バックラッシュ!/要約/縦槍ごめんね

●澁谷知美

彼女は、男女共同参画社会へのバックラッシュに立ち向かうという運動にあまり、能動的になれないでいたらしい。それは、バックラッシャー達の言動に都合の悪いことを隠蔽し、あたかも論拠にのっとったような態度に浅はかさを感じているからだ。

その一例として、司法試験対策の塾LECが出している「法律文化」という雑誌の男女共同参画社会に反対する記事を取り上げており、男女共同参画社会というのは、科学的、生物学的にも証明された『性差』まで強制しようとするものだということをメイントピックとしておいている。しかし、そこには先走った予想や、まだまだ解明できていない問題が孕んだ矛盾点などが多く存在しており、その雑誌の本編では、趣旨に沿わない結論に行き着いている。それにも関わらず、LECは、その曖昧にフォローした社会的影響論を完全に削除するという浅はかな行動をとっている。このような姑息さが彼女のバックラッシャー達に立ち向かう言動力を奪っているのである。

●マーティン、ヒューストン
・マーティンのジェンダー・センシティブ

そもそも、マーティンが提唱したジェンダーセンシティブとは、プラトンのセックスやジェンダーに全く注意を払わない立場とルソーの教育において、ジェンダーこそが唯一重要な要素であるという立場に対し、二つの立場が余りに極端で応用性がないため、ジェンダーをそれが重要に関係するときは考慮に入れ、そうでないときは無視する、という第三の立場について語ったものである。しかし、日本ではこのジェンダーフリーという考え方が誤読されたまま伝わっている。その要因の一つとしては日本にはジェンダーに対する日本語が存在していないことが挙げられている。そこから、ジェンダーについてのヒューストンは、ジェンダーとは人の性質ではなく様々な方法で作り上げられる人々の間の関係性であるという考え方を述べている。

・シンポジウム「公教育はジェンダーフリーであるべきか」

ヒューストンとカナダの哲学者キャスリン・モーガンがそれぞれのジェンダーに関する立場で、公教育をジェンダーフリーにすべきかという話し合いを進めた。その討論の中で、ジェンダー・センシティブの立場をとっているヒューストンはジェンダーフリーを公教育に持ち込むことでお互いの性別が持つ社会性の良さを打ち消しあってしまうのではないかという主張をしていた。マーティンもこれに同意をしていたが、まだ男性優位の世の中に変わりはないということが、ジェンダーフリーという立場をとっている人間の主張でもあるのではないかということも考慮に入れている。

・バーバラ・ヒューストンの「ジェンダーセンシティブ」と「ジェンダーフリー」

ヒューストンは、ジェンダーセンシティブというマーティンの生み出した考えに強く賛同している。その理由をこの章では主に述べている。ジェンダーフリーやジェンダーバウンドの方法というのは、淘汰のエッセンスが強く、必ず望ましくない結果がつきまとうことになる。しかし、ジェンダーセンシティブという概念は、目的を達成するための議論が必要であり、ジェンダーの作用について常に調べ、特定の状況においての思考を巡らせることが出来るのが強みだとヒューストンは言う。そして、それは一般的な社会にも応用可能である。

・ジェンダーバイアスについて

ジェンダーバイアスとはそもそも、ジェンダーが影響すべきでないときに、影響させること。またはそうすべきでない方法で特定のジェンダーをより高く評価することを言う。しかし、その言葉の意味合いはとても広く人によってその捉え方は様々であり、とても分かりづらいと山口さんは述べる。そして日本には、バイアスという言葉に近いニュアンスの、差別や偏見であったりする言葉しか存在していない。だから一見バイアスという言葉はひどく攻撃的なニュアンスであると思われがちだが、そこには中立的な意味合いも含まれている。ヒューストンが述べるジェンダーバイアスは社会的にも実際に起こっている男女の歪んだ扱い方の差にあるという。しかし、あまりにも強い表現の男女差別にはバイアスという言葉はそぐわないとも話している。つまり、ヒューストンとマーティンの考えるジェンダーバイアスはより、リアルな社会的実践に基づくもので、残虐すぎるものにはバイアスという言葉は優しすぎると結論付ける。

