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LIVE配信/遺書/露子

ザァーーー実際生きる権利があるなら死ぬ権利もあると思うんです。生まれることは自分の意志でどうこうすることは無理なんだから死ぬことくらいは自発的に自己責任で自分の意志で死ぬのが真実に理性的な生物と言えるんじゃないか、私はそう思います。ザザッいじめや借金が原因で死を選ぶのは自殺とは言えません。それは他殺です。真の自殺とはもっとザッザァ思想的で崇高であるべきです。例えば処女と童貞の心中。性欲という本能に毒されることを拒否し理性を貫き通して死を選択しその愛を永遠に純なものに保ったのです。これがウ ゙ォォ理性的殺です。いやこれは他殺とも言える。成熟という重圧に殺されたとも言える。現世に対する一切の拒みの無い自殺こそが純粋自殺と言えるのです。ザァーー…ドンッ必要に迫られた死など他の凡庸な死と変わりません。では真実に純粋な自殺とはどのようなものなのか。ザーッそれをお見ザーせしたくて私は今ここにいるのです。いつも通り私はここにいる。いつも通り出勤していつも通り仕事をこなしいつも通りに二十時三十九分西大井駅の一番線にいる。ザッ平凡な日常変化のない日常に嫌気がさしたなどという陳腐な感情はありません。ザザ興味です。高速で動く物体にぶつかってみたい、それだけの興味です。自分の身体が壊れていくのをザァーー偶発的にではなくザッ自発的に正常な脳の働きでもってして感覚したい。経験から学びそれを使って推論するこザッと自分の信念に基づいて行動することが人間のあるべき姿です。私は理性を保っザッたまザッま死に向かうので死という一ザァー度きりの最初で最後の再現不可能の経験を学びに活かすことができるのです。マモナクイチバンセンカイソクヨコスカイキガマイリマスアナウンスが鳴ってます。アブナイデスカラキイロイセンノウチガワデオマチクダサイもうまもなくです。コノデンシャワハチリョウヘンセイデスもうまもなく。ゴゴゴォーーーー来ましザッた来ましたッ。ーーーいきますザァいきますいきますいきますいきますアッ………。ガガガッザァーーーーーー…………

人文生はみんな気になる存在だにょ(⋈◍>◡<◍)。✧♡/気になるあの子/露子

 

どうも、露子です。

今日は人文懇親会がありましたね。

懇親会を通じて、ちょっと人間文化課程にコミットする意欲が高まったのですっぽかした回の文章を書きます。

この文章をたまたま目撃した方は、何かコメントしたくなったらぜひその思うところを、何も思わなかったら一言「どうでもいい」か「つまらない」とのコメントをください。

 

いやあ~人文懇親会。

私は自己紹介でもわざわざ強調したように同じ学科の方が (ア,あまり得意でない イ,こわい ウ,嫌い エ,自分より賢そうなので話したくない) ので、当然学科に友達がほぼいません。

そんな私がなぜ”””懇親会”””なんつうコミュ障ぼっちにはつらくしかないであろうイベントに参加したのかというと、 (ア,1/11のゼミの説明会すっぽかしちゃったからゼミについての情報を得たかった イ,美味しいものが食べたかった ウ,“教授と談笑する大学生な私”になってみたかった エ,あわよくば誰かしらと仲良くなりたかった) からです。

 

結果、楽しかったです。やったぜ!

 

最初はマジ、苦痛でした。乾杯によってご飯が解禁されるまでの手持ち無沙汰っさたらありませんでした。だから柱の陰で室井先生から「乾杯!」の言葉が出るのをひたすら待っていました。

「乾杯!」が室井先生から発せられると同時に、誰とも「乾杯!」することなくコーラを飲み干しオードブルに向かいました。

そしたら同じように手持ち無沙汰そうにしていた中川先生と目が合い、あの場で唯一の気軽に話せる存在が中川先生だった私は泣きそうになりながら中川先生に寄っていきました。

今後のことや私事について話し、教授と談笑する大学生になれたんですけど、中川先生に今日友達を作れと言われてしまい、中川スタジオの方で面識のあった先輩に同行していただいて友達作りツアーをしました。

結果、その先輩も含めて、私が今まで一方的にTwitterやInstagram、授業で観察していた人文生の方々とお話しすることができました。やったぜ!やっぱり怖かったけどな!

