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私と兄について/昨日髪を切った/温帯魚

昨日、髪を切った。嘘だ。

でもそうしたら僕はまた、兄を置いていくのだろうか。

 

つまらない書き出しから始まってしまったが、死んだ兄について書こうと思う。「アイ」というお題を聞いてから(あるいは聞く前に)思いついたことはそのことだった。愛、哀、I。恥ずかしくなるような単語を思い浮かべながら、おそらく私が一番真剣に書けることがこれだった。これ私が最も嫌いな、誰に向けているわけでもない文章なのだろう。それでも私は書こうと思ったし、つまり書かなくてはいけないことなのだという気がするのだ。兄が死んでいなければ、私はもっと適当に、あるいは真剣に生活をしていたのだろう。もちろん、そんなことはあり得ない。どんなに考えようとどうしようもないことがあるという当たり前のことがある。

 

私と違い、髪を切ることが好きな兄だった。外見に気を遣う人で、私よりずっと多くの服を持っていたし、おそらく私が使い方もわからないような道具もたくさん持っていたのだろう。私みたいに外見に無頓着な人間ではなく、それなりにトレンドにも気を使う人だった。私より少し身長が低く、それは私の秘かな自信だった。仏頂面をしていることが多くて、私はそれをあまり好ましくは思っていなかった。とはいえ私より目が悪い兄だった。近頃は私も外を出るのに眼鏡が手放せなくなってきたが、彼はかなり昔からそうだったから、目を細めることが多くてそう見えたのかもしれない。彼がいなくなってからいくらか写真を探したりもしたが、笑いもせず、かといえば苦い顔でもない。できるだけ無表情を心掛けているような、つまり写真が苦手な男だった。家族で旅行に行った時も思えば私とともにあまり好ましく思っていない態度をとっていたことを思い出す。

だった。という言葉を違和感なく使えることに少し悲しくなる。

 

 

私にとって鏡のような兄だった。もちろんこの言葉には違和感が付きまとっていて、一番しっくりくる言葉は私にとって兄弟な兄だったという何も言っていないような言葉になる。鏡ではなかった。だから、鏡のような兄だったのだろう。あるいはもしかするとという言葉を頭につけたほうがいいと思ったりもするのだが。

私と同じように学校に行くのが下手で、人付き合いが苦手で、そのくせ人前に立つことが好きな兄だった。私と同じように信用ならないやつで、私からするといると心地の良い奴だった。私と違って夏目漱石や太宰治をよく読んで、でも私と同じように本に金をかける奴だった。私と違ってジャズが理解で来ていて、でも大体同じように音楽が好きだった。

もちろん、本当は全部違うのだろう。今まで書いたことは全部私が勝手に思っているだけのことで、本当は全然違うのだ。私からしたって書いている言葉がまるでしっくりとこない。私たちが似ていたのではなく、私が勝手にあとを追っていたのだろう。全部私の誤解で、本当はきっとまるで違っていたのだろう。彼は私がそこそこ嫌いだったし、私も彼に大体腹を立てていたかもしれない。私が馬鹿な人間であると同じように、彼も馬鹿な兄だった。私から見ても生きることが下手で、死んでしまったのだから本当に下手だった。

言葉にしたものは何となくそんな感じがして、でもまるで違うような気もする。私は彼が誇りだった。私は彼が嫌いだった。当然その両方は両立して、つまり私たちはまるで特別なところがないような兄弟だ。一緒にゲームをした。夜にどうでもいいことを話し合った。犬の散歩を押し付けた。風呂は大体私が洗ったが、洗濯をすることは彼のほうが多かった。機嫌がいいときは私に何かをくれたりもした。多分他とは違っていて、でもそんなことはどこも当たり前で、それでも私にとっては悪くない関係だった。私は馬鹿で彼の道筋を恥ずかしげもなく辿っていって、いつのまにか全然違う人間になっていて、それでもきっと同じだった。私と違ってバイクと旅が好きで、私と違って焼酎を好んでよく飲んでいて、私と違って一人暮らしをたまにしていて、私と違って私と違った。どうでもいい。兄の思い出は本当にどうでもいいことばかりで、まるで重みのない私だから同じようにドラマチックでも何もなくて、人生における刺激のようなものでもなくて、ただ過ぎ去った日常は彼がいなくなってもただ過ぎ去った日常で、何一つ変わらず思い出しながら忘れていくようで、ぼんやりとしたイメージしか残らず悲しいという言葉を使うにはあまりにも何もない。悲しいという言葉も愛しいという言葉もそうだと言われればそうなんだけど多分違うのだ。

ナンセンス。もっとも語義として正しい言葉がこれだ。言葉になんてならないまま、あるいは言葉にしようとしていないのだろうか。わからない。わからないけれど、わからないという言葉だけは手を変え品を変え表現している。

