集中講義フィードバック/Gioru

音楽を趣味とはいえ嗜んでいる身としては、ミュージカル・音がどのようにこの映画に用いられているのかが、気になってしまう。

Wikipediaによると、オーケストラなどでも知られ、オペラとミュージカルのどちらも書いているレナード・バーンスタインが「歌によって進行するのがオペラで、ドラマの結果として感情を歌に託するのがミュージカル」と定義している(あくまで一説ではあるが)。それならば、作中でも出てきた映画『サウンド・オブ・ミュージック』はまさしくミュージカル映画であると言えよう。

ダンサー・イン・ザ・ダークではどうか。彼女が感情の発露の結果歌を歌っていたかというと、その通りなのかもしれない。彼女は眼が悪く、満足に作業もできない状態で、音を頼りに妄想の世界に入り込んでいく。視界という認知能力を失っていく中、世界を認識するためには別の感覚を用いるしかない。彼女にとっての視界の代替物が聴覚であったのだ。ただ、その情報変換が、彼女の楽しみであるミュージカルになってしまうだけで。しかも、実際に行動して発露することはできないから妄想という形での表現になる。

彼女自身それではいけないとわかっていたのだろうか。息子の視力と母親の存在を天秤にかけた時に、迷わず息子の視力に天秤が傾いた。

彼女にとってミュージカルとは、辛いことが何も起こらない世界であり、誰もが笑って過ごすことのできる世界である。非常に魅力的な世界ではあるのだが、その世界が現実ではないことを知っている。最初から視力がないわけではないため、自分の目で見てきた現実世界が存在する。

現実で辛いことが起こっても妄想(ミュージカル)の世界に入ってしまえば、逃げることができる。ただ、現実は彼女を逃がし続けることをさせず、妄想に割り込んで彼女にとって非情な世界を見せる。

息子の手術費用のために働いているのに妄想の中に入り込んでしまい、結果として解雇されてしまうのも、彼女が耳からの刺激と妄想の魔力に侵されてしまっているからである。独房の中で、聖歌隊の音に気づくまで妄想ができなかったのは刺激がなかったため。

音は視界以上に自分流の解釈が可能な感覚と言える。ある程度の快・不快は共通かもしれないが、それがどんなイメージかは人によりけりな場合が多い。クラシックなどの曲で、ただ番号がついていて淡白としているように思われるのも、聞いた人が自由に解釈ができるようにとも言える。

セルマが息子の視力を優先させたのが、自分のようになってほしくないと、警告の意味も込めているのだとすれば、セルマに共感できなくもない。

現実と向き合えなくなったのが視力がなくなり視えなくなっていくから、いくらでも逃げ込める世界に閉じ込められてしまうから。そんな視覚と聴覚による世界の感じ方に悩まされたのがセルマだったのかもしれない。

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