『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、初見だった。内容に関しても物凄く暗いとか、救いがなさすぎるとかそれぐらいの予備知識しか持たずに鑑賞した。
見終わった直後に抱いていた感想としては、「自分はそこまで救いがないとは思わなかった」というもの。その理由としてはキャシーとジェフ、終盤に出てくる女性看守のような、主人公セルマを承認し、妄想ではない(少なくとも妄想とは位置づけられていないだろうと私が解釈した)箇所から彼女を精神的に支えようとする人々がいたからであった。一方で救いがないとかダメージを受けたと言っている人の意見もわからなくはなかったので、特に自分の中で物議を醸す何かは無かった。
しかし、少し時間が経ってから思い返すと曖昧だけれど、確実に鑑賞中自分は不快感を持っていたように思える。140分ほど、終始イライラしていた。ミュージカルに関連付けられた妄想部分におけるセルマの理想の表出であったりとか、息子のジーンの存在の意味であったりとか、あるいはカメラワークや舞台となった自然やそういうものがおそらく個人的にはどうでもよかったのである。
とにかく私は主人公が美人じゃないということ、ただそのことへの苛立ちを募らせていたのだ。
悲劇のヒロインになるのってやっぱり条件が必要ではないかと。一般性は通説と持論の間くらいではないだろうか。しかし自明である。春学期「思想と文化2B」の講義内で見た『わたしを離さないで』とか『Changeling』とかああいう美人がやっぱり絵になる。他の物語で出てきた主人公の奥さんとかも悲劇の渦中の人ではあるけど、ああいう人は悲劇のヒロインとは呼ばない。まさに物語の中心、顔、ブルーレイのパッケージになる人だ。なんで美人じゃないんだろう。答えは別に求めていない。美人じゃない人の悲哀を語られるのってなんだかより一層主人公の中にあるナルシシズム的なものが煮詰められているように見えてしまう。オブラートに包まず繰り返せば端的に不快だった。
ビョーク自身が嫌いなのかと言われれば別にそんなわけではない。メンヘラ的ミュージシャンの先駆者みたいなことを言われていたけど、影響力は実際凄い。実際。でもどこかでPV見てるわけじゃないんだぞっていうか、自己演出に対しての嫌悪感に感情輸入をすごい妨げられて、勿体無いことをしているんだろうな自分、みたいな感じだった。これこそカーストの原点かもしれない。綺麗な人が堕ちていくのは本能的に辛い。だからで観たいという心理も裏返しである。
もっかい見たら違うのかなぁ。違うんだろうなと思った。何らかの形でこの作品から衝撃を獲得したい。このままだとなんか自分の汚い部分みたいなものを突かれただけのようでやるせない。