 

私が兄がいなくなって上手に悲しめないのは、きっと彼との距離が彼がいなくなっても変わらないからだと思っていた。こんなもんだ。今までだって会わないことなんていくらだってあったしそんなことを気にもしなかった。二度と会えないって言ったってそんなことで変わるような何かがあったわけではないし何も変わっていない。もちろん変化はしているのだろうけれどそれはきっといつものことで変わろうが変わるまいがどうでもいいのかもしれない。それでもきっと悲しいのだろう。あまりに自然に変わりすぎて、あるいは私がそれを見なかったせいで、それよりももっと優先すべきことがあるせいで私は悲しまなかっただけで。悲しむと悲しいの違いのようなほんの些細な違い。上手に悲しめないのではなく上手に悲しまない。悲しいのだけれど、それだけではないという事をあらわしたいのだ。私は彼を肯定したい。たとえ彼が死んだとしても、だって私が憧れた人で、兄弟なのだから。悲しいのだろう。彼を思うと目が潤むことはまだあって、それでも私はそれが悲しいからという事をうまく掴めずにいる。掴めないのか、あるいは掴もうとしていないのかそんなことは私にとっては重要ではないのだと思う。もっと何か、違う何かにしたい。そう感じているのだろうか。私にはわからない。多分きっとそこに価値はないように思える。

 

私は彼を愛している。それは当たり前のことで、愛しているという言葉に違和感があったとしてもそのことに違和感はない。死んでしまった。あーあという気持ちだ。もっと楽しいこともあって、辛いこともあったってどうにでもなるだろうと思っていた。いくつかの選択肢はなくなって、それでもいくつかの選択肢がそこにあって、それは当然のように彼が死んでいたって彼が存在している。私は馬鹿だから過去に戻れたらと真剣に想像して、もちろんそんなものはいつの間にか霧散していく。何かこう濃淡のようなものがあって、私はそれが分けられない。それは私だ。私が思うことだ。私が生きてくうえで私が動くためにある何かだ。そこのどこかに彼がいてそれは私にとってとても喜ばしいことで悲しいことで言葉にしてもしなくてもどうでもいいことなのだ。

 

兄についてのことで結論なんてまるでなくて、でもそれはきっと当たり前のようなことなのだろう。私が兄に縛られていたとしてもそれを解く気はないのだ。兄はいい奴だった。少なくとも私にとっては彼が兄でいて幸せだと言葉にできる。なんでもない。本当に何でもなくて何かにしたくない。私はしばらく彼の死を悲しまないのだろう。今までの私のように、髪もまだ切らない。わからないけど、たぶんそれがいいのだ。

悪魔と蝶と/バタフライエフェクト/温帯魚

ラプラスの悪魔という言葉をご存じだろうか。簡単に捻じ曲げて言うと、現在のすべてを知ることができればそれは同時に過去も未来も知ることができる、ということを表した言葉である。

 

この言葉は量子力学によって既に否定されたものである。これも簡単に別のものに置き換えると、現在のすべてを知ろうとしたとき、知ったすべてはすでに変わってしまったすべてであるということだ。

 

このことで私が言いたいことは、「知る」ことと「変える」ことは別物であるということだ。バタフライエフェクトはラプラスの悪魔にはなりえない。なることは許されなかった。もちろん、知ることは変わることだ。知ることで人生は確かに何かがどうにかなるのだろう。

しかし知らないことも、確かに変わることでしかないのである。何かが。

 

 

主人公を取り巻く人々は、父親を除けば何も知りえない。しかし彼らの感情は、主人公を置いて確かに回っていく。神なら、あるいは悪魔なら完全なるハッピーエンドを描けたのかもしれないが、人間は常に人間と対等な高さにしかいられない。彼らは知らないことで確かに世界を変える。すべては繋がりであり、すべては繋がりでしかない。

 

バタフライエフェクトで描かれたものは、変化だ。主人公の旅路は繰り返しであり、しかし変容だ。サイエンスフィクションは人文科学を確実にはらむということが僕の持論だが、知ることがすべてではないのだ。そもそも変化なんてものは存在しえない。それは変化しえないという悪魔を仮定したときに存在しうる幻である。

 

 

もちろん、映画だって幻だ。何なら我々が見ることができるのはすべて幻だといってもまあ許される気がする。知りえない、知ることができない、信じることしかできない。たとえいくら裏切られようと、信じることしか我々はできない。間違いなんて当たり前で、一も全もなくて、知っていると信じて知らないことも知っていると信じるしかない。イケてるデブがいると、それだけで救われる人がいるかもしれない。

 