芸術文化コースの人ばっかりだったんですけど、なんというかやっぱり所属するスタジオ・ゼミごとに雰囲気ありますね、榑沼ゼミは服がアースカラー。

ツアー終了後勢いに乗った私は、勇気を出して清田先生に話しかけることもできました!やったぜ!

清田先生と会話するのは初めてだったので緊張しました。先生の質問の意図があまり読めなかったのですが、なんかまあ、清田ゼミがんばるぞい!て気持ちになりました(なってない)。

その流れでばたこさんやノルニルさんとも結構話せたし、おしっこちびりそうになりながらも懇親会行った甲斐があったな~と思いました。

 

だからといってこれから人間文化に自信ネキになっていくはずもないしなれるはずもないんだけど、どうぞみなさん (ア,程よい距離感を保ちつつ イ,飲み会とか積極的に行くので ウ,表では褒め、裏では貶しながら エ,すれ違ったときにあいさつする程度に) よろしくお願いします。

 

 

 

自分の好きなもののことが大好きな/自分大好き/露子

わたし、自分のこと、相対的にはあんま好きじゃないし自信ない!(石原さとみに生まれたかったし佐々木希に生まれたかったし、荒木飛呂彦にもなりたかった)

けど、自分の好きなもののことはしゅきしゅきだいしゅき~~~!!それらを選んだ自分のこともしゅきしゅきだいしゅき~~~!!!優勝!!!!!人生に勝った!!!!!て感じなので、「自分の好きなもののことが大好きな自分大好き」な文を書いていきます!


実家の本棚の奥の方に眠っていた、竹宮惠子先生の『風と木の詩』を発掘し夜通し読み耽って以来、私の心は昭和少女まんがの情熱溢れる物語表現にすっかり魅了されてしまっているんですわ。

母が少女時代から大切にとっておいた池田理代子作品、少女漫画の神様である萩尾望都作品、竹宮惠子の他の作品…お金が許す限り集めて読んでいる(まだまだ全然足りない)んだけど、読むたびに自分の中で新しい感覚器官が開発されているような気がする…とにかくみんな違ってみんな良い。

絵ももちろん美しくて怖くてすごいんだけど、なんてったって台詞がすごいんだよな。

憎しみで人が殺せたら!

ーーージルベール『風と木の詩』

私だけを一生涯愛しぬくと誓うか!

ーーーオスカル『ベルサイユのばら』

いやア、強烈!でもこんな、熱量の高すぎる、日常生活では絶対に口にすることのないような言葉に、その物語に没頭していると共感できるというかまるで自分の言葉かのように感じちゃうんだよなあ!あ〜〜〜!!!

一つ一つについて語っていたらキリがないので、三原順という漫画家の紹介に残りの文字数を捧げます。

1995年に42歳の若さで亡くなった、70年代から少女漫画界で活動していた漫画家さんです。代表作は『はみだしっ子』『Sons』など。

この人の特徴としては、まず文字の密度がハンパない、そして言ってることの重さもハンパない、絵もやたらと濃い。

2015年に行われた「三原順復活祭」のポスターに使われた『Sons』の一コマ。

愛とか優しさといったプラスのイメージで受け取られているものを疑い、その裏にある人のエゴや弱さの気持ち悪さから目を逸らさない。

徹底的に理性的に生きようとするんだけど、そうすることで殺した感情が余計増幅してしまう…こういったフラストレーションがしつこいほど丁寧に描かれています。

Twitterで紹介され、3.9万リツイートされた『はみだしっ子』の一コマ。平等とゎ。。。

社会の矛盾や理不尽を鋭い視点から批判する作品も多くあります。『Die Energie 5.2☆11.8』という、1982年に発表された原子力発電に伴う環境問題を話の軸においた作品は3.11後に再発見され、原発に対する三原順の先見の明が評価されたりしました。

どの作品もあまりにも文字が多くて話も重いので、読んでてほんとめんどくさくなります。漫画でここまで人のめんどくさを表現できるんだ…て感じです。だからこそ、どの作品も不完全燃焼で終わってる感は否めない。でも、明らかに、世の中の他の漫画作品が到達していないところに三原順作品は到達していると私は思います!私は思います!!

