バタフライエフェクトを見て/生まれてきてごめん

バタフライエフェクトは非常に面白い映画だった。

しかし、ただ淡々とバタフライエフェクトの面白かったところを書くだけというのもつまらないので、私なら自分の過去のどこに戻りたいか、そして今どうなっているかを考えたみた。

私が戻りたい過去の1つ目は、6歳の時、人生2度目のモテ期の頃だ。

なぜその過去に戻ってやり直したいかというと、人間に3度訪れるというモテ期を、私は5.6.7歳と3年連続でいきなり使い切ってしまったからだ。だから、小学1年の自分が嫌われることによって、2回分のモテ期をずらそうと目論んでいる訳である。大学、高校、中学校のいずれかに1回でもモテ期きてくれれば、僕もこの歳まで童の貞ではいなかったはずだ。そして今頃は数人の彼女と共に楽しい大学生生活を送っていたはずだ。

次に戻りたいのは高校時代、高1の春に戻りたい。

私は高校時代ひたすら野球に打ち込んできたのだが、結局目標だった甲子園に行くことはできなかった。高2の夏は準優勝、高3の夏はベスト4で終わったのだが、高2の夏も高3の夏もベンチにはいたものの、スタメンで出場することができなかった。高2の秋はスタメンで出ていたのだが、怪我や他の選手の成長により結局はポジションを奪われてしまった。そこで高1の春に戻り、違うポジションの練習をしてどこの守備も守れるようになれば、高3の夏スタメンで出れるのではないかと思った訳だ。

おそらくそれが成功していれば私は今頃甲子園のヒーローとして数人の彼女と共に楽しい大学生活を過ごしていたはずだ。

最後に戻りたいのは、中学校の1年の時だ。私の中学校は、近くにある4つの小学校から生徒が集まってくる。しかし、私の小学校から来る生徒は少数派であるため、1年の時はかなり肩身の狭い思いをしながら過ごした訳である。特に何か悪いことをした訳ではなかったのに、あらぬ噂を流されたり、クラスの人に嫌われたりと、全く面識のない人たちによく知らない奴だからという理由で嫌われたことが原因で、私は初対面の人と話すのがかなり苦手になってしまった。その後は誤解も解け仲良くなったのだが、結局初対面の人恐怖症は治ることがなかった。もしあの時、ちゃんとそれは違う、と否定できていたらもっと簡単に仲良くなれただろうし、初対面の人恐怖症にだってなっていなかっただろう。

もし、初対面の人恐怖症になっていなければ、今頃は数人の彼女と共に楽しい大学生活を過ごしていたはずだ。

おそらく、私が今彼女がいないのは、全てこれらが原因である。バタフライエフェクトである。

 

 

 

 

 

 

シコリマクリスマス/クリスマス/縦槍ごめんね

※一部不適切な表現が含まれます。

俺の名前は合田夢二、32才。お笑い芸人志望のフリーターだ。大学時代に入った落語研究会の影響でお笑いの道に進むことを決めてからはや10年。築いたものといえばこの無駄な芸歴と、クソみたいな相方と考えた無数の使えないネタくらいだ。m-1もキングオブコントも10年出続けているが、両方三回戦止まり。勿論こんな成績の芸人なんて星の数ほどいるわけで、そんな俺の仕事は、月に二三度に来る劇場でのネタ見せくらいのものだ。芸人としては月に二万円稼げればいいほう。後はバイトを掛け持ちしてやりくりしている。この前、そのバイト先の居酒屋から社員になっても何とかしてやれるといわれたが、変なプライドが邪魔して断ってしまった。もう実家には5年以上帰っていない。帰らなくなってすぐくらいのころは両親も心配してたくさん連絡をくれていたが、今となっては、お米を送ってくれる時ぐらいしか連絡がない。

前置きが長くなってしまったが、何故こんなに、俺が世界の終わりのような精神状態いるかというと今日がクリスマスだからだ。・・・嘘だ。年末だろうが、ハロウィーンだろうが、海の日だろうが。なんかこう、ただてさえ元気な若者がいる街がより一層活気をます季節は、俺もかつてはそうだったよななんて、思い出して辛くなるからいつでもネガティブになってしまうのだ。

