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遺書は物語の夢を見るか/遺書/エーオー

 夢はお話を書くことです。
 この夢のお葬式を開いてすぱっと諦めようとした時期もありました。

1*したためる

 どうしても何かになりたくて、そのために正当な手順を踏めるほどの情熱も度胸も才能もなくて、だけど必死になってしまう。端から見たらきっとすごくみっともなく、壁にぶつかったら必ず右に曲がるダンゴムシみたいに、のたうちまわっている自覚はあるのだけど、どうにもならない。無駄に声がでかいからその視野狭窄を他人に押し付けずいぶん迷惑をかけたことでしょう。ごめんなさい、私は私のことしか考えてないから辛かったら離れていってね。でもこう、やっぱり人間出来ることとできないことがあってね、非効率的だと思ったらたすけてくれてもいいんだよ。たすけてくれよ。

とまあ、挫折を繰り返したところでプライドもクソもなくなりました。それももう終わり。成果があったかは不明ですが、身が削げた気がします。課題も反省も解決されることなく積もってゆくばかりですが、手に入ったものと目に届く範囲の山を見つめてなんとかやっていきます。

2*階段をのぼる

 すきだなあ、いいなあって思ったもの。辛かったこと苦しかったこと。他人にとって小さなことが、自分にとっては大きなことで「すごかったんだよ!」っていつだって誰かに泣きながら訴えたくてずっとやり方を探している。

 三年生にしては珍しい、日がまだてっぺんには昇りきらないはがね色の朝、あのキャベツ畑を上っていて、橋の終わりの手前の三角スペース。そこにまるで絵本に出てくるような、もしくは美麗なコンピューターグラフィックのような森の入り口があるんですよ。
 映画のセット的『森の入り口』がこじんまりと。奥まった角には葉を広げた大きな木があって、根元には草が茂っている。それが朝露なのか葉の表面に光が照り返してるのかわからないけど、鬱蒼としたなかで音もたてずしずかにきらきらひかっていて、こんなにきれいなものを私は忘れてしまうのかと思うと、いっとう悲しい。
 たとえば絵が描けたなら、映画が作れたのなら、綺麗だと思ったものそのまま残しておけるけど。わたしは何も持ってないから、あわてて言葉を使うしかない。不完全な語彙で不完全な言い回しでそれをつなぎ留めておくしかない。
 それがたぶん物語のはじまり。

だから、夢はひとまず、なんにもなれないのだとしても、みっともなくお話を書き続けることになりました。本当になんにもしないままでいたらいつか大切なものを忘れてしまうのが怖いから、休んでる暇なんてないですね。すくわれないさびしさも、お話になると思えば圧倒的にしあわせだから、大丈夫。いいものが出来なくたって手を動かして。書き続けること。物語のことなんて好きじゃなきゃよかったのに、いっしょうお前に苦しめられることにしてやったよ。恨むね。でもまあ、なんとかなってくれ。子どもの頃の夢で終われたらよかったのに。

3*屋上にて

有権者に訴えたいことは~~! あなたが大事だと思うことを書き続けてほしいと言うことで~~す! おせっかいかもしれませんが~~、どうかいいものを書きたいと思うのなら~~、青臭いとか言ってくるしたり顔のやつにもめげず中指を立てて一心不乱に走ってくださあ~~い。隙あらば殺せ~~! いや、マジで、三年間上手くいくもんじゃねえぞ~~。がんばれ~~。

 以上、それではさようなら。

 どぼん!

4*中空にて

 もうちょっとちゃんと書きたかった!

エンドロールの後も怖くないよ/ぜんぶ雪のせいだ。/エーオー

ありがたいことに、まるでフィクションのよう。手と手をがっつり取り合う青春。私には運命の出会いが多い。もう、それは本当に、あなたといると何でもできる気がするんだよと心から言うことのできるような友達に出会うと、ピシャーンと電流がはしるほど明らかだから、どんくさくて臆病な私でもえいっと勇気を出して絶対に逃さないように捕まえられる。

あれは高校1年生の時、彼女とこの学校を目指して歩いていた。ふたりとも勉強に命かけてて、電車の窓にノート広げて理科総合のワークやったとか言い合って面白がる日々を送ってた。私がここの大学を見たいと言ったので彼女もついてきてくれた。
寒い冬の日でちらちらと雪が舞い始め、こなぁ〜〜ゆきぃ〜〜、と最初は歌っている余裕があったけどどんどん吹雪いてきておまけに迷子。コンビニの店員さんに聞くと「右か左か、どちらかに曲がってください!」とアドバイスにならないアドバイスを貰い、ごめんねと謝りながら彼女は許してくれながらやっと山の上に着いた。

あれは高校2年生の時。文化祭後の精算の締切のあるよく晴れた夏の日。領収書の宛名の貰い忘れが発覚、まるでスパイになったみたいにふたりで学校を抜け出してお店に駆けていったこと。
お店の開店は12時。領収書の締切も12時。シャッターは閉まっていてもうだめかと思った。でも準備なのか半分くらい持ち上がったところがあって、やるしかねえなと声の大きさに定評のあるふたりは「すいませーん!!」と叫んだ。シャッターも叩いた。若いお兄さんが快くサインをしてくれた。そこからダッシュ。ギリギリで間に合って。まるで映画の大好きなシーンみたいに君が水色のベストで軽やかに駆けていく後ろ姿がときどき頭をくるくる回る。

でも、さすが天下の青春が力を貸してくれた運命。エフェクトがかかるのは残酷なことに時間制限がある。
大学生になって魔法は解けて、あなたがいれば最強だった私はあなたに会うとしんどくなった。ぐんぐん前に進んでしまう君に停滞し続ける私心が折られて、強気だったのにどんどん弱ってついていけなくて、免許合宿で交通安全ビデオを観ながら泣いてた。雪の日は笑って許してくれた癖にと、一緒に旅行に行ったときは口煩い妻に圧倒されながらも気弱で離婚をする気力もない夫ってこんな感じかと海からの風を感じながら妄想した。

