1119のフィードバック/latte

清田スタジオ 11/19(日) 講義のフィードバック『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

本映画を視聴して、自分の中で二つの気になる点が発出した。
1.まず、この映画のミュージカル映画としての異色さ。
2.そして、目の病気に関してのあやふやさ
​↳なぜ、「目」の病でなくてはならなかったのか、目が見えないことの役割

順繰りに考察していこう。まず一つ目の疑問。これは私がこの映画をミュージカル映画として観ることができなかったための発問である。なぜこの疑問が生まれたかというと、本作のミュージカル要素であるところの「歌って踊る」シーンがすべて主人公の頭の中で繰り広げられる妄想、すなわち現実に影響を与えることのない虚構であったからである。つまり、映画の本筋に関係のないところで繰り広げられているため、その要素が映画に与える影響があまりにも薄い。それが逆効果として印象深くさせられているのだが、それはミュージカルとしての要素よりも人心表現としての意味が強くなり、ヒューマンドラマとしての要素を与えていると感じた。無論、この映画をミュージカル映画ではないと批判しているわけではないが、その要素があまりにも異色であると感じた。

次に目の病気と物語との関係性を見ていきたい。ここに違和感を得たのは自分だけではないはずだと信じたいのだが、セルマの病気に対しての描写があまりにアバウトだと思った。病名は登場せず、症状も精神性ショックで悪化、13歳までに手術しなければ手遅れ、等々のフワッとした設定だった。その意味、もしくはそうでなくてはならない理由はあったのか。そして観ていて感じた一番の違和感というのが、仕事をクビになっていよいよ盲目となった以降と以前のシーンで撮影法、描写に明確な変化がなく、観ている人に彼女の目が見えないことを束の間、忘れさせてしまうほどであった。(少なくとも自分はそう感じてしまう)例えば、目が見えないことによる障害というのがあまり映し出されず、見たところ普通に過ごせている。オルドリッチが裁判に登壇した際もごく自然にその姿を視認できていた。

目が見えることと見えないことの境界があやふやで、ここに一つの見解を得た。つまり、スクリーンに映し出されている映像すべては、セルマの脳内でイメージされたものなのではないだろうかというものだ。講義中にあったカメラの視点の話しを持ち出すならば、この映画の神の視点とはすなわちセルマの視点である、ということだ。しかしそれではビルが貯金の隠し場所を盗み見るシーンや橋のシーンの説明がつかない。つまるところ、この映画において視点はさほど重要視されておらず、ラース監督のリアリティ演出に過ぎないのではというものに帰結する。確かにブレ方や話手への切り替え方はリアルに近いものに感じられた。

改めて話を戻し、目の病の役割を考えてみる。本作は主人公の目の病によって物語が展開されているのは確かであるが、その役割が今一つ強い印象を与えてこない。では、どういう意味を見出すべきか、それを考えて、やはりダンサーインザダークという題にあるよう、暗闇(盲目)にある踊り子を表現する最適解であったということだと思った。この映画の一番の見どころはどこだったかというとその異色なミュージカルシーンであり、その印象深さは前述の通りである。この状況を作り出す引き立て役としての目の病だったのではないか、という結論に至った。

最後におおまかな感想を書く。総じて胸糞映画、救いがない、と言われる映画であるが、自分としてはそれほど嫌悪感なく演出に関しても興味をそそられたし、また見てみたいとも感じる映画であったように思う。

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