こんな日は、昼間近くの公園にいってひたすらホームレスを眺めて、家も職もある分こいつらよりましだなんて思って少し元気になったあと、スーパーで6枚切りの食パンをかってきてその公園にいる鳩にひたすらパンをちぎっては投げ、ちぎっては投げする。その従順な鳩の姿をみていると俺にもまだ何かを動かす力があるのかもしれないと思えてくる。そして、全てのパンを投げ終えたら、TSUTAYAにいって、5,6本のAVと賢者タイムように、オーシャンズと南極物語を借りて帰って、ひたすらしこっては映画を見るを繰り返す。

彼女は、もう8年間いない。俺がずっとネタ作りにうつつを抜かして、全然構っていなかったことが悪かったのだが、寂しくなった彼女は酔った勢いでもあったらしいが、バイト先の男と一夜を共にしてしまったらしい。自分から罪悪感に耐えられなくなってそんなことをカミングアウトする彼女は本当に心の優しい子だったんだなと今なら思えるが、当時はそれをきっかけに別れてしまった。そして、それ以降たまにそのことを思い出して興奮してしまう自分にも気づいてしまい、あ、俺ってこんな性癖あったんだ。なんて思って、より自分の中で踏ん切りがつきにくくなってしまって以来、この事を思い出すことを意図的に避けるようになった。彼女を作らないのは、ここにも原因がある気がしている。決してできないわけではない。

まぁ、そんなことを少しだけ思い出して、後は四畳半のアパートに帰って万年床になってしまった。もう大学時代から使い込んだペラッペラの布団に寝転がり、ひたすらにしこる。ご飯を食べることもめんどくさくなってひたすらにしこり続ける。六時間以上しこり続けて、布団の回りはティッシュだらけになった。

わー、ホワイトクリスマスや。なんてほんとにしょうもないことを3秒だけ考えて、またしこり始めた。

いつからだ。いつから俺はこんなオナニーしか趣味のない、ザーメン出すマンと化してしまったんだろうか。元々はかなり研究熱心だった。お笑いの勉強も必死にしていた。自分がでないライブにも足を運んだり、負けた賞レースの決勝戦も穴があくほどみて、今世間ではどんな笑いが評価されているのかをずっと考え続けて、そこにたどり着くためには一体どうすればいいかばかり考えていた。・・・何かきっかけがあった訳じゃないいつからか、録画したネタ見せ番組をみても、なにも感じなくなった。もう無理だと悟ったわけでもない。なのに何でこんなことになってしまったんだろう。こんなんになってもずっとm-1とキングオブコントだけ毎年のようにHDDにたまってることも自分の中で消化しきれずにいた。

オナニーをしているときだけ、そんな自分を忘れられた。ちんちんを触っていれば頭で考えなくてすむ。ただちんちんの赴くままに行動すればよかった。

「ピンポーン」

こんな日に誰だ。俺の家を訪ねてくる奴なんて誰もいないはずなのに。ドアを開けるとそこには宅配業者の人がいた。

「宅急便でーす。ここにサインお願いします。」

「あ、あ。あー、はぁ、はぁん」

普段「お箸つけますか?」「はい」しか会話がないので咄嗟に変な返事しか出てこなかった。そんな僕にも優しく接してくれたヤマトのイケメンのお兄ちゃん。こんな日までバイトしていることも相まって、俺の中での好感度今までの人生の中で一番跳ね上がっていた。お兄ちゃんが帰って、送り先を見てみるとそれは実家からだった。連絡もなしに物を送ってくるのは珍しいなと思って段ボールを開けるとそこにはいつも通りの米といつもと違う手紙が入っていた。

「夢二へ。
あなたが芸人になることを志して、10年が経ちました。まだ東京で頑張っている夢二のことを考えると邪魔しちゃいけないなと思い、中々こっちから連絡できませんでしたが、せっかくのクリスマスなのでサプライズということでお米を送ろうかなと思い立った次第です。」

母ちゃん、サプライズからもう少しましなものを送ってくれよと思ったが、こんなダメ息子を変わらず大切にしてくれていることに、免じて許すことにした。続きにはこんなことが書いてあった。