さすがに、もうだめか。友達は変わるし私も変わる。色褪せて、ガラスみたいに光って硬かった無敵の気持ちは消えて、もうかえらないこと。

と、
思ったのだけれど。

あのね、びっくり。大丈夫でした。何とかなることあるんですね。苦しいこともあったけど、一人でいるときその子との陽射しまぶしいサイパンの思い出が、ふとした時に頬をくすぐるものだから。君、ビュッフェなのにポテトしか食ってなかったね。それでも会い続け会い続けていたら。最近は、姿を見つけるとにっこりしてしまう。ふふふって笑い声が出てしまう。まるで熟年夫婦みたいじゃないか。あの時と感触は違うけど、またきっと私あなたに恥じないように無敵になれるほど燃料は満タンだぜ。

そう、わたし無敵なんです。人一倍おばけが怖いけど、運命が解けること魔法が解けることが、怖くない。どうすればいいか知っている。
映画のなかの最強のふたり。背中を預けて銃を構える。ここで終わるからこそいいんだよ。続いちゃったらつまんねえよと観客は好き勝手言うんだよ。しかたないよ。みんな恐いから、予防線だって張りたくなる。
でも、私はエンドロールの後も続くものの輝きを知っている。形が変わっても同じように大事にできること。だから、私は私を無敵だと思うよ。

さよなら、キャンディー。またきて、夢。/共作/エーオー

※筆者の技量不足によりθnさんの元のプロットとかけ離れに離れてしまったことを深くお詫び申し上げます。

 例えば、西日に柔らかく包まれているとき。スプーンをかき回すと浮かんでくる紅茶の葉っぱのように、杏奈との思い出が音もたてずにあらわれる。観覧車のようにひどくゆっくり回転する間に、思い出した会話をなぞって磨いている。硬くなるように。もっと光るように。ちゃんと残るように。
 博物館の恐竜の化石を私はいま一人で見上げている。平日の午前中だから私以外の人はいなかった。
頭の中でまたスプーンをまわす。高三の真冬、杏奈に連れられて一度だけ来たことがある。首長竜の太く大きな肋骨が内包した空洞を見て「あの骨をテントにして、キャンプとかしたいね」って喋ったこと。タイムスリップして二人で哺乳類を捕まえて肉を食べて、星座とか見つけようぜと言い合った。
 杏奈の左手にはもうすぐ用を果たさなくなる単語帳が握られていた。大学進学を周りの大人に反対されていた彼女に、せめてものエールとしてプレゼントしたものだ。「好きな場所で覚えたら記憶に残るとか、ないかな」と右手で私の手を握りながらページをめくっていた。
「麻子!」
少し低めの声が響く。ほんもののあの子だ。三年ぶりに見た姿は少し大人びていて、肩で切りそろえられた髪が輝いていた。一歩一歩、杏奈が近づいてくるたびに、凍るみたいに身体がかちこちになる。

「博物館のガクゲイインの資格を取りたい」と言って杏奈が上京するとなったとき、それはもう周囲は大騒ぎだった。そもそも、高校に通う生徒、女子となれば半数以上地元に留まるくらいには閉鎖的な場所だったし、そんな職業があることをこの街のみんなは大人だって老人だってほとんど知らなかったと思う。どう丸め込んだのかわからないが、あっという間に彼女はトーキョーにいってしまった。
「大学、どう?」
「おもしろいよ。好きなことを勉強すんのは楽しい。この春休みもレポート出さなきゃいけないから地獄だけど」
「サークル、とかは?」
「サークルは入ったんだけどあんま行ってない。飲み会、だんだんめんどくさくなって」
「そうなんや。なんだあ、もっと中身も都会っ子になってるかと思った」
 博物館からバスと電車に揺られて二時間強。雪かきされた道を歩く。この街では杏奈の通う大学付近ではおおよそ見られないであろう程の高さの雪の壁がその両脇にそびえたつ。
「でも、むこうにも森とかけっこうあるんだよ」
 相変わらず歩くのが速い。影法師が置いてかれるんじゃねえか、なんて近所の和久井さんによく言われていた。肩で風を切って歩く杏奈の頬に艶っぽく赤みが差していて、それが寒さによる紅潮なのか化粧のせいなのか、私には分からなかった。
「麻子、彼氏できた?」
 多分、お互い一番気になっていることだった。なるべく普通に聞こえるように声音を作った。
「残念ながら」
「そっか。私も」
 短い二言が雪に反射して返ってくる。しばらくの間、会話はなかった。
 杏奈が振り返った。白い空が電線でひび割れていた。
「就職、こっちでしようかと思ってさ」
 沈黙が頬を張った。冷気で鼓膜がキーンと鳴りつづけている。

