミニズムに対するバッシングを激化させるようになってからだ。
かれらは双子の症例を、「ジェンダー=社会的・文化的に形成された性差」であることの反例として用いた。

マネーは、新生児の性自認は白紙かそれに近い状態であり、生まれてから比較的早い時期であれば、その子の性別は任意に変えることができると考えた。

それに対しダイアモンドは、性分化障害を持つ子どもたちは生物学的に男女どちらとはっきりしていないからどちらに育てることもできるのであり、そうした症例を持たない男女にその理論は適用しないと反論した。

だが、こうしてみるとわかるとおり、マネーが双子の症例によって語ろうとしたことは、大沢ら現在のフェミニストが主張するジェンダー論とはほとんど何の関係もない。マネーが問題にしたのは、「ジェンダー・アイデンティティ(性自認)」のみである。性自認は社会の中で自分がどこにあるかを規定する自己認識である以上、社会的・文化的に依存したものである。だが、八木はこれを強引に、「ジェンダーがセックスを規定する」を「育ちによって男女の生物学的な性別も決まるのだという主張」へと読み替えてマネーと持論を結びつける。

ここで、双子の症例とは別に、ライマーの例を挙げる。
ライマーも双子と同様、幼いころ自己でペニスを失い、女性として育てられたが、26歳になった今でも自信を女性として認識している。
この二つの症例から言えることは、人間の性自認とは生得的な傾向と社会環境の双方の影響を受けて発達するものであり、どちらか一方だけで決められるものではない、という程度のことしかない。

マネーが責められるべきは、彼の論が間違っていたことではなく、自分の理論を過信するあまり、患者を実験動物として扱ったところにある。
この症例から学ぶべきことは、本人の意思を無視して、他人が彼の性別や生き方をあれこれ変えようとしたことや、「氏か育ちか」という論争に答えを出すための道具として、無断でその人生を踏みにじったことへのあやまちであるはずだ。

人間の性とは、生物学的な要因と、社会的な要因が複雑に絡み合い影響しあうなかで意味を与えられる。そしてその決定権は本人にしかない。悲劇は、特定のジェンダーの在り方が、本人の意思と無関係に、幼い子供に押し付けられたことによって起きたのである。

 

 

 

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