「まだ東京で頑張るつもりなんでしょうが、正直、そろそろ実家に戻ってきてもいいんですよ。お父さんもそろそろ定年になるので口には出しませんが、帰って来てほしそうです。まぁこんなこと言ってもあなたと反抗心をあおるだけなのかもしれないけど。でも芸人になることに反対していた私達だったけど、最近は東京で活躍してる夢二を見たいなという思いが募ってきたのも本当のことです。分かってると思いますが、うちは三局しか入らないんだから、ちゃんと有名にならないとテレビで夢二の姿みれないんだから、頑張ってくださいね。うん、伝えることは伝えました。後はあなたの頑張り次第だと思いますが、頑張り過ぎて体壊さないようにね。何かお米意外に送ってほしいものがあればいつでも連絡下さい。

母より」

・・・なんか、ずるいななんて思ってしまった。こんなこと言われたらまたどうしたらいいか分からなくなってしまった。もう何も俺に期待しないでくれ、何も選ばせないでくれ、そんな資格俺にはない。モヤモヤした気持ちを振り払うようにまたしこり始めたが、精子の代わりに涙が沢山でた。もう、全然ちんちんが反応しなくなっていた。

「・・・ちくしょう」

一言、そう呟いて、久しぶりに録画だけしていたキングオブコントとm-1をみた。ああ皆、面白いなこのにゃんこスターってのはちょっと分かんないけど。とろサーモンはさすがだ。部屋にあった大漁のティッシュをゴミ袋に詰めて、おれはお米をたきはじめた。

3000万円あったら/生まれてきてごめん

3000万円というお金が突然手に入ったら、私は迷わずその全てを、3000万円より増やすことのために使う。

突然手に入った3000万円を貯金したり、何か高価なものを買ったりしているようでは、人生そのものが楽しくなくなってしまうと私は思う。
なぜなら、苦労しながらやっと稼いだお金だからこそ、なにか欲しかった物を買った時に達成感があり、またお金を稼ぐことの大変さがわかっているからこそ、そのお金の使い方に慎重になる訳であって、ノーリスクで手に入った3000万円で同じような使い方をしていては、今までお金を稼ぐために使ってきた時間と労力は何のためにあったかわからなくなってしまうからだ。であるから、その3000万円は、稼いで手にしたお金では絶対にしないような使い方をしてやりたいと私は思う。

ではどんな方法で3000万円を増やすかを考える。

まずはギャンブルだ。楽して稼ぐなら、これであろう。パチンコや競馬、宝くじに3000万円のお金をつぎ込むという行為は、普通であれば絶対にできない。しかし、降って湧いた3000万円なのだから、なくなっても何ら問題はない。いっそ全部つぎ込んでしまえばいいのではないだろうか。それを頭の悪いお金の使い方と批判する人間がいたら、夢のない考え方をする人なんだと思っていればよい。

次に株や為替で儲けるやり方だ。私は詳しいやり方はよくわからないが、最近友人によく勧められるので、非常に簡単なのだろう。3000万円というお金は、十分な元手であるはずだ。誰かにやり方を聞くか、本を読めばおそらく稼げるだろう。

次に起業して稼ぐやり方だ。3000万円あれば、小さな会社であれば立ち上げることができるだろう。私の地元には大学生で起業して今社長としてかなり儲けている人がいるので、目の付け所さえよければ儲けられるはずだ。

さて、ここまで3000万円を増やす方法について考えてみたが、どれもあまりにもお粗末である。やはりどうせなら、もっと確実な方法で3000万円を増やしたい。

ということで、私の導き出した結論は、どこか遠くの国、それもその国の通貨が円の価値より安い国に移住するという方法だ。3000万円というお金を、簡単に3000万円以上の価値に変えることができる。

突然手に入った3000万円で別の国に移住し、その国で3000万円を使い切るまで暮らす、というのが私の3000万円の使い

 

 

 

 

 

