眉毛 のすべての投稿

誰しもみんな/百合/眉毛

昨年末、よくわからない研究結果が発表された。「女性はみんなバイかレズ。ストレートなんていない!」というものだ。英・エセックス大学新理学部のゲルルフ・リーガー博士による研究で、被験者である女性345人に魅力的な男性と女性の裸体映像を見せ、彼女たちがどのような反応を示すか調査したところ、同性愛者だけでなく異性愛者の女性でさえ、男性の裸ではなく女性の裸に強く反応していたというものだ。

これに対しネットでは、「私は違う。」「そんなわけはない」という反応ももちろんあったが、積極的ではないが肯定的な意見もあった。「同性は恋愛対象にならないけど、AVは男目線で観て興奮する。」「見えそうで見えないチラリズムとか女の私でもムラムラする。」こんなことを言っても、みんな決まって、「だからといって女とセックスしたいとは思わない。」と言っていた。

 

この興奮やムラムラの正体は何だろう。このとき女性が興奮している対象は、きっと「見てはいけないものを見てしまった」という状態だ。女性の裸体は隠される。温泉に行ったときでさえ、できる限り周りを見ないように、だれかに見られていると思われないように、遠慮して過ごしている。自分の裸なんて凝視されたくないし、ほんとは周りの人がどんなスタイルでどんなおっぱいなのか見てみたいけど、相手に気づかれないように遠慮して見る。自分と同じ性別の他者の裸がこんなにも遠い存在なんだもん、そりゃ女の裸見たら興奮するでしょう。見てはいけない、何かこう罪悪感とも言える感情が、よりスリルに、わたしを興奮させてゆく。AVだってそうだ。女性が、周りに裸を出して、よくわからない男性に苛められている。こんなイケないことを見てしまっている自分、きれいな女の人が裸で我を忘れるほど興奮して本能が解放されている姿、本当はこんなの見てはいけないのに、それを見てしまった自分、そこに興奮しているのだ。

そこでまたこの問題にぶちあたる。「だからといって女とセックスしたいと思わない。」セックスしたくなる対象ってどうやって決まるのだろうか。本来の目的が子孫を残すことである以上、異性同士のセックスでないと話にならない。そういった本能からくるのか、それとも教育からくるのか。しかし子孫を残すためのセックスでない場合、別に同性でしても問題はない。しかしそれを「できない」とさせる判断はやはり常識や教育とか二次的なものから来てるのかも。もしそうなら女が女の身体に興奮できる以上、実は誰だって女とできる可能性を持っているのかもしれない。

本当にみんなバイかレズなのか。

あれから4年/嫌い/眉毛

わたしがどれだけ、他人に、嫌われないように、嫌われないように、毎日気持ちを我慢して過ごしても。わたしがどれだけ、できるだけ笑顔で、できるだけ気を遣って、周りの評判を気にしてやりたいことも我慢して、目立たないように叩かれないように、毎日そうやって過ごしても。なんでだろうあの子は好き勝手いつもしているくせに、わたしの欲しいものを全部手に入れる。あの子はかわいい。確かにかわいいけど、だからといって全てが赦されるほどでもない。他人の悪口結構言うのに、あの子のいるクラスはあの子色に染まるし。男とすぐ付き合ったり別れたりして、男子もあの子のそういう面を悪く言ってるのに、結局あの子には彼氏が絶えない。そして結局あの子はわたしの行けなかった大学に進学した。私は浪人してもそこに行けなくて、もちろん今の生活も楽しいし、周りの人にも恵まれているとは思うけど、なんであの子なんだろう。なんであの子は全てを手に入れていくのだろう。私も欲しいものばっかり。

 

 

私だって腹が立つこともあるし他人の悪口言いたいこともある、なのにそれをちょっとは愚痴ってもあの子ほどおおっぴらに悪くは言わない。私だって彼氏は欲しいけど、友達のついこないだ別れた男とは付き合えないし、第一いま私に彼氏ができたら軽いと思われそうだから付き合えない。そうやって自分の恋愛に周りの目はつきものでしょう。私にできないことをあの子はずっとしてる。私がなれない人間にあの子はなっていく。

 

 

今宮戎の福娘にも選ばれたらしいよ。すごいね、応募する度胸がすごい。自分の容姿に自信がないと応募できないなあ。春からテレビ局で働くんだって。本当にすごいね、あなたの持ち前の図太い神経で、どうぞ辛い仕事をこなしていってください。

 

 