ぶっちゃけ趣味ではなかった。しかしイケてるデブはあまりにもイカしている。映画を信じることなんて、そんなもんでいいのかもしれない。

インザダーク/ダンサーインザダーク/温帯魚

わからないものに対して私はどうリアクションすればいいのだろうか。

 

ダンサーインザダークにおいて。私が最も想起したものは盲目への恐怖である。盲目。目が見えなくなるということ。感覚の喪失。世界が見えない。字を読むことができない。対峙した人間がどんな顔をしているのかすらわからない。

 

我々は盲目を想像することができない。たとえ目をつぶったとしても、それは違うという感覚が首をもたげる。目を開くことができる。その場から動かないことができる。情報を更新し確認することをし続けることができる。わからないということがわからないということがわかるという、ストレス。あるいは死への恐怖より恐ろしい、終わらない絶望。

 

映画は続き続けることができない。たとえ途中で席を外しても、それは終わることが終わらないからこそ美しい。終わったものが続くことこそが醜い。醜悪な続きがないからこそ、彼女の終わりは美しい。

 

ダンサーインザダークは美しい。終わるからだ。彼女は美しい。終わりの中で終わらないからだ。我々の生存は、終わることを認識できない。朝に寝ることも、夜に起きることも、すべては続くと信じている。終わることが恐ろしい。しかし終わらないことも恐ろしい。

 

変わること。あるいは誰かに続くこと。誰かから何かを引き継ぐこと。構造があるというならば、なぜ私はそのメインストリームにいないのか。実存があるというならば、なぜ皆はそれを気付かないのか。恨めしい。ドラマチックでありたい。あるいは誰かに投げ出してしまいたい。

 

存続は方法だ。存続は希望だ。すでに私は終わっているのか。世界をありのままに見ることが大切なのではない。世界が見えなくなることが恐怖なのだ。私は彼女がわからない。あるいは、彼女の恐怖がわからない。

 

盲目であることとダンスをすることは両立してわからない。ダンスってなんだ。音楽、あるいはそれ以前のリズム。差異でしかないもの。差異でしかないものに体を委ねる。構造と記号と現実が一緒くたになった、でもそれはなんだってそうだろう。誰かと踊ること。誰かに見られながら踊ること。誰に見られているかわからないこと。神聖なものと肉体的な欲がぐちゃぐちゃになったもの。

 

見えないということを見ることはできない。映画は不自由で、つまらない私たちはもっと不自由だ。

in the Christmas、 あるいはout/クリスマス/温帯魚

クリスマスは今年はやってこない。なぜならもう終わったからだ。

 

ゲームの話をしようと思う。具体的に言うとLeague of Legendsというゲームにまつわる人々が、クリスマスおよびクリスマスイブにどのように過ごしたかを書こうと思ったのだ。彼らはtwitchというサイトで普段配信しているが、いわゆる大事な人と過ごす人されるクリスマスに彼らは我々にゲームをする姿を見せてくれた。それがどんなものだったかを書こうと思った。

 

もっとわかりやすく言うと、世間的にある線を引いたときリア充と非リア充に分かれるが、その非リア充がクリスマスという日に何があったのかを書こうと思うのだ。

 

同じ非リア充として、伝わらない共感として、あるいはどうしようもない羨望として。敬意と愛とアルコールにまみれながら。

 

 

一人目はNinja of Ninja。彼はRampageというプロチームにストリーマーとして所属している素朴な青年だ。いやほぼ同年代なんだけど。

彼は大体黒装束で顔出しをしながら配信している。いやそれ意味があるのかというのは置いといて。ゲームの腕はすさまじく、ゲーム内上位200人の中の一人でもある。強いけど難しすぎて誰も使えないキャラクターを使いこなす数少ないプレイヤーだ。語尾は「ござる」。

 

ほかの人の評価では「ただLoLがうまい男」。ぶっちゃけそこまでトークが面白かったりアクロバティックなプレイングをするわけではないけれど、バットマナーな行為や変にかっこつけた行動もしないいわば毒にも薬にもならない男である。人に見せるものとしてどうなんだという気もするけれど、毒か薬しかいな配信業界からは安息所のような存在。好き。あと単純にゲームがうまいからプレイを参考にしやすいということはあるかもしれない。

 

この男は24日の午前0時から25日の午前0時まで、クリスマスイブにLeague of Legendsで24時間配信を行った。なぜ彼がそんなことをしたのかは知る由もないが、おなじクリスマスに予定もない人として何かが救われたのだろう。

 

 

二人目はRainBrain。League of Legendsの元プロ選手で、現在は個人のストリーマーの人だ。League of LegendsのほかにもPUPGやテラリアの配信なんかもしている。ポジションとしては主に遊撃がメインで、使うキャラクターの幅広さとなぜか量産される事故が人気を支えている。長年のキャリアからトークも安定感がある。私はよく寝落ちや作業中のBGMにするためにつけっぱなしで聞くことが多い。

