「もう二度と見たくないほどの鬱映画」と聞いていたので楽しみにしていたが、そこそこ幸福な終わり方に思えて拍子抜けしてしまった。
現実すぎる現実を見ずに死ねたのなら、幸福な終わりではないか、と。
恐らく、本作を鬱映画と評した観客は、この作品の「やるせなさ」に注目していたのだろう。
確かに、『ダンサーインザダーク』を、信頼していた隣人・ビルに裏切られ、彼の思惑にのせられて殺人の罪を背負わされ、周囲に誤解されたまま絞首刑に処された盲目の母・セルマの絶望の人生としてストーリーを解釈することは容易だ。
結果としてセルマはビルを、息子の目の手術のために貯めた金を取り返すために殺めたが、金を盗んだビルも、ビルを殺したセルマも、どうしようもない事情を抱えて罪を犯した。
セルマは将来視力を失う運命にありながら、同じ失明の遺伝子を持つ息子・ジーンのために日毎弱くなっていく視力の中で、必死で金を貯めていた。
一方、ジェフは浪費家の妻・リンダを自分の元に繋ぎとめるために金策に走り、結果盲目のセルマの金に手を付けてしまった。
罪の重さやそれぞれの事情を比較することに、あまり意味は無い。
二人は互いのどうしようもない事情のために罪を犯し、観客はそのやるせなさに深くため息をついたのだ。
だが、この映画を別の視点で見れば、あながちただの悲劇だとは思えない。
セルマには逃避癖があった。
見えない中で行うきつい仕事を、背負わされた殺人の罪を、刑の執行を待つ恐怖の日々を、彼女は瞼の裏で歌うことでやり過ごした。
このとき彼女にとって、〈目が見えていない〉ことはプラスに働いた。
セルマは厳しすぎる現実が〈見えない〉ことによって、大きな悲劇を真正面から受け止めることを免れることができたのだ。
また、息子の手術後の姿をセルマは〈見ていない〉し、彼女の最期から二番目の歌の終盤、セルマの刑の執行を、親友のキャシーもジェフも息子のジーンも〈見ていない〉。
もし、セルマの目が見えていたならば起こらなかっただろう現実としての大きな悲劇は、皮肉にもセルマの目が見えていないことによって、その衝撃が和らいでしまったのだ。
しかし、この受け止め方によって、最も悲劇を避けた人間は、セルマではなく私自身ではないか?と改めてこの作品の悲劇について考えているうちに内省した。
突きつけられた強烈なやるせなさを、私は「セルマは幸福だった」と言い切ることで自分がこの映画に引きずり込まれることから逃げ出したのではないか?