仲良くもないくせに何かしらんけど同窓会で話しかけられた。「来年就活頑張って!一緒に働こう!」やって。何なん。そもそもあなたの就職先すごいねいいね、とは言ったけど、私も目指してるとかあなたと働きたいとか一個も言ってへんやん。何なんむかつく。高校生活言っとくけどあんたのこと嫌いやったからな。しゃべる機会はあったけど、最後まで仲良くなられへんかったし、やのに卒業してもあんたの動向は気になってたわ。相変わらず図太い神経で、めっちゃ嫌い。ほんまはめっっっちゃくちゃ羨ましいけど。そういうとこやで。あんたにだけはなりたくないから。

わたしの/においのクリスマス/眉毛

クリスマスの日は木曜日が多い。そんな気がする。

 

木曜日はお習字の日。3才からずっと習ってもう15年目、毎週毎週、家から少し離れた隣の地区の教室まで、自転車で行っている。

習字教室までの道は田んぼが多い。木曜日は6時間目まであるから時間も結構ギリギリで、わたしはスピードを出して田んぼを走る。秋は稲穂のあのなんともいえない甘い匂いがちゃんとして、その中を自転車で走るのはなかなか好きだった。

 

冬のこのクリスマスの時期、だいたい田んぼは燃やされて、あたりをあの煙のにおいが覆う。たぶん稲刈りのあとを燃やして、灰が肥料になったりするんやろう。あの煙のにおいの中を歩くだけで髪ににおいがつくし、ベランダに洗濯物を干していた日は最悪。もう一回洗濯したくなる。

 

それでもわたしはあの燃やした煙のにおいが好きで、いまでもクリスマスと聞くとあのにおいを思い出してしまう。3才からずっとにおいつづけてきたあの煙。田んぼを燃やすおかげで、来年の秋もあの稲穂の甘い匂いを感じられる。

 

お習字から帰ると結構な時間になっていて、クリスマスパーティーなんか当然できない。もちろん、木曜日じゃないクリスマスは、ちゃんとパーティーする。そのときはチキンのにおいもケーキのにおいも、キャンドルのにおいも、たくさん感じられる。なのに、わたしのクリスマスのにおいはあの燃やしたにおい。そんなに木曜日が多かったのかな。もう一度お習字習いたいな。あれだけ続けたんやもん、やっぱり好きやったな。

 

大学生になってクリスマスは出かけるにしろバイトするにしろ、人工物に囲まれている。イルミネーションとか、もろ人工物。そんなときにあの田んぼの燃えたにおいを思い出すと、ノスタルジックな気持ちになって、早く帰省したいな、年末もうすぐやな、って。

今年もきっとそんなクリスマス。

 

 

記憶/嵐/眉毛

 

 

「俺はお前に興味がない。俺とお前に補完性がないからだ。」

 

その人いわく、自分の足りない部分は相手が補い、相手の足りない部分は自分が補う、そんな二人はいっしょにいるべきらしい。その方が何かが生まれるらしい。

 

言ってることは意味が分かる。そういう関係性はいいことだとも思う。

でも、興味がないなんて言わないで。

 

私は基本的に他人にいい格好しい。だからいちいち、補完性とか考えて人との関係を作らない。いっしょにいて楽しければそれでいいし、できれば誰からも嫌われたくない。

 

あなたはそんな私を馬鹿だといい、だからお前に興味がないんだと言う。

 

 

私はあなたに憧れていた。あなたの言うことは過激だけど正しい。でもその過激さゆえに誤解されることが多くて、周りに敵をつくりがちなところも。それでもあなたは誰よりも人のことを見て、人のことを評価する。八方美人に流されるまま暮らしている私は、どうやってもあなたに近づけない。

きつい顔して笑った顔は最高に優しくて。あなたの隠しがちな優しいところも弱いところも私は全部知りたい。知ってあげたい。なのにあなたは私に興味がないと言う。

 

 

すごく雨がきつくて、嵐のような日に、私とあなたがたまたま講義棟の出口であった。あなたが傘をパッと開けてそのまま歩くから、私もつられて外に出た。私は折りたたみ傘しか持っておらず、出すのに少し手間取った。

濡れる私に自分の傘を傾けてくれる。そうなの、結局そうやって、ちゃんとふつうに、やさしい人だ。

「この風だと折りたたみ厳しいかもな。」

方向が違うのでそのまま別れたけど、あのとき私は彼に補完してもらった。傘がなかなか出ず濡れる私を、中に入れてくれたあなた。あなたが困っているとき、こんな小さなことなら私でもあなたのためになれるのに。それじゃだめなのかな。お互いちょっとした優しさを与え合い、お互いを補えないのかな。