 

彼は24日から26日まで、League of Legends、PUPG、Getting over itと配信するタイトルを変えながら36時間連続で配信し続けた。36時間。彼はしばしば配信時間が24時間を軽々超過するためリスナーからは「配信ロボ」と呼ばれているが、それでも36時間はやりすぎである。クリスマスの何が彼らをそんなに駆り立てるのだろうか。

 

 

三人目、というべきかどうかはわからないが、配信の三つめはeyes revol katsudion day1の4人による配信である。彼らは普段League of Legendsのプロシーンで実況と解説を担当しているキャスター陣で、普段は個々で配信をしているがたまに4人で集まってわちゃわちゃしている。

 

彼らは24日、4人で集まり宅飲みの配信をした。宅飲み。ゲームではなく。平均年齢が20代後半の四人がクリスマスイブに集まり、酔っぱらった姿を全国に生放送である。しかも同時視聴人数が最大でたしか1700人いっていたからこれはもういろいろなところが頭がおかしいといってもいいだろう。かくいう僕も見てた。超面白かった。

 

 

クリスマスは人を掻き立てる。それはそこに存在するだけなのだが、なぜか人は何かしらをしようとしてしまう。むろんたとえ何もしなくとも、そこに残るものは寂しさだけである。

 

恋人を作ろうとまでは望まない。せめて達成感のあるクリスマスに来年はしたいものである。私もゲームしよう。そうしよう。

遅れてきたクリスマス/クリスマス/温帯魚

クリスマス。ああクリスマス、クリスマス。

 

つまり、書くことが何も思い浮かばない。

 

クリスマスについて浮かぶ感情を言葉にすることができない。だるすぎて。言語化というプロセスを踏むにはあまりにもどうでもいいものしか浮かんでこず、もうなんていうかヤバイ。内田樹に言わせると言語は情報を伝えることを第一にしていないらしい。したがってクリスマスヤバイという猿みたいな感想しか出なくなっている。いや、ヤバくない。僕のクリスマスは一ミリだってヤバくないんだけど、クリスマスはヤバい。サルでももう少し中身のある伝え方をすると思うが、今の僕ではこれが精一杯である。まあ、言うて世界も精で一杯だったのだろう。

 

猿<ほきゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 

何でもない。しいて言えば文字数稼ぎである。あるいは私のクリスマスへの心の叫び。

 

 

突然だが世界で一番旨いものは鳥の脂である。

なぜか、鳥は食肉を目的とした家畜の中で最も古い歴史を持つからだ。進化とはすなわち時間を用いた環境による枝分かれした変化の剪定であり、それゆえに人類の汗とよだれの結晶である鶏肉は肉の中で一番旨い。

もちろん、資料もなく今考えた。

 

それを踏まえればクリスマスはほかの祭礼と一線を画す。なんせ鳥を食べる日だ。世間ではカップルだなんだ騒がれているが、世界中の人間が鳥を食べるのに真剣になるという点でクリスマスは素晴らしい。すべてを許そう。うまい飯が食べられるという点で、世界は祝福に満ち満ちる。

 

例えば、香りを嗅いだだけで腹がすくような甘辛いソースをでっぷりとした七面鳥の厚い皮に丹念に塗り込み、それをパリパリになるまでじっくりとオーブンで焼いたあと付け合わせの野菜とともにワインで喉に流し込む。

 

あるいは買ってきたケンタッキーをとりわけ、電子レンジで脂が染み出すほど温めた後、手が汚れるのも気にせずにかぶりついた後ビールをグイっと。

 

もはやクリスマス関係ないが焼き鳥と日本酒。

 

なんにせよ鳥の脂とアルコール。これさえあれば人類は幸福である。きよしこの夜、とはいかないが、まあ富むことはいいことだ。少なくともおいしいものを食べるということの楽しささえ覚えていれば、まあ悪いことにはなりえないとか思ったり思わなかったり。

 

 

猿、鳥と来たのだから最後は犬で締めたいが、クリスマスと犬を絡めようとしても資本主義の犬しか思い浮かばない。基本的に物欲バリバリが望ましいと思っているのだが、さすがにコンビニでクリスマスケーキは頂けない。もっといいモノを食うべきだ。そんなに安いわけでもないし。

 

とはいえ、コンビニは便利で驚異的だ。私の生活における大抵のことはスマホとコンビニとパソコンで事足りる。むしろ数年後の私はコンビニのケーキををそのまま買わないだけでちょっといいケーキを通販で買っている気がする。そう考えるともう私の首には首輪がかかっており、資本主義の犬の犬である。おばあさんの下請けに桃太郎がいて、その孫請けに犬がいるように。いやこのたとえは全然意味が分からないが。まあおばあさんの犬でないだけと同じように、資本主義の犬でないだけでコンビニの犬ではあるのである。わんわん。