***

「もうすぐお父さん帰ってきちゃうから、二人で一気に入っちゃいなさい」
 ご飯を食べ終わると私たちはそそくさと脱衣所に追い立てられた。寒さにがたがた震えながら服を洗濯機に突っ込み、急いで風呂場に飛び込む。
「うわっ、このシャンプー久々に見た。墨のやつ。向こうじゃ売ってないよ」
「これ毎年、保科さんがくれるんよ」
直後に杏奈が化粧落としを忘れたことに気付きバスタオル一枚つっかけて廊下をダッシュする羽目になったけど、それ以外は問題なく済んだ。ようやく髪を洗い終えた私が湯船の方に向かうと、杏奈がスーッと動いて避けた。それからしばらく空気を抜かれる浮き輪のように私たちは湯船の中で脱力していた。
「こっちに帰ってきたらさ、また麻子と遊ぶようになるのかね」
「……どうやろね」
「そもそも就職先あんのかなあ」
「うーん。ないことはないだろうけど」
「ってかさ、織部と平山さんがデキ婚したってホント?」
「それだいぶ前。たぶん今もっといるよ。だいたい同級生とかとくっつくしかないみたいだし」
「うわー」
 杏奈が両手で顔をぬぐった。みるともなしにそのほっぺたを見ていた。
「それなのに、麻子はなんもなかったんだ」
 身体の輪郭、杏奈に近い左半身が強烈に意識された。床のタイルの境目を見つめるしかなくて、お湯から出ている肩の部分が震えるような気がする。指が二の腕に食い込んだ。立ち込める湯気で視界が曇る。そして、杏奈のまっさらな額と瞳がすぐそこまで迫っていた。
 赤い唇の、皺の一本一本がくっきりと見えた。それががぱりと開いたら、もう駄目だった。
「やめて!」
 私は、風呂の蛇口に後頭部をぶつけて、そのまま後ろへと滑ってがぼがぼとお湯に溺れながらもがいた。柔らかいお腹を蹴ってしまった気がする。それでも何とか這い上がって、咳き込みながら湯船の縁に腕をついた。尾骶骨の痛みが今になって響いてくる。
「……ごめん」
 その姿は、もうただの白い肉の塊に見えた。
 それからどれくらいの時間がたったか分からない。玄関が開く音で我に返った。本当は、杏奈は今日うちにとまるはずだったけど、帰ってきた父に車で彼女の家まで送ってもらうことになった。
私は裸足で玄関に立っていた。身体が冷えて、でも心には到達もしないから、どうにでもなれと思った。

 二月の下旬、杏奈は東京に戻るからと洗濯物を取りに来た。
「無事就職出来たら連絡する。気が向いたら麻子も旅行とか、行ってみなよ」
「うん」
 目の前にいる彼女をぼーっと眺めていた。あの瞬間、これまで私が杏奈の顔に色とりどりのピンで留めていたものが、全部すべり落ちてしまって、知っている人の顔のはずなのにまったく違うものにみえた。
 彼女が折りたたまれた紙きれを取り出した。そうして、私のポケットにねじ込む。
「なにこれ」
「見ても、見なくてもいいよ」
 じゃあね、バイバイ。と杏奈は笑顔で手を振った。ためらいなく風を切って歩いて、もう彼女は見えなくなった。

***

 私はまた一人で恐竜を見上げていた。星空を思わせるような暗いこのコーナーで、力いっぱい首を逸らして首長竜の肋骨を見る。
 スプーンを回す。これが最後だ。ほねほねテント、肉を焼くこと、星座を探すこと。茶葉のようにくるくる回って終わりの観覧車みたいに光って硬くなった。口から吐き出す。飴玉くらいの大きさの琥珀になったけど、もう持っているのも苦しくて痛くて耐えられないから、さよなら。
 あのときここに降り積もった単語。私のあげた単語帳。その一ページだけ破り取られて、いま手元にある。杏奈が最後に渡してくれた言葉が、ありがとうなのかごめんなさいなのか、もっと別のものなのかも確かめないまま琥珀をくるむ。両端をねじってキャンディーみたいに。そして、肋骨の下に投げ込んだ。
 手を合わせる。これが、いつか化石になりますように。特別光っているのを誰かが見つけてくれますように。二人はずーっとずーっと仲良しでしたという夢を私はもう見ることが叶わないから、せめて他の誰かがこの光に夢を見てくれますように。
 私はいつの間にか膝をついていた。耳元でごうごうなるのは、空調なのか私の喉から鳴る音なのか分からない。お湯のように涙が熱くて手のひらが焼けて痛かった。かわいそうな、杏奈。あなたが好きだったこの場所に、きっともう二度と戻ってこれないんだね。

拾ったら、/自分大好き/エーオー

拾ったら 手紙のようで 開いたら あなたのようで もう見れません
笹井宏之『えーえんとくちから』

 とてもとても、わかる歌。この並びを見ただけで胸がいっぱいいっぱいになって顔を覆ってしまいたくなる。
 これは私のだいすきな笹井宏之の短歌なのだけれど、まだ、いつもいつも“あなた”のところに“わたし”を入れて詠んでしまう。

「拾ったら 手紙のようで 開いたら わたしのようで もう見れません」

 わたしは、私がよくはみ出る。友達はいるしみんなが好きだから一人ではないけれど、やっぱり独りだと思っているかぎりさびしい。孤独はおはなしの燃料だから必要、でもそれを上回るほどにさびしいと、私の範囲を見あやまって、でろーんと。小説をみても映画を見ても漫画を見ても、そこに私を見つけてしまう。共感といえばそれまでなのだけど、このかなしみは誰のものなのだろう。

 人に会うとおつかれさまって言ってしまうのは別に相手をねぎらう訳でなく、わたしがいつも荷物が重かったり眠かったりして疲れているから、みんなも生きるだけでさぞ疲れているんじゃないかと勝手に自分の物差しで測ってしまうわけです。
 ただ、自分と相手は違う人間だから、何かが起こったときの受け止め方はもちろん違って、私の妄想の相手の苦しみイコール相手の本当の苦しみではないから、いっさい間違っている可能性も、余計なおせっかいをしてしまう可能性もあって、一歩間違えると危ない。
私はいつも私を探している。取り憑くための感情を探している。他人のものであるはずのほころびや隙間に私がはみ出して正しいかたちを見えなくしてしまう。自分しか見えていなくて、本当に誰かのことを考えることができない、かもしれない。
 でもなあ、当たっているんじゃないかと思ってしまうのもやっかい。