今熱中していること①/生まれてきてごめん

今私が熱中しているのは「歌」である。
私は11月で部活動をやめ、今は高校時代の友人と路上ライブをしながら音楽活動をしている。よかったらみんな見にきてね。

さて、ではなぜ私は10年間続けてきた野球をやめてまで音楽の道に進んだのか。

理由は、ここ数年のJPOPがあまりにだらしのない歌ばかりなので「それならおれらが作ったるわ!」と思ったからである。

最近の歌手たちは、みんな歌が上手い。音を外すことはめったにないし、巧みなテクニックを余すことなく取り入れている。
しかし、心にくるものがない。
カラオケの精密採点であれば点数は相当高いのかもしれないが、ソウルが感じられない。「俺の歌を聴け!!」という熱意が伝わってこない。
そしてさらに、最近は特に歌詞が適当につくられているような印象も受ける。
リズムの良い言葉を並べただけでその他に何の意味ももたないような歌詞や、よくあるフレーズをひたすら繋ぎ合わせたような歌詞など、後ろでダンスを踊ったりただ歌を上手く歌うためだけにつくられているような歌詞が多い。それではいつか、歌詞は死んでしまう。

だったら俺らで作ろうじゃないか、というこで、ただ今鋭意制作中である。1月中には路上で歌う予定だ。日本よ、震えて待て。

12月は1度、路上でライブをしてきた。ただこれが思っていたより難しい。

人が立ち止まらない。みんなこっちを振り返っていくのはわかるのだが、誰も立ち止まってくれない。友達を除いて、唯一見てくれていた人は遠目から覗き込むように見ていた。確かに選曲は若干古めだったが、仮に最近の曲をやっていたとしても人が立ち止まったとは思えない。ちなみにその日は玉置浩二、長渕剛、大沢誉志幸のカバーをしていた。曲については変える気はない。だってすげえいい曲ですから。これぞソウルです。

単純に実力がなかったのだと思って、今はとにかく前に進むしかない。練習あるのみでしょう。

ここまで私が熱中していることについて簡単に語ってみたが、やはり伝えたいことはまだまだある。何より、聴きにきて感じてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バタフライエフェクト/縦槍ごめんね

タイムリープそして、そこから影響を受ける様々な出来事を描いた作品は、コメディ作品からシリアスな作品まで多く存在している。今から新しいタイムリープ手法を用いた作品を創造するのは至難の技だろう。僕はよく、タイムリープものは演劇でしかもコメディ作品としてみることが多い。コメディにとってのタイムリープは我々視聴者にはわかっていることが当事者達には分からないという部分であったり、タイムリープそのものの目的やその方法が馬鹿らしかったりと。タイムトラベルというものを使用しながら、それを小馬鹿にした作品作りが目立つように感じる。

一方で、その効果に真っ向から向き合った作品がバタフライエフェクトや他の例だとSteins;Gateのようなものだ。大体、人生の分岐点をやり直すということが主題になってきているが、これは我々が誰しも一度は体験した妄想であり、その妄想体験をファンタジーとして代理してくれるこれらの作品は感情移入というより、一種客観的に不幸を眺めているような感覚に陥る。このように、どうしようもない現実を変えるためにタイムリープというファンタジーを利用しているにも関わらず、それでも尚不幸になっていくということに我々は何を求めればいいのだろうか。

黒歴史という言葉がある。誰しもが抱えている消え去ってしまいたい過去。では、もしその過去に戻れたとしてその黒歴史をやり直したいと思うだろうか。消し去りたい、忘れたいとは思うかもしれないが、やり直したいという自分のトラウマ的側面を掘り返すようなことはできない。不幸の先に幸福があるという短絡的な考え方を持つことは中々難しい。バタフライエフェクトなどのタイムリープ作品は私達のそういったどうにもならないだろうなという諦めのような部分を見透かしてきている。

だから、不幸を幸福に変えようなんてポジティブな考えの持ち主はそもそも、変えたい過去なんて作らない。あったとしても、それを違う形で昇華している。僕にはタイムリープというギミックを使って、世間を多少馬鹿にしているような作品の方がしょうにあっていると改めて感じた。