勧めたいけど勧めたくない!誰かに読んで欲しいけど自分だけのものにしておきたい!ううー!!と相反する気持ちが共存しておりますが、やっぱり誰かとこの感動を共有してみたいので、万が一興味をお持ちになった方がいらっしゃいましたら話しかけてくださいませ…たぶん超はしゃぎますので……

 

BUMP VS RAD /夢の対決/露子

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BUMP OF CHICKENとRADWIMPS…

自分の意志で音楽を聴いたり、自分専用の音楽プレーヤーを持つようになる中学生くらいの時、この二つのバンドの名前が早い段階で上がってきませんでしたか?

当時この二つのバンドは共に、「中学生御用達バンド」と揶揄されていました(今もかもしれないけど)。

確かに彼らの楽曲、とりわけ歌詞は、絶賛思春期の傷つきやすく様々な葛藤を抱えた中学生にとって、一種の答えや慰め、励ましを与えてくれるような内容です。

そういった「歌詞に力がある」バンドとして、「BUMP好きならRADも聞いてみなよ」とか「RAD好きならBUMPも聞いたほうがいい」みたいに、同列に扱われていたので、セットで知った人も多いんじゃないでしょうか。

 

でも、BUMPもRADも両方聞くようになると、必ずと言っていいほどBUMP派とRAD派に分かれるのです。激しいファンになるとどっちがパクったとかどっちのほうが神だとかそういったことで無駄な争いをします。(その様子はいずれかのYoutubeの公式MVのコメント欄を遡ると見れます)

同じ「中学生御用達バンド」でありながら、常に比較される存在であるこの二つのバンドについて、ちょっと私なりに考えてみました。

 

○共通(似ているとされる)点

・メッセージ性の強い歌詞

・声

・全体的に陰キャな感じ

・ボーカルが作詞作曲

・ボーカルがカリスマ的存在

この他にも音楽性の類似(特に『車輪の唄』(BUMP)と『携帯電話』(RAD)は似ていると言われる)なども楽曲ごとにはみられるかもしれないんですけど、とりあえずこんな感じだと思います。

今回は、双方ともに大きな魅力である「歌詞」について比較してみます。

 

あくまで私の印象ですが、BUMPは人間コミュニケーションにおける普遍的な事実を歌っている曲が多いように感じます。

例えば『花の名』(2007)の一節

簡単な事なのに どうして言えないんだろう 

言えない事なのに どうして伝わるんだろう

ここで歌われているようなことは誰しもが体験したことがあるものだと思います。

多くの人が人生の中で感じたことのある感覚を巧みに言語化する、それがBUMPの歌詞が共感され支持を得ている大きな理由だと思います。

 

一方、RADはざっくり言うと恋愛について歌っている曲が多いです。今話題の『君の名は。』の主題歌、『前前前世』(2016)もそんな感じですよね。

君の前前前世から僕は 君を探し始めたよ

そのぶきっちょな笑い方をめがけて やってきたんだよ

こんなこと本気で言えます??

ある特定の相手に向かって、その相手がどれだけ素晴らしくどれだけ愛しているか、をあらゆる言葉で表現している印象があります。その大げさともいえる愛情表現が唯一無二というか、野田洋次郎にしか言えない、こんな表現あったのか!て感じで素敵だから恋愛主義な人々に好かれるんじゃないか、と思います。

 

こうやって大雑把に特徴づけて話してみると、その枠に当てはまらない部分が目立ってきてしまいますね。

例えばBUMPにも『リリィ』や『アルエ』といった明らかに特定の対象に向かって歌われてる歌もあるし、RADにだって『オーダーメイド』とかは大きいことを歌ってるし。

あと、両バンドとも社会や弱い自分を皮肉った歌を歌いますよね。私はBUMPのでもRADのでもそれが好きですね。

 

