渦/台風/みくじ

 

 

布団の中でぼんやりと目を擦ると、右目の目尻に異様なざらつきがあった。少しびっくりしたが、起き抜けの頭ではどうにも大したことでは無いように思えた。手探りでつかんだコードを引っ張って薄目でホーム画面の時計を確認すれば、外の暗さに反して遅い朝だったが休日なので起きることもないだろう。

そうして体を横に向けて目をつむったり薄目を開けたりを繰り返すうちに、半開きの右目からぽたりと温かい液体が流れ落ちた。目が乾いていたり疲れていたりするとたまにこうなるのだが、今日のはそれにしても止まらない。

まだ体を起こすのもひんやりとした床を踏むのもまっぴらごめんだったのだが、枕が湿ってうっとうしいので、なんとか姿見の前まで這いずると、重たい瞼を持ち上げて目を開いた。目が黒い。目と言っても瞳が黒いのは通常のことだが、そうではなく、白目の部分がぼんやりと黒っぽく見えたのだ。ぼんやりというのは僕がかなりの近眼だからであって、さらに近寄ってみるとこれはまつ毛が束になって三本も入っていた。さすがにこれでは二度寝もできない。

電気をつけてひとさし指の腹で眼球をすくうとひじきが乗った。たかがまつげも三本が束になっていればいまだかつて感じたことのないような違和感があるのも当たり前だ。眼球へのやさしさを一切感じさせないタッチをしたことで、二度寝も億劫なほどに目が覚めてしまった。

目が覚めたとは言ってもこれといって家事をしようとも思えないので、電気を消して布団に入るとなんだか考え事をしてしまうような気分だ。

 

外は台風が来ている。ざあざあと長らく雨を降らし、風も吹かせていたが、あのあなぐらのように風の音がごうごうと地面までゆらすということもなく、家の中は静かなものだった。窓の向こうで風に吹かれてあばれる木々を見てふと、あの化け物はこんな風だったと思った。

台風というのは、なんでも南の海の上でできるらしい。温まった海水は蒸発して昇っては冷たい空に突き落とされ、繰り返すうちに渦を巻いて大きくなる。人の名前を付けられるが人の手にはどうしようもできず、ただその勢いが果てるまで渦を巻き続けるだけのただの気象現象。条件がそろってしまえば勝手に渦巻いてしまう、ただの現象だったのだ。

 

「今までにあったやつとそう変わらないじゃないか」

「いっそのこと、化け物をやっつけてしまえばよかったんだ」

僕が大仰に語ったことは、誰の目にも甚だ期待外れだったらしい。まさか期待されていたなんて思いもしなかったが、ここまで平坦な反応をされるとも思っていなかったのだ。思っていなかった。思い違っていた。勘違いしていたのだ。

それまで僕は僕なりに、かつてそれなりの時間を過ごしたあの化け物について語ることは、何かのためになると思っていた。何かというのは判然としないが、例えばこれから化け物にあってしまう人や、今までにあった人、さらに言えば自分が助かるような気がしていたのだ。そうして誰のためにもならず、自分のためにもならないということを知るためだけの徒労が終わった。

 

ところで、僕は事が起こってからそこに感情が追いつくまでに、人よりも長い時間がかかるらしい。具体的に言えば、その当時は自分に非があるのか飲み込んだことが、二晩寝て改めて振り返ったとき相手を徹底して批判してやろうという気になってしまうのだ。そうしてあの徒労を終えて数日後にやってきた台風は、今更とくに役にも立たない閃きと、遅れてきた不満への追い風を与えてくれる。

よく考えれば、化け物に向けた全ては渦巻く風に巻き上げられるビニール袋のように無力だった。無意味だった。何を変えることもできなかった。そのことを僕は、あのありふれた、つまらない言葉の羅列に詰め込んでたはずだ。化け物をやっつけてしまえなんて言ったやつはそのありふれたことすら分かっていない。つまらないから分かられなかった点は僕に非があるにしたって、例えば誰でも知っている暴風雨を伴う発達した熱帯低気圧をつまらなく説明した人に、じゃあ爆撃機でそれに突っ込んでみてはどうかなんて言うようなものだ。

いつも僕らのすぐそばに隠れているあの化け物のことは、しかし実際にあった人しか知らない。知ろうともされていないのだ。僕はそれを知らしめたかったのだろうが、誰も知りたくもないことを知らしめようとしたことは結局のところ、やっぱり徒労にすぎないのだ。

 

足音がする。擦れるような、それでいて叩きつけるような音だ。タオルケットを頭までかぶり息を殺すと、じんわりと埃がしみ込んでくるような感じがして鼻がむず痒い。くしゃみなんてしたら気づかれてしまう。鼻がぺらぺらになるくらい強く摘んで、音を立てずにゆっくりと口から息を吐く。

今日こそは完璧だ。食事の痕跡だってきっちりしたし、子どものにおいがしないよう換気したし、髪の毛の一本だって残していない。こうやって死体か人形のふりをして、気づかれなければ。大丈夫。きっと大丈夫だ。死体は息をしないし、人形に鼻腔はない。