尻を振る相手ももう少し選びたいものである。

 

本格的に書くことがなくなった。なんせ現在12月30日、すなわちクリスマスはとっくのとうに終わっているのである。いやはや困った。なぜかツイッターのトレンドにクリスマスは居座り続けているが、世間のクリスマスはとっくに終わっているのである。むしろ新年に向けて全力前進だが、年が明けると課題の締め切りが終わってしまうので今しばらく勘弁していただきたい。

言い訳をさせてもらうと、パソコンがぶっ壊れたのだ。ネトゲをやっていたら急にネットにつながらなくなり、再起動しようとしたらシャットダウンに三十分かかった、これはお釈迦になったなと思いつつ、仕方なく親のパソコンを借りているのである。逆に言えば親のパソコンでこんな文章を打っているので、終わったら削除しなければいけない。あるいは僕が消えるかだ。

 

クリスマス、ああクリスマス、クリスマス。願わくば来年のクリスマスは今年よりいい日になることを。具体的には一緒に過ごす友達を、いややっぱり彼女を。サンタさんお願いします。なんかこう、いい感じに。

 

それではみなさんいいお年を。来年もよろしく。

死者は語る/熱中/温帯魚

前々回の「喜劇王は笑う」を手直ししようとしたのだが、いかんせん文章を変えたところで良いものになる気がせず、仕方がないので後編のような形で新たな文章を書くことにした。すなわち、人に何かを伝えるための技巧を凝らした作品の紹介という形になるだろう。

そんなわけで、今回紹介するものは映画ではなくゲームである。とはいえ「ドラゴンクエスト」のような異世界でのスペクタクルでも、「バイオハザード」のような身の毛のよだつようなホラーでもない。言葉にすることは難しい、しかし誰もがその中で何かを見つけようとする体験。それを何とか表現しようとしたものが、このゲームである。

簡潔に言おう。このゲームは、死というものについて語ろうとしたゲームだ。

 

「フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと」は2017年の4月にSteamとPlayStation4で発売されたタイトルである。インタラクティブ・アドベンチャー、あるいはウォーキングシミュレーションゲームと呼ばれるジャンルに分類されるゲームであり、プレイヤーは主人公であるエディス・フィンチという一人の女性となり彼女がかつて住んでいた奇妙な屋敷を探索する。その中でフィンチ家の人々に訪れる奇妙な死の数々を体験していくというゲームだ。

特筆すべきはそのアートデザインだろう。ゲームの進行は訪れた屋敷の探索パートとかつての部屋の持ち主に起こった死に際の追体験のパートに分けることができるが、それぞれが別の魅力を持ちながらプレイヤーを惹きつけてやまない美しさをもつ。

屋敷の内部にはかつて住んでいた住人の痕跡が色濃く残っている。それは本棚から溢れるほど置かれた書物であったり、地下へと降りるための奇妙な鍵であったり、あるいはアートにあふれた別室であったり。あるいは探索の中で時間の進行とともに移り変わる光の濃淡の繊細さが、プレイヤーの先に進みたいという思いともっとじっくり見ていきたいという欲望の葛藤を引き起こす。バラバラで、奇妙ながらどこかか洗練された統一感をもつデザインは特筆に値するだろう。

それぞれの部屋には彼らの死について書かれた文章が置いてある。プレイヤーはそれを手に取ることで、様々な形で彼らの死に際を追体験することになる。それは古いアメリカンコミックの形式や、あるいはRPGゲームのようなデザインが施されたミニゲームのようなものである。一つ一つの彼らが残したものが彼らはどのように死んだのか、あるいはどのように生きたのかを教えてくれる。

かつて、死について語ることはゲームでは不可能だと論じた人がいた。しかしこのゲームはその死というテーマに卓越したデザインと不思議なストーリーで誠実に向き合ったのだ。誰にも訪れるものであり、残されたものが全てを知る機会は永遠に失われる。あるいはその悲しさは、失ったことではなく残ったものこそが輪郭を浮かび上がらせるのだ。しかし、それでも、どうしようもなく人は繋がって前に進むということをこのゲームは優しく歌い上げる。

投稿日、本日未明/いい○○の日/温帯魚

いい○○の日について書けというお題だが、少なくともそのいい○○の日は今日ではないだろう。

十一月十四日、現在深夜四時。ネトゲが切りの良い所まで終わりさあ寝ようというところでこの課題を思い出したところである。割と最悪な一日の始まり。睡眠時間こそが幸福度の指標であると主張したい私にとっては本日の運勢は凶。布団をかぶってふて寝したいがそうもいっていられないのが不良大学生の日々のつけである。ありていに言うとゼミの単位は落とせない。