バックラッシュ/印度

鈴木謙介 「ジェンダーフリー・バッシング」 は疑似問題である」
要約
「バックラッシュ」や「ジェンダーフリー・バッシング」は、もうすでに情報戦。ジェンダーをめぐる問題を論じることはこの情報戦においての自身の立ち位置の取り方を表すことでしかない。陰謀論などに発展したり、愚にもつかない議論になるようなジェンダーフリー・バッシングの主張に関しては真面目に取り上げる必要はない。
これらのジェンダーフリーを批判する立場はコミュニュケーション形式としての「サヨク嫌い」からくるものであり彼らの批判の形式すらも「サヨク的」なのである。
こうしたサヨク嫌いや内容を誇張し叩いたりすることは議論の価値はなく、必要なのは政治的な主張の政策的意味の検討、バックラッシュ論者に対してはより適切な政治的立場を提示すること。
バックラッシュ派のジェンダーフリーによる危機とみなす代表的な領域は雇用の問題。男女共同参画社会の問題である。
男が働き女が家を守るという古くさい形は、現代の不景気や雇用形態では維持できない。近年の非婚化の原因は養われたい女性と養うことのできない男性のミスマッチによるものである。
もはやジェンダーフリー・バッシングは擬似問題、非難することでは議論に実りはない。誰にとってもよりよい社会を作るための政策的な議論が必要とされている。

感想
久々に要約というものをして気づいたことがある。
要約なんて嫌いだ。
テストや課題で出る度に俺が要約をすることによって誰が助かるのかと考える、誰の為にもならない、要約が上手くなったところでなんの意味もない。
拙い要約を見返してみると、懐かしい英語の問題、「この文章の中で関係無いセンテンスを抜き出しなさい」的な問題に使えそうな要約になってしまった。情け無いが時間もないので素早く行きます。

正直、中身のある評論とは言えない。しかし彼は、気に食わないから批判とかあーだこーだ言うんじゃなく、昔は昔今は今で何をしたらどのようにしていけばいいのかを議論すべき、だと言っている。
無駄な議論はとても嫌いである。だから彼の評論がとても好ましいものである。

よくある話だが、批判はするし問題提起もする口うるさい連中に限ってただのしょーもない偏見に凝り固まっており、しょーもない議論を始め、解決法を提示することすらしない。彼らはただ単に気に食わないものを批判することが生きがいの暇人なのだ。
どんな問題でもそう、暇な人が文句を言い、暇な人が行動を起こし、暇な人によって政治は動いてる。忙しい人には政治を気にしたり行動する時間なんて存在しないのである。だから暇な老人にとってよりよい世界になり、暇な老人にとっては気に食わない女性進出が叩かれるのである。なんとつまらないことでしょうか。

後藤和智
「教育の罠、世代の罠」
-いわゆる「バックラッシュ」に関する言説の世代論からの考察-
要約
教育、学校教育や家庭における教育も含む、が「世代」を作っていく。最近の若者がおかしい、異常などその理由は現代の教育が誤っていたからであり、その教育を語るということは「俺たちの頃は…」的な語り方が多い。
ジェンダーフリー教育の批判に関しては、学校教育批判と家庭教育批判の2つによって成り立っている。
これらはとても過激で強引な論説が多い。
若年層をバッシングする人たちに多いのが、今どきの若者による事件や問題行動を列挙する、その原因を何か批判したいものをあげる、それがいまどきの若者を作り上げたのだ。とでっち上げる。
根拠がなく、読者を不安に駆り立てる暴力的な文章ではあり、まるでそれ自体が諸悪の根源かのような言い方をする文がとても多い。
しかしこれらのいまどきの若者批判はイメージの正当かどうかが議論されておらず、信憑性はない。
こう言った言説は若年層を反面教師として捉えることを強制していることが多い。
若年層を批判、子供や成長過程の少年を批判するということはそれを教育する親や学校を否定することになる。こういう教育や子育てをしてはいけない、と言った批判をされる中で子供を産み育てようという若者は減っていくであろう。
若者論は言いたい放題の世界。バックラッシュ論者は堕落した青少年をでっち上げ、元凶をジェンダーフリーとして、バッシングした。政治的イデオロギーの主張に退廃的な青少年イメージが利用されてしまっているのだ。