・方針としてのジェンダーセンシティブ

ジェンダーセンシティブというのはバイアスを持たずに接する態度であるという日本の学者もいるが、ヒューストンはこのような心理的な現象としての解釈ではなく、社会的な様々な機能を見ていく必要性を問うために導入されたものだと述べる。ジェンダーセンシティブは常に変わりゆく現状について、よく観察し研究を重ねることでしか、考察できないものである指針であり、日本はその複雑な現状の考察不足である。そして、ジェンダーというものを考えたときに、この抑圧からの解放やジェンダーというものを消そうという考えも出てくるが、これは思考停止であり、この考え方こそが女性の権利を奪うものであるという結びをヒューストンとマーティンはしている。つまりは、ジェンダーについて常に考察し様々な機会を設ける必要性があるのだろう。

・教育と「女性」というカテゴリー

昨今、脱構築派のアプローチによって、「女性」に関する状況を討論するのが難しくなっているそうだ。これは上記で述べた危険性にそのまま直結することだが、今女性という言葉で、カテゴライズすること事態が地雷になりつつある。つまりは、ジェンダーフリーという考えが完全に、ジェンダーというものを撤廃しようとする動きに変わってきているということだ。これについてマーティン、ヒューストン、山口は三人とも恐怖を感じている。ジェンダーを撤廃してしまえば完全に女性のための社会なんてものは実現しないからだ。そして、ジェンダーセンシティブという方針は、常に色々な状況に立ち戻って考え直すことができるという点においてここでも有効になるという。構造をなかったことにするのは簡単であるとヒューストンは批判する。しかし、彼女たちは常に考察し、制度を変えていくことを望んでいる。

・フェミニズムと政治

脱構築がすすみんでいる、現在で三人のフェミニストが抱えている不安が、今自分達がどのような立場で言葉を発しているかというものだった。ヒューストンは自らのことをラディカルフェミニストだと自負していたが、このラディカルという言葉やリベラルという言葉の現在の持つ意味を見失っているようであった。しかし、それぞれのフェミニストとしての活動の根幹のようなもの、影響を受けたものが今も変わらずあり続けているのであり、それは日本もアメリカもカナダも変わらない。

・社会全体の変革の重要性

ジェンダーについて、法律に組み込むためにはジェンダーセンシティブやジェンダーフリーといった概念的なもの以上に、より明瞭なものが必要である。ジェンダーセンシティブという方針は先読みをすることができずに常に現状を変えていくということしかできない。女性の本当の意味での社会的な平等というのはどれだけ苦心し続けても、中々手に入れることができるものではない。それほど今の男女間での不平等というのは根深く、そして強い。だから、ただ意識を変えるだけでは根本的な解決には結び付かない。何故そのような意識が生まれたかというのをより、マクロな視点でみなければ女性を取り巻く状況というのは一向に進展しないのだと、根本からの変革の重要性をマーティンとヒューストンは唱えている。

・言葉を戦略的に選択する

ジェンダーの平等について、ヒューストンは教育におけるセクシズムの撤廃をあげている。また、山口はジェンダーフリーという言葉の登場によって日本における男女平等の在り方が曖昧になっているという批判により、今必要なのは性差別とセクシズムをなくすというより、はっきりとした言葉であるとも述べた。そして、様々な言葉や考察を重ねることでしか、議論は起こり得ないと、ヒューストンとマーティンは語る。公民権運動では差別の要因を個人から制度に移すことで、より活発な議論を行い、制度の変革をなし得た。日本では逆に差別は個人に起因するものであるという考え方が主流で中々、話が進展しないという指摘もあった。つまりは、大幅に制度を改革しようとするためにはその根幹をどのように持ってくるかの戦略が必要であるということだ。

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