 人間と言うのは、どうも集まれば補い合う性質があるようで、甘ったれた話なんですけど疲れたと言うと(疲れすぎかよ)「大丈夫?」って言ってくれる人がいるし、転んでひとりで大笑いしてると代わりにまわりの子が心配してくれる。
 小学生のとき、運動委員で一緒に掃除をしていたAちゃんが「お前遊んでただろ」と男子に言われて泣くのをこらえた顔を見たとき、離れたところから見ていた私のほうが泣いてしまってクラス中の人に驚かれたこと。あれは謎だったね。こう、よくあるじゃないですか。「あなたが代わりに泣いてくれたから、私は大丈夫」とかいうやつ。まって。悲しい人が泣ける世界で在って。私はいっつもよく笑ってよく怒ってよく泣くので、本当にそうしたい誰かのぶんを奪っているんだなあと罪悪感。私が心配されてしまうけど、その人が泣いてみんながその人を助けてくれるのが一番いいのになあと、思っているんだけどね。ずびずび、うええ。

 どうも感情に振り回されて、私は誰かを疲れさせて削って奪って生きている。
 こういう自分が好きかというより、もうしょうがないからこういう私で生きるしかない。

 私が好きになれる私は、水のようになって人の間で生きられるわたし。助けがないと生きられないのを、知っているのはいいところかも。わたしはこれからも誰かを削る。ごめんね、しんどいときは離れていいよ。そのぶん削られても大丈夫なように心を満たしておくからさ、どんな喜びも怒りも悲しみもうんうんうなっていけるところまで一緒に想像するからさあ。拾ったら 手紙のようで 開いたら。いつかしぜーんに、“あなた”と入れて詠める日がこないかなあと夢見ている。

星をむすぶ/アッタカイ/エーオー

11月の木枯らしが、乾燥してひび割れそうな頬に切れ込んでいく。墓参りも終わり、親戚一同の正面ではお坊さんがなにやら話を始めるようだ。
「蓮、もう小学生でしょう。ちゃんと立ちなさい」
遠くに出かけるときは持ち歩いている星の図鑑を開き、座りこもうとすれば母にたしなめられた。この調子では父が本を取り上げてきそうだし、大人しくあきらめることにする。

「みなさん、しらすは分かりますか。君も、分かるかな。ご存知の通り、日本人はあの白い小さな魚たちをご飯に掛けたり、しょうゆにつけたりして食べますよね。なんてことない、当たり前の食べ物です。

「ところで先日、外国人の方に『日本にはこういう食べ物がある』と話すと、彼は言ったんです。それは残酷だと。驚いて、よくよく聞いてみるとこういうことでした。彼の故郷の村では山羊を食べるんだそうです。その山羊をたくさんの人に分けながら、四、五日かけてひとつの命を頂く。なのに、日本人はこの無数の命を一度に食べつくしてしまう。それが、残酷だということでした」

風があかぎれをなぞって初めて、本を握る手の力が強すぎることに気付いた。でも生きることにはしかたのないことですよね、とお坊さんは朗らかな笑顔で言う。いただきますは、命をいただいているということなんですよ。そこで話は終わり、みなぞろぞろと予約した料亭に向かうべく、駐車場の方へと歩き出した。

蓮は黙って、図鑑の表紙の星座を見つめていた。歩きながら、どうしてか分からないのだけど目に水がたまって、白い星たちはそこに溶けてほそながく尾びれを伸ばして、泳いだ。

給食係がいただきますの号令をかけた。蓮はこの時間がいっとう嫌いだった。
「おまえ、今週のスイハンジャーみた?」
「見てねーよ。おまえまだそんなもん見てんのかよ。だっさ」
「は? ださくねーし。新山さんも見てるのにそんなこと言うなよ」
「わたし見てないよ」
一年二組では給食の時、近くの席の生徒と机をくっつけて食べる。班のメンバーによって自然に会話が生まれたり、生まれなかったりするのだが、今回は男子が随分にぎやかな班になった。
蓮は喋るのが苦手だった。聞き役に回ることが多い。話に耳を傾けながら、やさしげなうぐいす色をしたお盆の上のメニューたちと一対一の孤独な戦いを強いられる。ぼそぼそとしたコッペパンは一向にかさが減らない。白いんげん豆は相変わらず噛んではいけない味がする。
「うそつけ。見てんだろ」
「見てないってば」
新山は髪の毛を耳に掛けながらスープを吸った。先の割れたスプーンがぴかっと光る。班で唯一の女子の新山は男子のからかいをもろともしなかった。
周りの生徒がどんどん皿を空にしていくなかで、蓮はコンソメの海にただよう玉ねぎを彗星に見立てていた。どうせ今日の昼休みも、担任が丸点けをしている横で給食を片付けるのに使われる。図書室には行けそうもない。
おえっ、と喉がたわんだ。
「レン、また残すのかよ」
「あれだよ。世の中には食べたくても食べれない人がいるんだよ」
席から立ち上がりながら寺尾が言った。新山は遥か遥か遠くの給食台の列に並んで器を片付けている。

さて、こんな調子におのこしでお残りさせられ続けているため、母はある作戦を決行することにしたらしい。
「それじゃあ、エプロンと三角巾をつけ終わった人から手を洗って来てください」
ほがらかな男性の声がかかった。それが、蓮のいる班の担当のユスラウメ先生だった。共働きが増えているとはいうものの、親子料理教室で男性の先生はやはり目立っている。
つまり、母は蓮の食への関心を高めるために自分で作ってみてはどうかと考えたらしい。成果がどうなるかは分からないが、ともかく食べることに対峙するよりは気が紛れてよかったと蓮は思った。
「お、蓮くん。包丁を使うのが上手いね」
合いの手の入れ方が心地よく、母親たちに囲まれがちなユスラウメ先生は、しかし器用にそれをくぐり抜け子どもたちに話しかけてくる。蓮はお、とか、あうとか不明瞭な返事しか返せなかったが、先生は涼しい顔で待ってくれている。父が少し乱暴な性質なのでこの先生は新鮮だし、好きだと思った。
「蓮くんは、何が好きなの」
めげずに先生は話しかけてくれる。今度は朔にも答えられる質問だった。
「星とか、宇宙」
「へえ、すごいな。ロケットとか、宇宙ステーションとか?」
「ううん。星座が好き」
「あ、そうなんだ。いいねえ、浪漫があるね。オリオン座とか先生もやったなあ」
みじん切りにされた玉葱がきらきらと潤んでいる。次に手に取った合挽き肉はひんやりとしていた。