感想
バックラッシュを世代論から見て解説している。
とてもわかりやすく親しみやすい文章だった。
「俺たちの頃はな…」この語りから始まる話には耳を傾けたことがない。ただの懐古、自慢話、昔話でしかない。彼らは若者を自分の自慢話のダシにして、なんも面白くない古き良き日本での自分の苦労話をしたいだけなのだ。
苦労しないことが若者を日和らせる…一理あると思う。苦労や挫折をしないことで人格形成に問題があったり他人の苦労や挫折を理解できない可能性はあるかもしれない。
しかし苦労経験を目的化してはいけないし、現代には現代の苦労の仕方があるわけで、若者が苦労や挫折を経験していない、なんてとても盲目的な理論である。

この評論で、でっち上げにより元凶を作り批判していく方法がとられている事が述べられていた。
そんな方法で論じられていようが信憑性がないので信じ込む人間なんていないとは思うのだが。
しかしよく使われるし似たような言動をする人はどこにでもいる。若者を悪に仕立て上げる彼らはその方法によって、少しでも若年層に情けなさや憤りを感じている人たち(マスコミや彼らによる情報操作によって若者=悪、昔=素晴らしいと思い込まされてる)を引き込んでいくのだ。それにより若者が更に行きにくい、行動しにくい世界になってしまっているのだ。
なんともつまらない世界であろうか

ダンサーインザダーク/印度

はぁ…大晦日に観るべきではなかった…
こんな事なら早く課題を終わらせてガキ使を見ながら新年を迎える準備をしたかった…とりあえず元旦は家で布団の中で過ごすことになりそうだ。

 

鬱な話だとは聞いていたがここまで気分が憂鬱になるとは思っていなかった。
度重なる不幸には目もくれず息子の眼を助けるのに必死な主人公には驚いたがなんとも救われない映画であった。
そう、観終わったところまでは良かったのだ。
鬱な気分で新年を迎える程度なら…
何を思ったか私は本映画について書いてあるブログを見てしまったのです。
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q14149940589?__ysp=44OA44Oz44K144O844Kk44Oz44K244OA44O844KvIOOCqOODs%2BODh%2BOCo%2BODs%2BOCsA%3D%3D
最終シーンで息子は手術に失敗、絶望により半狂乱のセルマはそのまま絞首刑…
悲しすぎるでしょ、そりゃ主役が直訴してやめさせるわ。
そんなエンディングを想像しただけできたる2018年はとても真っ暗で救われない年になってしまいそうです。
そもそも普通のエンディングですら泣き叫びながら息子の名前を呼び続けるセルマ、友人が眼鏡を渡し手術の成功を告げると落ち着きを取り戻し歌い出す。
しかし歌っている途中で絞首刑は執行される。
内臓が全て締め付けられるような気持ちでとても気分が悪いのですがそれすら凌駕するエンディングなんて想像したくもありません。

途中、途中に挟まれたミュージカルのようなシーンは面白かった。悲痛なシーンや鬱なシーンを和らげてくれる、一筋の光明が見えるかのような歌や踊り、そこだけは心が救われた。まぁエンディングの途中でぶった切る感はしてやられた感が半端なかった。
あそこで切られてはすべての希望も妄想も現実にいきなり戻されてしまう。その前の悲惨なシーンが蘇ってきてしまいとても気分が悪くなった。

やはり面白い。気持ち悪くなるくらい心が動かされる、怖いし鬱だし救われないが観てしまった。

多少気になったのはホームビデオのような映像だった事、あまり見られないカメラワークやエフェクト、鬱な世界を映しているからなのだろうか、少し気分が悪くなった。
この鬱な気持ちはどうしたら晴れるのでしょうか、バタフライエフェクトの方がまだ救われてた、あれもそんな救われてないか。

/ダンサーインザダーク/ふとん

 

「愛するか憎むかのどっちかしかない」

そう評価された映画だった。私はどっちだろうか。

どっちにもなれなかった。

この映画を愛する人はセルマの健気さに心打たれたと言う。やさしい人だ。

この映画を憎む人は、セルマが救われなさ過ぎて見ていられないという。やさしい人だ。

私はといえば、そういう感情を生み出すことができなかった。セルマに感情移入できなかった。この女性が苦しんでも喜んでも私の感情を揺り動かすことがなかった。

なぜか?