 

これが去年の話で、すっかりあなたとは会わなくなった。けれど、今でも私はあの嵐の日を思い出す。興味がないなんて言うくせに、ふつうに傘だって入れてくれるし、仲良くしてくれた。今の私はあなたになりたいなんて思わなくなったから、今会ったほうがきっともっとしゃべれるのに。それでもあなたとは会えなくて、きっとこうやって、ぼんやりとずっと憧れの存在のままなんだろうな。

これを読んでどうしろと/書評/眉毛

下重暁子の「家族という病」(幻冬舎新書)を読んでみた。Amazonではベストセラーになっているこの本、はっきり言って、著者の自己満足である。

 

「私達は家族を選んで生まれてくることは出来ない。産声をあげた時には、枠は決まっている。その枠の中で家族を演じてみせる。父・母・子供という役割を。家族団欒の名の下に、お互いが、よく知ったふりをし、愛し合っていると思い込む。何でも許せる美しい空間・・・・・・。そこでは個は埋没し、家族という巨大な生き物と化す。」

 

著者の言いたいことはまとめるとこうだ。「家族って言ったって赤の他人だしわざわざ知ろうとしたりしないくせに、家族だからという理由でこの世でいちばん理解していると思い込んでいるのは馬鹿じゃないか。私は家族団欒とかいう幸せ空間が嫌いだ。」おそらくこんなもんだろう。私としては、前者の方はものすごく共感できる。馬鹿だとは思わないけれど、私達は、赤の他人ならお互いがお互いを知ろうとし、助け合ったり、またはどうしても許せなかったりするのに、どうして「家族だから」という理由だけで、こうもこの世の人間関係の最上位にその構成員を配置させてしまうのか。

 

しかしそれこそが家族の不思議というか、家族はそれを赦してしまう関係性だとは思う。しかし著者はこの本の中でだらだらだらだらいかに自分が家族というひとつの「集団行動」が嫌いかをただ愚痴っているように思う。そこに何も客観的な根拠は存在せず、ひたすら、著者の体験談か、著者の周りの人を見て著者が感じたことを根拠に話が進む。お前の家族がどうとか知らねえよ!!ひたすら、あなたの家庭であなたが感じていたことをつらつら述べられても、「私はこうだから皆もそうでしょ?」とはならない。

 

なによりいちばん意味がわからないのは最後の、著者から亡くなった父、母、兄、そして著者自身への手紙の部分だ。あれを読まされてこちらはどうすればいいのか。たしかに、著者の苦悩で私も共感する部分はある。しかし、あれを読んで読み手が何か救われたり、変われたりすることがあろうか。ただ著者が自己の救済、自己満足のために書いただけでしかない本だった。

結局のところ/初恋/眉毛

初恋の定義ってなんだろう。広辞苑で調べても「初めての恋」としか書いていませんでした。そのままです。たぶん世間的に聞かれる初恋は幼稚園のときに好きだった竹原一樹くん。竹原一樹くんも私のことが好きで、周りに「ちゅーして」とかはやしたてられた記憶はある。でも、そんな幼稚園児が恋なんてわかるはずもないから、これは却下。次に思い出すのは小学生のときの津川達也くん。照れくさいお年頃だし周りがはやしたてるから、特に言われたわけではなかったけど、「お前とつーちゃん両思いやからな」みたいなのを男子が言ってたのは覚えてるし、とにかく仲が良かった。中学生になって津川くんはヤンキーになってしまい、あんまりしゃべらなくなったけど、さいきん何故かラインとツイッターに申請がきて、ちょっと懐かしく申請許可したら、なんと地元のヤンキーとデキ婚してた。なんかちょっと寂しかった。そっとリムった。他のヤンキーが誰と結婚してようが何とも思わないのに、津川くんは寂しい。これ、ちょっと初恋の人っぽい。その次は高一のときの初めて付き合った人。さすがにここまで来ると名前なんて書けない。書けないあたりがガチっぽい。「お付き合い」というものを高一ながら初めて経験した人。とにかく好きで、嬉しい気持ちも悲しい気持ちも淋しい気持ちも切ない気持ちも、この人で初めて知りました。今までの「好き」はお子ちゃまの「好き」で、この人に対する「好き」はより高度な本物の「好き」だ、とか思ってたような気がします。書いててすごく気持ち悪い。その次は高校を卒業してから大学入ってしばらく付き合ってた人。前の人はとにかくわたしが一方的に好きだった分、とにかく独りよがりだったように思うけど、ちゃんと相手のことも考えて付き合ったのはこの人が初めてのように思います。そう思うと「初めて」っていうのがどんどん更新されてるし、毎回前の人より今の人のほうが高度な次元で好き、とか思っちゃってるから、初恋って余計なんだろね。竹原一樹くんと津川達也くんは「初恋の人」として名前出しても恥ずかしくないし可愛いけど、確実に本当に「恋」とかいうものを経験したのはその後の人たちだよ?