こうみると確かに似てるところたくさんあるなあ…という感じですが、どちらの楽曲も十分にそれぞれ「藤原基央にしかできない表現」/「野田洋次郎にしかできない表現」であると思うので、優劣じゃなくて肌に合うか合わないかですよね。

ちなみに私はBUMPの方が肌に合いますね、藤原基央ゎ神。。。。

 

口にする/食べたい/露子


「誰にも言えない秘密の話」、ねえ…。そうですよね、誰にも言えないから秘密なのに、それでトークしろってほんと無茶ですよね、フフフ。このカードでるたんびに思う。…でもまあ、さっきは大越さんのエセ不倫体験とか、あれすごかったなあ、ね、ほんと。うん、だから、私もちょっと、ひとつ、秘密を暴露してみますよ。えー、うん、なににしよう…。いや、そんなに秘密ないんですけどね、いやほんと。ハハハ。う~ん…あんま大した話じゃないけど、あれにしよう、うん、秘密話します、ふふっ。

えっと、大学時代、一人暮らししてたんですよ。そう、上京。あれ?地元北海道だって私言いましたっけ。なんでばれてるんだろう。ああそっか。ははっ、すっかり忘れてました。

そう、それで東京で一人暮らし。大学生活は絶対都会で過ごしたかったんです。ばっちりメイクして、オシャレな服を着て、オシャレな友達とオシャレなお店でランチ……サークルのカッコいい先輩とあわよくば…みたいな、もう、完全無敵なキャンパスライフを送るんだって、中学生の時から心に決めていたんです。

ええ、彼氏はすぐできましたよ。サークルのカッコいい先輩。アハハッ。ほんと筋書き通り。人生ちょろいわ~ってめっちゃ思ってました、あの時期は人生の黄金期だったな~。

その彼氏がですね、私の家に来たいって言うんですよ、まあ当然のことですけど。でも、当時住んでたのはほんと悲惨なところで。とにかく家賃の安さを追求した結果こうなった、みたいな。中身も外見も完全ボロアパートだったので…あんま人呼ぶのとか嫌だったんですよね。とても華の女子大生が住むようなところじゃないって、ほんと下宿先だけは不満でした。結局、四年間住んだけど。ふふ。

そう、だから、彼氏にも来て欲しくなかったんですけど、彼が汚くても狭くても気にしないよって言ってくれたので、というかすごく、しつこかったから。付き合って一ヶ月くらい経った頃かな?とうとう、いいよって言って。彼氏がうちに来ることになったんです。

まあ、超掃除するじゃないですか。もう、台所からユニットバスから窓から…部屋中隅々掃除したんです。私は少し、潔癖症というか、自分のものであっても汚いものに触りたくなくて。けど、めんどくさがりなんでこまめには掃除しなかったから、排水口とか結構すごいことになってて。髪の毛やらなんやらの毛がつまって、もう一面カビだらけで…。なんか、全体的に白いんですよ。当時、私ロングヘアだったのでもうぎっしり髪がつまってて、それを白いヌメヌメがコーティングしてる感じで。見てるだけでヌメリが伝わってくるというか…見たことありません?もう、絶対手で触りたくないし、ゴム手袋越しでもあのヌメリは感じたくない…。そこで思いついたのが、箸でその、詰まっている毛をすくう方法でした。

あれなんですよ、新生活のためにひと通りそろえるじゃないですか。それで、なんか、300円均一のお店で、10組セットの箸買っちゃって。ファンシーなやつ。箸ばっかたくさんあって、持て余してたんですよね。そう、だから、そのうちの1膳くらい汚物処理用にしてもいいかなっと思って。

まあ、それで箸を持ってね、排水口に向かったわけですよ。ラーメンの麺をすくうようにね、毛の塊の下に一本を入れて、挟んでそのままスーッと上にやるわけです。そしたら、ヌメッとした塊がヌメッとしたままズルンッとすくえてね…手も汚れないし簡単に取れたから、こりゃ良い、頭良いぞ私って自分を褒める気持ちになりました。あんまりきれいに塊が取れたもんだから、それを顔の高さまで持って来て、しばらく見つめていたんです。 ぼーっと。