何とかむず痒さをやり過ごして耳を澄ましていると、足音が物音に変わった。パタ、冷蔵庫を開く音。駄目だ。こぷり、ワインを注ぐ音。足音。ソファのきしむ音。ああ、もう駄目だ。テーブルとリモコンの擦れる音。テレビのうそ笑いに交じって、太く汚れた喉笛の鳴る音がする。

今日もまた眠れない。これは笑い声がうるさいからではない、壁の向こうにいるからだ。

しばらくしたら、どうせあの真っ赤に血走ったぎょろ目で、本当に死んでいるか確認しに来る。そして死んでいるとわかったら、今度は黒と紫でまだらに染まる口で臭い息を吐きかけて、媚びる様に擦りつき、かと思えば地を這うように唸り、吠え立てて暴れる。それが終わる頃には、この国の北の端ではもう朝日が昇っているのかもしれない。

それだって死んだふりがばれてしまうよりずっと良い。食事の跡やにおいや髪の毛を見つけられた日には、まず何回も殺されるところから始まる。子どものにおいに敏感だから、咳を漏らしたり汗をかいたらすぐにばれてしまう。だからって身を固くしすぎてもいけない。ぐにゃりと力を抜ききって、触られてもただの肉として振る舞う。光なんて眼に入らないし、吐きかけられた息の温度もにおいだって感じない。

こんな暮らしを何年もやっているはずなのに、死体のふりはたいして上手じゃない。何もできないから死んだことにしたのに、それだって満足に出来やしない。

 

起きたらまた枕が濡れていた。目尻には結晶のように固いやにがたまっている。雨の日の薄暗い微妙な明るさは変わっていなくて、ふて寝に失敗したと分かった。夢で見た血のような液体は、コップに入れてから半日ほど放置されている。合法的に飲める年になっても、これだけは避け(・・)ていた。酒だけに。

 

今のは忘よう。何でもない。僕は何も言ってない。

大人になって1年と数日がすぎて、よくわからない祝いの言葉と一緒にもらって、1口でリタイアした。においでイメージした通りに舌にも喉にも引っかかる苦みで、やっぱり人間の口には合わないものだと分かった。唇も目も赤くして、臭い息を吐くのはあの化け物だけで結構だ。

コップはこのままだと色が残ったりするかもしれないのでとりあえず片付けるとして、一度抜いたコルクがはめられなくて代わりに丸めたティッシュを詰めた瓶はどうしようか。せっかくもらったものを捨てるのは忍びない。ジュースに混ぜて少しずつ減らそう。よく考えると僕は砂糖味の飲み物はあまり飲み慣れないから、それだって本当に少ししか飲めない。

横たわったまま考えだけが先走るが、どうせ今はコップを洗ったりジュースを買いに行く気にはならない。もっとハードルを下げよう。

まず顔を洗う。涙に含まれるたんぱく質か何かの感触がいつまでも顔にあるから気持ちよく眠れないのだろう。そのついでにあの嫌なにおいの液体をシンクに流してしまおう。

 

じっとりした床は冷たく、ついつま先立ちになる。そうすると足音を立てずにフローリングを歩いて、夢の続きのような気持ちになった。冷たいのにも静かにするにもうんざりしたので、お湯の蛇口を思い切りひねって本当にお湯になるまでを観察した。

湯気が上がって鏡が曇って、少し晴れてまた曇るのを見届けて顔を洗う。化け物の目を盗んでひそひそと暮らしていたあの頃から考えれば、なんとも贅沢だ。蛇口から好きなだけお湯が出せる。お湯は顔の表面の気持ち悪さをすぐに忘れさせた。

せっかくお湯を出したのだから、茶でも飲むとしよう。蛇口から出たお湯とティーバッグをマグカップに入れ、少し電子レンジで温めるとすぐに紅茶が飲める算段だ。

40度くらいのお湯でも紅茶が少し出るらしく、ティーバッグの角をつたって赤茶の液体が細く落ちていく。お湯に流されながらも紅茶はあくまで紅茶として落下していく。小さい時に見ていたアニメのヒーローが魔法陣の周りに起こしていた風も、こんな風にくっきりとしていて、動きだけは柔らかかった。

落ちていく紅茶をじっと見ていると、足が冷たい床と一体化していた。さすがに紅茶の魔法も解けて、600W1分30秒を選択して布団に帰った。1分間、落下のことばかりが頭を占めていた。

 

 

 

 

【感想】

これまでのスタジオの文章に比べて、かない長い。それがここまでやりづらいものになるとは思わなかった。楽観視しすぎていた。小説ともエッセイともつかないような、やり方で書いているのは以前からだが、もう少しスタンスをはっきりさせないとこの長さで文体などが維持できない。計画性を持ちたい。

今までにないこと(字数が)だったので縛りを緩くしたのは正解だったと思う。それぞれ個性のある文章で長くても読んでいて飽きなかった。ただ、提出や評価などのルールは少人数だと曖昧になりやすかったので、次のグループワークではもう少しスムーズに進めたい。

今回の形式でよかったのは、グループ内でのコミュニケーションがしっかり取れたこと、人数が少ない分全員が運営に参加したことだ。メンバーが固定されることで書いているものについての変化や考えもわかり、グループとしての意識が持てた。

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