今の彼氏は初恋と聞いて思いつかない。今の彼氏にも当然「初めて」は存在するのだけど、なんか、もうお互い22歳だし、それなりにいろいろ経験してるからかな。いや、たぶんもっと歳をとると「この時もまだお子ちゃまのくせに」って思うんやろうけど。あれかな、一応現在進行形やから、初恋じゃないのかも。初恋って、過去の恋を美化させるための言葉なのかもね。

鏡を見て/鼻/眉毛

今日も学校に行っていない。「やりたいことは自分で見つけなさい」という自由意思を唯一授けられた大学生であることをいいことに、今日も私は学校までの坂が登れない。自分がやりたくてやったのだけど、少し忙しくて大変なことがあると、それに心身持って行かれて、すごーく疲れて親知らずが腫れて、ご飯食べられなくなった。弱いなあ情けないなあ、でも、親知らず腫れてるの外から見てもわかるレベルだし、今日も学校休もう。とかいう自己正当化をかます、甘いだけの毎日。

 

わたしがもっと可愛ければ。鏡を見る。本当に特徴のない顔だと思う。特別貶すところはないんだけど、特別褒めるところもない。華がない、と言われたことがある。確かに、すっぴんだといつも顔色悪いよ?体調悪いの?と言われて、ただ血色が悪いだけなんだけど、地味な顔だから余計言われる。赤いリップを塗って、普通の人の唇の色になれる。

けれどもひとつだけ好きなパーツがある。それが鼻。特別貶すところも褒めるところもないということが功を成している、素敵な鼻だと思っている。特別高くはないけど、特別低くもない。団子鼻でも、鷲鼻でもないし、上をむいているわけでもないし、鼻筋が通ってないこともない。なんて協調性のある鼻だろう。積極的に主張してこないけど、確実に他のパーツを邪魔しない、和をもって尊しと成せる鼻。もっと褒められてもいいと思う。

なのに今のアイドルさんとかを見ても思うけど、女の「可愛い」は目。目が大きい人が可愛い可愛いとちやほやされているように思う。だからみんなメザイクして、カラコンして、つけまつけるんやし。でもよーく見て欲しい。そのアイドル、鼻、ほんまにきれいか?低かったり、横に広がってたり、鼻筋通ってなかったり。絶対私のほうが鼻きれいやで。私のほうが確実に整った鼻してるで。

 

おんなのこにもある つけるタイプの魔法だよ

自信を身につけて 見える世界も変わるかな

 

そう、目は魔法のように大きさを変えられる。その、可愛いと世間で言われているアイドルさんも、お化粧とったら、魔法がきれたら、私と変わらないぐらいの目かもしれない。でもいいな、私は特に魔法をかけなくてもそれなりにきれいな鼻をしているのに、自信は身についてないし、きょうも学校行けてない。鼻なんてかけられる魔法はせいぜいシャドウぐらいやのに、目にありとあらゆる魔法をかけた女の子のほうが、どんどん現実とは離れていくのに、装備が強くなって、明るい顔をして家を出れる。羨ましい。

そう考えたら何なんやろう。すっぴんとはかけ離れた化粧をしていると見てわかるのに、目が大きい子を人は可愛いという。確実にそこに人為的な創作が入っているのに、そこには言及せず、可愛いと受け取る。なんかやっぱり、「目が大きい」から可愛いんじゃなくて、「目を大きくしようとしている」ことが可愛いのかもしれない。そしたら、「女の子は可愛くなろうと努力しているその姿がいちばん可愛いんだよ」とうあの言葉はあながち間違っていないのかも。

そういやこの前、好きな人に「俺のほうが目大きいね」って言われた。まあ事実なんだけど。私のほうが鼻はきれいだよ、とは言えなかった。これもたぶん事実なんだけど。

今日はちゃんと学校に行こう。