***

だから大丈夫だと思ったのだ。なのに、蓮の手は動いてくれなかった。
調理も盛り付けも終わり、自分で作った料理はいつもより輝いて見えた。実際、半分くらいまではいいペースで食べることができた。
でも、ハンバーグの残り半分に差し掛かるともうお腹がいっぱいだった。いつもの学校の教室のほこりの臭いが蘇ってくる。母が別の親子と話していてこちらを見ていないのが幸いだった。気付かれたら食べなさいと言われる。そうこうしているうちに、一番気づかれたくない人が来てしまった。
「蓮くん、もうお腹いっぱい?」
蓮は顔を上げられなくて、ユスラウメ先生のエプロンの名札をじっと見つめるしかなかった。この人にだけはばれたくなかったけれど、人をよく見ている人だから見つからないはずもない。
「無理に食べても辛いだけだからさ、食べれる分だけ食べればいいよ。どうしよっか、もうごちそうさまにする?」
先生はユスラウメという、へなへなとした名前が良く似合う細い身体をしていた。布巾をたたみながら、先生はそっと待ってくれている。その白くなったジーンズの膝を見つめたまま蓮は口をほどいた。
「ごちそうさまって、なんですか」
「え?」
「いただきますは命をもらうって意味だっていうから」
「学校でならったの?」
「ううん、お坊さん。日本人はしらすをいっぱい、食べるから残酷なんだって。でも、世界には食べられない人もいるから、食べなきゃいけないからって、だからね、どっちがいいのかなって」
ユスラウメ先生の顔から、静かに静かに温度が滑り落ちていった。脚の感覚がなくなっていったけれど、先生の手が手首を握った。その暖かさに励まされるように、蓮はじっと待つことにした。
「食べることを幸せだと思うことと、食べることを幸せだと思おうとすることは、違うよ」
さっきまでのなめらかな口調ではなかった。ひとつひとつ言葉を辿るように、ゆっくりと先生は言った。
「そのいただきますの意味はね、変な大人が勝手につくった嘘なんだ。大人はずるいから、自分で言っておいていちいちそんなこと考えてないんだよ。先生もね、そんなこと考えてない。心はだませないからね、蓮くんが幸せだと思ったことだけ、覚えていればいいんだよ」
重かったね。命なんて重いよねと、背中をさする先生の方が苦しそうだった。蓮は、胸のあたりに絡まっていた重りがじわじわとほどけていくように思った。

死ななきゃ平気かなって/食レポ/エーオー

期間限定ということでこれは逃せないぞと、登校ついでにちょっと行ってみました!
平日の昼過ぎ、黒いアスファルトの上に敷かれた黄金色の葉っぱは、冬の日差しにピカピカに洗われていて、公園で遊んでいた子ども時代を思い出させてくれるようでした♪

注文したのは「イチョウ」。
宮沢賢治の『いてふの実』では、『銀河鉄道の夜』にも使用された彼のオリジナルスパイス・透明感のある硬水のような比喩によって薄氷のような口当たりに仕上げられていましたが、こちらではどうでしょう。
せっかくなので、両手いっぱいにすくってきれいなものを探してみました。選べる楽しみがあるのもうれしい♪

出てきたのは、ふかしていないサツマイモの断面を折り紙にしたような鮮やかな黄色の葉っぱ。茎がついているので食べ歩きにも便利。カラメリゼされたような青空、湿気を含まない凍てつくような風も食欲をそそります。

裏表をよく洗ったあと、まずは千切って一口。サクッと噛みしめたとたん、林檎の皮の香りが口の中に爽やかに広がります。葉っぱ特有の繊維感は気にならず、舌に纏わりつくこともなく、かる~くいけちゃいます。そのうち今度は串に直接口をつけて食べちゃいました。ジャーキーのようなワイルドさでこれも楽しい。

と、いうことで、正直いままで食べた草花のなかで今のところいちばん食べやすく、食感も良く、美味しかったです!
これは毎年通ってしまいそうです♪
今が食べごろですので、終わってしまう前にぜひ。

****

衛生に気をつけてください。

見えるものvs見えないもの/夢の対決/エーオー

筋肉教経典・草案

 ――ヒーローは遅れてやってくる、筋肉はあとからツイてくる!――

信じるものが何もない?
何をよすがに生きていったらいいのか分からない?
人生とは死ぬまでの時間の消費で、そこに幸せも希望も見えない?
お任せください! 
“筋肉教”はそのすべてを解決します!

***

さて、不景気真っただ中。イデオロギーも崩壊したこの時代。
盗んだバイクで走り出せない私たちは、多様な選択肢の中で立ちすくむ日々。
そんな時には宗教を。その光明がゆくべき道を照らす!
でも、いるかいないかも分からないものが、本当に困っているときに助けてくれる保証はある?
さて、かの有名な『星の王子様』の言葉です。
「大切なものは、目には見えない」
神様。目標達成のための努力。明日を生きるための希望。好きな歌の歌詞の“きみ”。大切な友人、愛する人との絆。そして、心。なるほど、並べてみればどれもこれも目に見えないし手に取れやしません。
ただちょっとばかし、見えないものが多すぎやしねえかい?
だったら、見える神様を。

それはつまり、筋肉!