セルマが憎いからだ。

いつもぼーっとして自分の意見を言えない。顔だって美人ではない。むしろ白人のはっきりした顔に囲まれてアジア系で冴えない顔。目が見えてないのに見えてるふりをして、無理して仕事して、演劇の練習行って、結局周りに最も迷惑をかけている。

それなのにサポートしてくれる女友達がいて、迎えに来てくれる男性もいて、練習も追い出されない。都合よくないか?

浪費家の妻のために他人の金を奪おうとする男については殺意が芽生えたけど、セルマみたいな人を見下してしまう人だっているのもわかる。自分に余裕がない人は他人を思いやることなんてできないのだ。

一方でセルマを助ける人たちやセルマ自身は、自分のための努力もしながら他者への思いやりや気遣いを忘れない。見ている人が応援せずにはいられないのはこういう人たちだ。

だからセルマは愛される。映画を見ている人たちから感情移入され、同情される。救われなさすぎだ、と置かれた環境を、生い立ちを憎まれる。

では実際はそうか?馬鹿正直が得をするのは物語の世界だからではないか?スクリーン越しに数え切れないほどの人の視線を浴びたからこそ、彼女の馬鹿正直には価値があったのではないか?

華麗な妄想も悲惨な運命も、見事に美しい物語だ。私たちは悲しく美しい物語を見て、自分を重ね合わせる。自分のことだっていつも誰かが見ている、神様が見ている。頑張っている自分に、つらい自分に熱いまなざしが注がれている。そう信じて疑わなくなる。

でも実際そうかと言われると、誰も見てなんかいないのに自分に酔ってるだけ!の気もするし、親や神様じゃないにしても悪い行いは必ず誰かが見てて、自分に返ってくる!というのも真実な気がするし。まあ、そう思わないと生きていくのが辛すぎるんだよね。だから悲劇は存在するのだ。

素敵な悲劇の物語を、こんなひねくれた視点でしか見れない私は、セルマのことを憎みながらも、ほんとうは憧れてしょうがない。誰かが見てるかも、いつか自分に返ってくるかもなんてそんな汚い感情抜きに。愛する息子のため、大切な友達のため。周りの人を幸せにするために自分の人生を捧げられるようになりたいよ。自分のためだけにできる努力には限界があるって、わかってるけど、誰かのために死ねるか?誰かのために生きられるか?この質問に躊躇なくはいと答えられる人、どれくらいいるかな。そういう人に、はやくなりたい。視線なんてなくてもいいと、そんな発想すら浮かばない人に。

バタフライエフェクト/手汗王

この映画自体は初めて見た。借りるのに苦労しているところを見ると、相当に人気のある映画なのかもしれない。といった、先入観を持って見ることになった。
個人的にはダンサーインザダークよりも、明らかに見やすい映画だった。ただ、考えだすと複雑な映画だとも思った。

まず、人生は分岐点とその選択の連続である、というメッセージ性を強く感じた。この映画を見て何を感じるか、そこからどう行動につながってゆくのか、それすらも、この文章を書く上で、言葉を選んでいるこの瞬間も、全て人生に敷かれた分岐ルートを自分で選んで進んでいるのだ。

あとは、この手のタイムリープ関連の作品はいくつか見たことがあったが、この作品に限っては、諦めの感情が湿っぽい余韻に繋がっているように思う。オールユーニードイズキルや、バカリズムが脚本を書いた素敵な選taxiといったドラマ作品では、積極的な選択がエンディングにつながっているが、今回のバタフライエフェクトでは主人公が消去法でエンディングを決めてしまっている感が否めない。ここに、一回一回の選択の大切さと、一度決めたルートは最後までやり切ることが選択において最重要であることを認識させられた。