そしたらね、なんだか知らないけど突然、舌に、ヌメッと冷たいものが触れた感じがしたんです。なんだろう、いきなり口にナメクジでも這入り込んだような…そんな感じ。………ハッとして横の鏡を見たら、ね、口から長い毛を垂らした自分が映ってるわけです…。え?あ、思ったより引かれてるなあ、やっぱ話さなきゃよかった、アハハ…。

まあ、それ以降、私はお箸を使ってご飯を食べるたんびに、あのヌメッとした感触を思い出してしまうようになったんです。ん?味?味は覚えてないですね…そういえば。なんでだろう。うーん、それにしても、あの、感触はなかなか結構、でした、よ。 うん………。

…はい、これで私の秘密は終わり!うーん、なんか、そんなに、引かれるつもりじゃなかったんだけど、な。次のテーマいきましょっか。

 

けふも昔に/夕方/露子

夕方は切ない。
春の夕方は、昼間の暖かさを俄に冷たさに塗り替えていって切ない。夏の夕方は、淡く橙色に染まった空に遠くから微かに聞こえる祭囃子が響いて切ない。秋の夕方は、夕焼けが景色を真っ赤に染める様が切ない。冬の夕方は、気づく間も無く終わっていて切ない。

夕方はなぜ切ないのだろう。
個人的な懐かしい思い出が想起されるからだろうか、夜が来るのが怖いのだろうか、、、
何か個人を越えた、大きな作用がこの切なさには働いている気が私にはする。

奈良時代の万葉集にも夕方の切なさを謳ったものがあるように、人々は表現を獲得した初期からこの切なさを表現しようと試みていた。大昔から人間たちは夕方に、切なさを感じていたのだろう。
「夕方に切なさを感じる」、この現象は人類がその歴史を紡いでいくうちに無意識的に獲得し、遺伝子にプログラミングされていったものなのではないだろうか。

1日は、地球が一回転する分の時間の単位である。その間に太陽が現れてあたりを照らし、そして去って闇に代わっていく。照明技術の発達していない昔の夜闇は、夜でもどこかしらで明かりの灯っている現代に生きる私たちにはなかなか体験できないような、ザ・真っ暗だろう。そんな真っ暗闇の中では何も見えない。視覚によってあたりの状況を把握できないということは、人間にとてつもなく不安を抱かせる。もし迷ったりでもしたら…突然何かに襲われたら……命の危険がどこに潜んでいるかわからない。そんな中では、安全なところで寝るということが最も欲望され優先されるだろう。
つまり、夜には何もできない。そうとなると明るくて目の利く日中の活動に重きが置かれる。「時間」が発明される前から、夜になることは1日の終わり、ひと続きの営みの終わりを意味していたのだ。

夕方はこの、日中と夜の境目である。真っ暗な、危険な夜へのカウントダウンが始まっていることを人間に強く感じさせ、今日一日の営みを振り返り翌日に想いを馳せる時間が夕方であった。もし明日、日が登らなかったら?もし明日、日を見る前に自分が死んだら?そんなことを考えていた人間もいただろう。しかし日はまた昇り、営みは続いていく。

小林一茶の句に「夕ざくら けふも昔に 成にけり」というのがある。小林一茶も、夕方に一日の終わりを見ていた。
この句の切なさは「けふも昔に」の「けふ“も”」という部分にあると思う。「今日」は昔になったこれまでのたくさんの時間のうちの、たった一日にすぎない。そしてこれからも、経過した時、「今」は昔に成り続ける。あたりが光の中から闇の中に移ろい行く夕方は、こういった“諸行無常のあはれ”を人々の心に染み込ませ続けてきたのだろう。

地球は休むことなく回り続け、時は限りなく流れていくが、自身は有限の存在である。そんなことを人間に気づかせるから、夕方は切ない。