***

そう、たとえば道すがら時空を超えたティラノサウルスに遭遇したとき。
神に祈るより筋肉を動かせ! 大腿筋、前脛骨筋、その他大勢のゆかいな筋肉達があなたの力となるでしょう。
そう、たとえばせっかく覚えた英単語がまったくテストに出なかったとき。
神を恨むより筋トレだ! やればやっただけそれは筋肉として結果にあらわれます。
そう、たとえばイライラして人に当たってしまったことを後悔するとき。
神に謝るより筋肉を鍛えろ! 体力はあなたの心に余裕を生み、その余裕は誰かへのやさしさになれます。

***

「「「筋肉教? けっきょくただの運動大好きドMマッチョ暴力肯定集団じゃないの?」」」

そう、筋肉には常に悲しい誤解が付きまといます。筋肉、それ即ち運動と。
わけも分からず参加させられたマラソン大会、そりの合わない運動部部員との接触――このように、幼少期からたびたび繰り返されてきた理不尽な経験が、運動それ自体に憎しみを抱かせていることもあるかもしれません。
ご安心ください!
もはや筋肉を信じるのに、これ以上あなたの嫌いな運動をする必要はありません。
なぜなら、この世のあらゆる事象は“筋肉”なのですから!

たとえば、こんな経験はありませんか?
「荘厳な滝つぼをみて、悩みがふきとんだ」
滝。それは水流が巌を削り木々が生え、破壊と再生を繰り返した末の芸術。
これってなにかに似ていませんか?
そう、筋肉です! 滝は筋肉。ならばこの世のなにもかも、千切れてぼろぼろになっては強くなり蘇る筋繊維!

「バイトで得た経験が就活の面接にも役に立った」
そう、それは筋肉! 経験という“筋肉”による直感と反射!
「この論文はかなり文献を読み込んだ努力がうかがえるな?」
そう、それは筋肉! 誰よりも学問に向き合ってきたあなたには、理論を支える“筋肉”が見える!
「こんなにうれしいことがあるなら、生きていてよかった」
そう、それは筋肉! どんなに傷ついても再生し発熱する心が、筋肉でできてないはずがない!

***

筋肉教信者に必要なのは、礼拝でもお布施でもありません。
人生ぜんぶ、筋トレだ!
泣いて笑って怒って沈んで、時間も心も身体もぼろぼろになるまで費やしたものは、きっとあなたの“筋肉”になる!
あなたが光を手に入れるときも、筋肉はあなたを支えているでしょう。

zizozizo7/大作戦/エーオー

1
その日、めじろ区地蔵ホットラインに一本の依頼が入った。
「ちゃんと、おつかいできますように」
依頼主はあらかわひろとくん(6)だ。いつもは幼稚園の送り迎えで母親に手を引かれながらこの道を行き来している。きょうはひとり、エコバックを持って若干あぶなっかしい足取りでやってきた。
なるほど、はじめてのおつかいというわけか。微笑ましい光景も賽銭箱に百円玉が投入された途端、一気に暗雲たちこめた。ひろとくん、君はまだわからないかもしれないがこのご時世主婦はそう簡単に百円を手放しやしないんだぜ。レジにて金額が足りないという事態にならないだろうかと石頭と苔の間にいやな汗をかいた。
さて、こういうことなら受けないわけにはいかない。コードネームMA345(めじろ区あさひな町3丁目45番地の地蔵)は区域一帯に指令を出した。あらかわひろとくん、はじめてのおつかい成功作戦、始動である。

いやべつに、金額に目が眩んだとかでは、決してない。

2
「おいふたりとも、指令が入ったぞ」
こちら、あさひな町1丁目2番地富士坂前三地蔵のその弐。要請が来たことを壱と参にも告げる。
「なるほど。345もずいぶん熱心だね。またはずんでもらったのかな」
壱はいつものように物腰柔らかく言った。参はケッと口を歪める。
「あいつ、公園の前に置かれてやがるからな。小遣いもらってはしゃいだガキが、ぽんぽんぽんぽん遊び半分でけっこうな額入れてくんだろ」
そう、確かに地蔵は立地によって依頼人の層も変われば賽銭の金額も変わる。こちらの三地蔵がご贔屓していただいてるのは主に坂の上に昔から住むご老人だ。
「まあまあ、お互い様だし協力しよう。この前は杖を忘れた高山さんの件で助けてもらったんだから」
壱ははんなりと鼻筋の通った顔で爽やかに言った。ことわっておくと三地蔵も微妙に一人一人顔が違い、おばあさまがたは壱を会いにいけるイケメンと絶賛し賽銭をはずんでくれる。
そうこうしているうちに、ターゲットのあらかわひろとくんが坂の前に現れた。買い物は序盤だが、さっそく不安になってきたのかきょろきょろと辺りを見回しながら歩いていった。参が舌打ちをする。
「あの程度でびびるなんて今時のガキはなってねえな。昔はこの坂超えるのだって命がけだったが、子どもも泣き言言わずに登ってったぞ」
「昔って江戸じゃん。だいぶ遡るじゃん。むしろ今は舗装されて、ここで命を落とす子どもがいなくなってよかったって喜ぶとこだよ」
そう、つまり、地蔵がたてられる1つの理由がそれなのだ。
「ケッ、甘やかしすぎなんだよ」
「まあまあ。僕たちがもうひとり増えないようにみんなを見守っていこう。四じゃあ、数的にも縁起が悪いしね」
ほがらかな陽射しのなか、坂の上から結構なアクセルの音をさせて車が下ってきた。傾斜により油断するとスピードが出てしまうらしい。