 

いい日、いい日なんてこの人生にあったか?なんてよくわからない思考に陥りそうになるのを諦め、さあ何を書こうかと考える。いい夫婦の日。いい豆腐の日。高校時代の昼休みにいつも通り学食に行ったところ、教室では皆でポッキーゲームをしていたという11月11日を思い出す。聞いたときのやるせなさ、あるいはリア充への憧れと嫉妬。思えば僕の青春はそんな間の悪いことばかりだった。みんなで海に行ったのに男子の中で一人だけ海に落とされなかった夏の一日。追試の多さに部活で割とガチめに同級生に怒られたテスト後日。携帯が壊れて最後の学外の練習に行けなかった冬の日。つまらない青春を思い出すことほど死にたくなるようなことは無い。

 

そもそも記念日を作れるような生活をしていないのである。自分の誕生日だと思い出す時間が年々夜に近づいている二十代。咳をしても一人。この味がいいねと思っても一人。学食の定食を食べてはなぜ僕はこんなものをまた食べようとしてしまったのかと悲しみに暮れようと、一人。こうなるとクリスマスも正月も面倒くささが先に立つ。お酒を、サントリーの角瓶を求めそうになるがもはやラジオの挨拶もおはようございますに変わる時間だ。ぐっと我慢する。少なくともこれから起きてくる母親に見せていいものではない。そこまで屑にもまたなれないのがしょうもない。

 

友達がいないのである。いやこれは私に関わってきた良い奴に失礼だから言い変えよう。一緒に飯を食う友達が、講義を受ける友達が、帰り道で話す友達が、いないのである。どうだ暗くなっただろう。雰囲気が。どうだ明るくなっただろう。知りたくなかった現実に。

最近マジで未来が見えない。僕が自分の中で最もイカしていると思っていることがここぞというところの運なのだが、どうも最近調子が悪い。具体的に言うとお御籤でここ数年吉以下しか引いていない。そして凶の打率が六割ともなると、どうもお天道様の機嫌を損ねたと見える。こうなるとやはりお酒だろうか。冷蔵庫にあるビールをああしてこうしたいがそれはさすがにどうしようもない。

 

という訳で本日もいつも通り、いいかげんな一日となるでしょう。おはようございます。おやすみなさい。皆様は良い一日を。

喜劇王は笑う/自分が今情熱を注いでいること/温帯魚

「Titina」という名前をご存じだろうか。この言葉は、成績不良でもまがりなりに文化について勉強する僕が知る中で最も好きなエピソードの一つに関係する言葉である。

と言ってもこれから始める話の裏付けを今の僕は持っていない。もう題名さえ忘れてしまった本に書かれていた、それでも記憶に残る一節だったものだ。グーグル先生に聞いても明確には出てこない、それでも僕の中で何かしらの指針になっている話。そんな与太話をこれから始めようと思うけど、だからまあ、冗談半分に聞いてほしい。

 

 

とはいえそんな名前は聞いたこともないといっても、この動画を見ればどこかで聞いたことがあるとピンと来る人も多いだろう。

 

https://www.youtube.com/watch?v=OUxg162QbDw

 

そう、喜劇王チャールズ・チャップリンが作った名作「Modern times」のワンシーン。無声映画から有声映画へと世界中の熱が移っていった時代に、それでも無声映画を愛した彼がフィルムの中で初めて声を届けた歌。その象徴的な曲名こそが「Titina」である。

 

でもこの曲の音楽性が好きかと言われると、僕は実はそうでもない(さすがに少し古臭いと感じてしまう)。乏しい映画鑑賞の中で答えるとするならば、映画音楽の中で一番好きなものはと聞かれればボブ・フォッシーの「ALL THAT JAZZ」でラストシーンに唄われるサイモンアンドガ―フィンクル「bye bye love」の替え歌だし、作品そのもので言うならばトーマス・ヤーンの「ノッキン・オン・ヘブンズドア」だ。監督ならラース・フォン・トリア―。

 

でも僕は「Titina」という表現を素晴らしいと思う。この名曲にあるものは一つの謎であり、嘘かもしれない物語であり、まぎれもない歴史だからだ。

前述した通り、「Modern times」は無声映画から有声映画へと変遷する流れの中で作られた作品である。より正確に言うなら他の映画はほぼ有声映画へと移り変わり、「Modern times」が発表されたときは既に物珍しい存在ではなくなっていた。