また、映画バタフライエフェクトから教訓として感じることがあるとすれば、後戻りすることの愚かさだろうか。主人公は最終的にどこかで折り合いをつけなければならない。もちろんまだやり直そうと思えば、もしかするとやり直せるのかもしれない。だがしかし、実際に自分が時をかける能力があるとして、何度もやり直しを続けるだろうか。最初は面白いようにその能力を使うのだろうが、きっとそのうち人生に面白さを感じることはなくなるだろう。後戻りができるとは、そう言うことだと思う。もちろんそんな状況で、筋トレに面白さを感じることもない気がする。あの時ああしていたら、こうしていたらと、様々な過去のルートを想像するのは案外面白いものだ。たが、実際にそのルートを体験するのはわけが違う。後戻りできないからこそ、楽しめる、ワクワクさせてくれることがこの世にはたくさんあるのだろう。人間は、明日の自分、来年の自分、未来の自分を想像して、前を向くことができる。これは、後戻りできないことによる産物ではないだろうか。だとしたら、過去を生きずに、今を精一杯生き、できる限りのことをする方がよっぽど価値がありそうだ。そろそろ身体が温まってきた。そう思いながら、僕は今日も、ジムニーとしての日課を果たす。

完全無欠ハッピーエンド/眉墨/バタフライ・エフェクト

 

「お前なんて大嫌いだ。あっちへ行け」

何度過去をやり直しても、身の回りの誰か一人は必ず不幸になる。
日記帳を開くことによって、書かれた過去の記憶のある地点までさかのぼることのできるエヴァンは、初恋の女性・ケイリーと最愛の母親、周囲の友人たち全員の幸福な未来を求めて、何度も未来を選択しなおす。

しかし彼の能力は人間の限界値を越えており、一度遡るごとに新たな選択の結果としての記憶が脳に記録されるため、何度も過去をやり直したエヴァンの脳は20歳前半にも拘わらず人間の100年分以上の記憶を蓄えていた。

何度やり直しても必ず誰かが不幸な結末を迎えるループ、肥大化してはち切れそうな脳。
幾度目かのループの末、エヴァンは母から日記を書く以前、ケイリーと出会う以前まで遡り、初対面のケイリーを口汚く罵る。
「ぶっ殺してやろうか」
「あっちにいけ」
ケイリーとその周囲の人々を幸福にするために、エヴァンはケイリーと知り合うことを拒絶することにしたのだ。
泣きながら走り去るケイリーの背中へ向け、エヴァンは切なげに「さよなら」とつぶやく。幼いケイリーが振り返ることは無かった。

 

結果としてケイリーとその兄は、暴力的な父親から逃れ母と共に暮らすようになり、兄妹は幸福な人生を歩む。
エヴァンは求めていた未来に到達したことを悟り、親友と共に、二度と過去に戻らないために日記を火にくべる。

 

エヴァンが過去に戻ることができる、と精神病棟に閉じ込められた父親に告げたとき、父は「神の真似事をしてはいけない」と厳しい顔で諭す。
ここでいう「神の真似事」とは、いったい何だろうか。
過去に戻り、未来を変えることだろうか。

否、神の真似事とは、「他人の幸せを願うこと」だと私は思う。
非常に耳障りが良く、自慰的な犠牲欲を掻き立てるエヴァンの願いは、ヒーローらしく一見美しいものに感じられる。
しかし、私は、「幸せになってほしい」という純真らしい願いほど危険なものはないと思う。

幸せを決められることほど、苦痛なものはない。
幸福とは、個人が各々勝手に感じるだけのもので、そこに普遍性も共通点も存在しない。故に幸福とは、願われる形で実現されることは決してなく、他人は勝手に幸せになったり不幸になったりするのだ。

本作品において、エヴァンの選択した結果ケイリーが歩んだ未来は誰が見ても不幸なものに思われたかもしれないが、ケイリー自身も自らの幸福が誰かに勝手に与えられる形でやってくることを望んでいたことにも問題がある。

人は、他人を幸せにしてやることもできなければ、他人に幸せにしてもらうこともできない。

幸せとは、個々人が勝手になるものである。

だから、エヴァンがもし、この映画を完全無欠のハッピーエンドにしたいのならば。
医者になった彼とすれ違った、見違えるように美しくなったケイリーを呼び止めればいいだけの話だ。
それがケイリーにとって幸福か不幸かなど、エヴァンにも私たちにも決めることはできないのだから。