3
ていしぼうにゅう
パン、8まいぎり
シーザーサラダドレッシング

……よし、かんぺきだ。おかねもはらって、ポイントカードもだせた。あとは、おうちにかえるまでが、おかいもの。

4
昼過ぎになり、西田さんと廣田さんがここで待ち合わせて近所の集会場へ向かうのを見送った。今日は生花のお稽古のようだ。
「214、この前賽銭箱壊されたらしいぜ」
「えっ、それはまた気の毒に。足を伸ばしにくい場所なのにね」
「人通り少なくて誰かに見られる心配もないからだろ。でも賽銭もそんなに……」
「214にとっちゃ踏んだり蹴ったりだな」
地蔵事情を語らっているとひろとくんの姿が見えてきた。はじめてのおつかいも復路、あと一息である。
あっ。
と思った時には遅かった。坂の目の前でひろとくんは転び、その拍子にがちゃんと何かが割れる音がした。エコバックに滲み出る液体、ドレッシング。見ているこちらさえ胸が痛くなる、おつかいがトラウマになってもおかしくない事態だ。
「試練だな。どう乗り越えるか見ものじゃねえか」
参だけはニヤッと笑っていたが不意にその顔つきがさっと凍った。。
坂の上からトラックが降りてきた。どうやら地面に這いつくばってしまったひろとくんが見えていない。スピードを緩める気配がまるでなかった。
「ど、どうする?!」
「まだ距離はあるけど、」
「いやもう限界だよ、アウトだよ」
「どうしよう、どうしたら止まるんだ」
二人ともパニックになっていたが地蔵は地蔵、それがひろとくんに伝わるわけもない。エコバックの中身をいじるひろとくん、トラック。どうしようもない。だって俺たちは地蔵で、どうにも、
その時、参の舌打ちが聞こえた。次の瞬間、彼の頭はぽーんと、それはそれはけん玉の赤玉のごとく弧を描いてトラックの眼前に躍り出た。
俺たちは声も出なかった。トラックは急ブレーキを掛け必然的にひろとくんの手前で止まることとなった。やっと振り返ったひろとくんの横、参の頭が転がっている。
「もう1つ増えたら、縁起がわりいだろ……」
頭部のかけた参が弱々しく言った。ひろとくんの手がその額に触れ、トラックから運転手が慌てて駆け寄ってきた。

5
『よくやってくれた、MA102の参。これで地蔵ホットラインも益々の発展を見せるだろう』
「あほか。これ以上命はかけられねえからな」
MA345からの伝令に参は不機嫌に返した。あの後、ひろとくんとトラック運転手の一報ですぐに町内会による参の緊急手術の手はずが整った。三地蔵も一躍有名となり「命を助けた地蔵」という新たなる伝承がこの地に生まれた。
「よかったね。こうなれば車の人も気をつけるようにはなるだろうし」
壱は柔和な笑顔を浮かべて言った。町内会の広報誌で「爽やか王子様系地蔵」と称された彼は虜にする年齢層をちゃくちゃくと広げている。
「やってられるか。自分の命は自分で守れっつの」
参は相変わらずだ。顔の傷は残ったが、それが逆に「ワイルドイケメン地蔵」として人気を博している。
さて、俺のことは必要最小限に留めておく。「超地蔵系地蔵」。どういうことやねん。深く考えると悲しくなるが、ひとまずセンターであることに自信を持って行こう。まさかアイドルグループの人気格差問題の葛藤を味わうことになるとは、地蔵人生いろいろである。

たたんで、/片づけ/エーオー

 裸足で台所に立ったのは間違いだった。リビングから暖房の熱が流れてくるからいいかと思ったのに、足の裏から伝わるフローリングの冷たさがばかにならない。それでも、動かない。苦行みたいでぴったりだ。湯を沸かしている鍋の熱を頼りに野菜を切っていく。
 人参、玉葱、できたらジャガイモも。実家を出るときに習った牛乳入りのスープが飲みたかった。包丁の扱いにももう慣れた。手ごたえのあるものはいい。形のあるものはいい。この作業は必ず実を結び自分を駆動するエネルギーになるという無駄のなさがいっとう、いい。
 お葬式の準備をしていると、その型の中にかなしみが折りたたまれていくんですよ。
 高校の時に好きだった世界史の教師の言葉が降ってくる。ある日の授業で彼は亡くなった父親の話をしていた。いつもどこか高尚なことを語るけれど言葉選びの品が良く、いやみさが無かった。二十歳になったけれどあの大人に近づけている気はしない。
 刃がまな板を打つ音が乱れた。重ねた橙の短冊がずれている。端をそろえてもう一度。規則正しい音が響きはじめて安心する。型通りの、作業。つまりこれは葬式だ。右足を左足の甲に乗せて体温をとった。折りたたみたい気持ちがある。

***

「瀬尾」
 その名前を呼ぶときわずかに緊張する。さ行で始まり二文字で終わるから、きちんと発音しないと周りの雑音に紛れてしまう。
 成功した。彼女はくるりとこちらの机を振り返る。肩のあたりで内側に丸まった髪がそれに合わせて回転木馬のように旋回した。
「ああ、吉田。お疲れ。もう帰るの」
「いや、図書館で課題やる」
「あれか。でも遂に今週で最後だね」
「それな。やっと解放されるわ」
 瀬尾とは秋学期の授業で一緒になった。少人数制で四週間に一回課題があり、中途脱落者も多かった。
 教室を出て連れ立って歩く。吹き付ける風に顔をしかめた。二月のさなか、今ごろが寒さのピークだろうか。来週からのテストに耐えればもう春休みだから学校には来なくていい。
 瀬尾の悲鳴が後ろに飛ばされた。風にあおられて前に進めなくなる。少し止まって待っていると、彼女は顔にかかった髪の毛を直しながら追いついてきた。
「あー、髪の毛つめたい」
 おかしなことを言う。木枯らしに負けないよう少し声を張った。
「つめたいの?」
「冷たいよ。男子はここまで伸ばさないから分かんないかもしれないけどさ、冬は髪の毛を指に通すと冷たいんだよ」
「あ、それは知らなかったわ。風で冷えるからか」
「そうそう。へんだよね」
「ん?」
「なんかさ、よくあるじゃん。犬とか抱きしめて『生きているから、あったかいんだね』ってやつ。でも私は生きてるのに髪の毛冷たいし」
「そこかよ」
 そっと、彼女の髪の毛を視界の端にとらえた。それは時々つやつやと霜柱のように光って揺れていた。
 ポケットの中で手が身じろいだ。
「まあ、髪の毛って死んだ細胞らしいしな」
「まじでか」
 じゃあ、死んでるもん頭にくっつけて生きてんだね。
 荒んだ鼠色の風景の中で瀬尾の鼻だけが赤く色づいていた。コートから手を出して自分の髪の毛を触ってみる。指先が冷たくてなんにも分からなかった。なんにもならなかった。そのまま手を振って、白い息をはいて瀬尾は去っていった。