しかしチャップリンは当時無声映画にこだわっていた。これに関しては当時の同じような有識者のように映画における音を不必要なものと考えていたのかもしれないし、あるいは声が付くことによって彼の象徴的なキャラクター(白塗りにちょび髭で帽子をかぶったやつ!)の印象が崩れてしまうのを恐れたという話もある。なんにせよ、しばらくは彼は無声映画を作り続けた。

だが観客はチャップリンの声を聴きたかった。中には彼の声は聴いていられないほど酷いものなのではないかと邪推する人もいたらしい。頑なに声を発しない彼に対し、群衆は期待と懐疑を寄せる。「彼はいつ、古臭くつまらない無声映画から新しく面白い有声映画に乗り換えるのだろう。それともこのまま黴の生えた無声映画を続けるつもりなのか?」

そんな視線の中で、しかし彼はついに声を発した。彼自身の声で、観客に向け表現した。

 

ところで先ほどの動画を見て、歌詞の意味が分かった人はいるだろうか。

もちろんいないだろう。だって彼はでたらめに歌っているのだから。「Titina」が歌われたのは要約するとこんなシーンだ。

チャップリンが扮する男は、連れ合いの女性と共に酒場で働くことになる。彼はステージで歌うことになったが、緊張で歌の歌詞を忘れてしまうのではないかと考える。そこで袖口に歌の歌詞を書き、途中でそれを見ることでカンニングできるようにすることを思いついた。彼はカンニング用の袖を仕込み意気揚々とステージに現れるが、余りに勢いが良すぎて前奏の踊りで袖口を飛ばしてしまう。困った彼はそのまま出鱈目な歌詞を歌いパントマイムでその場を盛り上げた、という話だ。

話としてはよくできていてかなり面白い。さすが喜劇王。ただちょっと待ってほしい。この話の中で、彼の歌声は本当に必要だったのか?なぜ今までのようにパントマイムだけで表現することを選ばなかったのか?あるいは、初めて観客に彼自身の声を聞かせるとき、なぜ彼は歌詞のない、意味のない歌を選んだのか?

 

もちろんここからの話はさっきも言ったように裏付けのない話である。恐らく現実はもっとくだらない理由でできているのかもしれない。

つまり喜劇王は、愚昧な観客を笑ったのである。観客があれほどまでに求めた声はシーンにおいて不必要な、あってもなくても構わないものだった。当時の群衆に対して、彼は求められたものを、最も無意味な形で提示した。あまりにも鮮やかに、チャップリンは観客の無能を知らしめたのである。観客が熱狂した有声映画に対して、声は何の役にも立っていないことを表現したのだ。

冗談のような皮肉である。あまりにも圧倒的な発想の転換によって、喜劇王は映画を表現したのだ。

 

もちろん私はだから無声映画が素晴らしいと言っているのではない。前述した通り私は有声映画のほうが好きだし、なにより「Titina」自体が表現として有声映画を肯定するに有り余るだろう。

私は何かに情熱を注げられるほどエネルギーのある人間ではない。本も映画も音楽もゲームも、他人に誇れるほどやったと自分で思ったことは無い。しかしそんな私でも惹きつけられて止まないもの。人間が作り出した素晴らしい表現を探求することに対してだけは、私は情熱を持っているということができる。

かもしれない。

言いたいこと言いたいこと/ネット記事/温帯魚

さてはて、本題に入る前にまずはこのゲームレビューを読んでほしい。内容としてはインターネットに記事をあげるウェブメディアを体験するシミュレーションゲームについて、その過程と構造の現実との奇妙な一致を論じている。なに、読むのにそう時間がかかる文章ではないし、意見として非常に面白いものだから是非。どうせスタジオのどの文より面白いし。

読んだ?それでは本題に入ろう。

 

政治と宗教と野球の応援チーム(だっけ?最後があっているかうろ覚え)についての話を友人としてはいけないという教訓からはいくつもの真実が含まれている。一つ。それらは友情とは別の次元で動いている。友情パワーではどうにもならないことが世の中には多い。一つ。それらの考えが違うからと言って友人になれないなんてことは無い。結構大きな思想の違いがあるからと言って、じゃあ話が通じないかというとそんなことなかったりする。一つ。そんなクソつまらない話しかできないような間柄を、世間では友人とは言わない。もっとましな話ができるようになってから出直してこい。

何てことを書けるのはそもそも僕に友人がいないからだけれど(もちろんだからと言って上記の三つが話せる知人がいるわけでもない。大体の日常において僕は誰とも話せない。寂しい)、そんな現実ではまるでない話がSNSでは一杯転がっている。政治について、ジェンダーについて、中日がヤクルトに10点差を覆された糞試合について(いや最後は割と笑える)。君たちそんなに友達いないの?なんて話ではないんだけれど、別に君が何を主張していてもいいんだけど、もちろんその三つが話せない世間のほうがおかしいとかそういう意見もわかんないわけじゃないんだけど、そうじゃないんだ。僕が言いたいのはそうじゃない。

君たちそれ本当に伝えようとしてる?そのクソつまらない文章で?本気で?