「ありがとうございました」
 小教室にまばらに拍手が起こる。じゃんけんで一番負けてトリになった瀬尾の発表がちょうど終わったところだった。窓から見える空は今日も相変わらず寒々としていて、これでこの授業も最後だとあくびを噛み殺しながらぼんやりと考える。
「お疲れ」
「うん、ありがと」
 かたん、と隣で椅子を引く音がした。瀬尾はまだ緊張しているのかしきりに髪を耳にかけている。頭の中でゆるゆると遊ばせていたことどもは、結局それ以上なにも言葉を結んでくれなかった。教授の講評がはじまり反射的にそちらに視線をやる。直前確かに目が、一瞬合ったと思う。
 不意に気持ちが浮上して照れ隠しのようにぱっと首の後ろに手をやった。
 着氷。
 左手の小指の滑りがいやになめらかだと思った。まるでオイルでもひいたかのような、艶やかな生地を裁断するような、裁断。柔らかい何かを裂いている。何か恐ろしい感覚が身体に追いついて息をつめながら隣を見た。
 飛び込んできた真っ白い頬が、内側から光を発してこちらの目を焼かんばかりだった。磨き上げられたスケートリンクにたったひとつエッジの跡。瀬尾の目尻の近くに赤い線が入っていた。血だ。一房垂れた髪の毛がこちらを責めるように揺れた。
「ごめん」
 その場にいた誰もあまり状況がよく分かっていなかった。ようやく、小指の爪で彼女の頬を切ってしまったことに気付き、向こうも指で触って血を確認した。にわかに起こった事件に周りの面々も何事かと気を回し始める。瀬尾は向かいの女子にティッシュと絆創膏をもらいトイレに向かっていった。

「だいじょうぶだよ。きれいに切れてたから跡も残んないよ」
 からっと彼女は笑っていた。ちらちらと髪の毛越しに見える傷跡は、でも言った通りか細くて見えなかった。
「ほんとごめん」
「もういいって。これでチャラ」
 せめてものお詫びにと自販機で買ったココアは、いま瀬尾が手で温めている。もはや何が等価になるのかも分からずこんなことになってしまった。
 時計をそっと見る。次の授業がもうすぐ始まる。教室の分岐点にたどり着いた。瀬尾の方は次がテストらしかった。
 向かい合う形になった。
「じゃ、半年間おつかれ」
「お疲れ。課題ではお世話になりました」
「ほんとだよ。まあ吉田は最後の日にこんなことになったけどね」
「その節は大変申し訳ない」
「冗談だよ」
 瀬尾は少しの間どこかを見つめていた。そして表情を弛緩させゆるゆると小さく笑んだ。
「思い出になった。ばいばい」
 しばらくそこから動くことができなかった。瀬尾は鮮やかな紺色のコートを翻して教室に入っていく。髪の毛がそれを追いかけた。一度だけ、鋭く刃のように光った。

***

 せお、と。最後になる名前を呼ぶと、鍋の下で炎が一瞬ゆらめいた。

 

うたに生きる/きになるあの子/エーオー

あこがれのTさんへ!

たとえばおこがましいですが、私が平安貴族だったらでも相変わらず消えたくて、出家したいとぼやく日々でしょう。木の戸から陽のあかりを採るためにくり抜かれた草模様の繊細さや、細やかに名の付けられた色たちの織りなす組紐で、心を慰めて永らえつつ、何も為せずただの命を乗せた器としての価値しかないのなら、ものなど思わなければよかったと別の何かに焦がれているのでしょう。

そんなときに、あなたの作った歌に会いたい。他のすべてをうっちゃって、床にその歌を置いてみて、対峙するように両手をついて、目が乾くのにも構わず並べられた言葉を食い入るように見つめて、眩さの奔流に胸を打たれるのです。歌のために、こんな歌のために生きようと、その日から言の葉あつめに奔走します。

さて、歌を詠んだあなたは、きっと蹴鞠では端っこの方にいらっしゃるのでしょう。活発な殿方に少し辟易しながら、跳んできたときはおどおどと返す姿が目に見えるようです。大丈夫、言葉はあなたの味方です。あなたは気づいていないかもしれないけれど。大袈裟でなく、苛烈でもなく、そっと柔らかく何かを思う言葉が鹿おどしからこぽんとこぼれた水のようできれいです。

現代ではベースをおやりとのことですから、雅楽に精を出しては如何でしょう。宴であなたは一段高いところにいるようなうつくしい人にきらきらと憧れながら、触れられないならばせめてと素朴に、ひたむきに音を奏でるのでしょう。

そうですね、考えたのですがこの時代、男と女は簡単に会うことはかないません。となると、私のいない歌合で詠まれたあなたの歌は見られないことになる。何てこった。いけない、そんなのは良くありません。私は書き損じでうっちゃられたあなたの歌だって見たいのです。

ならば、と。私は風になりましょう。こもって死ぬのを待つよりも、生きたと思わせてくる歌を見つけに次々と、次々と吹き回ります。あなたが誰かへの言葉を載せた貝殻を、きやらきやらと揺らして素敵ですねと言います。そうしてずっと駆け回っていたらいつか時空を超えてしまって、今日のマンションの外にある大きな櫻の老木の、根っこの窪みに溜まった水がこぽんと鳴って、あなたの文章にふと会いたい。