 

“ネットで公に何かを発言することは、だれかの自己表現の踏み台やソースになりにいくことだよ。”なんて、僕の好きな詩人の最果タヒさんはこんなことを言っている。もちろんミーム論を引用する必要もなく、完全に思考を伝えることなんてできるはずもない。ネットで会話するなんてことは夢物語なのかもしれないし。

だからってその文はあまりにもお粗末だ。Nioh君、あるいは先週の文章を書いたみかん君。その他大勢もろもろも含めて、君のことを言っているんだけど、気づいている?思想にしろ比喩にしろ癖にしろ、その何一つ惹かれない文章で本当に読んでもらえると思っているの?読者のことを一切考えてないことが露骨に透けて見えるその文章で(露骨に透けるって重複表現かな。まあそんなことも置いといて)?そんな記事がネットにはごろごろ転がっていて、僕はそれを見るたびげんなりとなる。

 

冒頭にあげたレビューを引用するならば、SNSにしろ何にしろ会話というものはもうできないのかもしれない。違う考え方を持つ人と会話するのはひどく苦痛で、そして努力と工夫がいるものだ。アプローチも、口調も、ユーモアも。それが双方向でないならば余計に。だとするならば同じ考えをしている人を待つのが一番楽なのだろう。おめでとう!君はゲームをクリアした!キミノ世界は平和になりました、なんて。でも僕は面白い文が読みたいし、伝えてくれる人が欲しいし、自分もそうなりたいんだ。変えてほしいし、なにより人を変えてみたい。

 

こんなことを考えているから僕は友達ができないのだろう、なんて現実逃避をしながら。それではアリバイとして適当に記事を載せよう。見なくていいよ。僕も読んでないし。

https://mainichi.jp/articles/20170726/k00/00m/040/185000c

起き上がる悲しみ/物申す/温帯魚

コミュ障、というより大学に入ってから人と触れ合う機会がどんどんと減っているからか、物申したいことが思いつかない。自分でも驚くことに、いやマジで。どんな他人も許せるというよりは、人間に幻想を抱いていられる距離があるからなのか「いいんじゃない。誰だって人間だしそんな風に思うこともあるよ!」で大抵の部分が終わる。もちろん正確には(だって俺には関係ないし)と付くのだろうけれど、そんなもの見たくないから見ていないということでもあるのだろうけれど。とはいえ明日になれば意見が翻っているかもしれないぐらい適当な自己紹介だとしても、今現在僕には、肩ひじ張って物申したいことは無い。無いったら無い。不良も老害もイチャイチャするカップルも、世の中を生きていく中でしょうがないものだ。むしろパッションがあって大変結構という気すらしてくる。えらい。えらく不健康でパワーのない私からすると反省させられる思いだ。どうも一人称が安定しないが、ともかくだ。今私は物を申せるような立場にはいないし、申したいこともないのだ。だからこの課題は大変困る。困った、ああ困った。

と、ともすればここで終わるとそれこそ申すべきモノをひねり出した皆様方から物申されるかもしれないが。大丈夫、前フリである。そろそろ私も物申す。安心したれい。

 

とはいえ、とはいえだ。さすがの私でもやはり苦言を呈したくなることもある。まるで今までの文章から私を仏陀の生まれ変わりかと思われた方もいるかもしれないが、もちろんそんな高尚な人間ではないのだ。私にだって不満の一つや二つはあるし、そもそも仏陀は解脱しているから生まれ変わらない。

それは、朝だ。役者不足ながら、また微力ながら私は朝という概念に物を申させてもらおう。

朝というものは最低である。恐らくこの世で最も唾棄すべきことの一つであり、人間が生み出した根源的な悪の一つであると言っても過言ではないだろう。朝があるから人間は心地よい眠りから引き剝がされ、夜の非日常的な楽しみを無粋に壊されてきた。人間のすべての悲しみは朝にその端を発し、それは終わることのない繰り返しである。そしてもう語るべくもないだろうが、朝という悪そのものの存在こそが、一限という大学生にとって人類史上でそう数のないであろう悲劇を生み出したのである。もちろん私もその悲劇の被害者であり、単位という馬鹿げた記号に踊らされた数多あるマリオネットの一つだ。R.I.P。せめて安らかに眠れと願えど、朝という概念はそんな我々を地獄へとたたき起こす。ただ地球が回っているだけだ。それなのにどうして人はこんなにも―――

理解していただけただろうか。あるいは確信していただけただろうか。それではここで筆をおかせていただこう。願わくば明日が、希望の夜明けとなりますように。