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落ち着くんです/昨日、髪を切った/Gioru

昨日、髪を切った。

 

元々、あまり髪を伸ばすことはしてこなかったのだが、一人暮らしを始めてからは、美容院に行くのも面倒になることがあり、うっとうしくなって気が向いたら髪を切りに行くような生活をしている。

そういえば自分の周りにいる人たちも最近髪を切っていたなと、思い当たる。些細な事だと髪を切った直後には脳裏をよぎるだけだった。

サークルに行くと、同じパートの女の子の後輩から「先輩も髪を切ったんですねー」と話しかけられる。「そうだよ」と返すと「成人式終わりましたもんね」と返され、揶揄われていたことに気づく。おい、私の成人式は去年だぞ。それに、私の出身地での成人式は冬ではなく夏だ(新成人が成人の日周辺に帰省することが少ないため、お盆周辺で行う)。

そんなことを別の人からも言われ、合計で4回くらい同じようなやりとりをしたような気がする。そう、みんな成人式が終わると髪を切るらしい。成人式のために髪を伸ばすのは、振袖やドレスに似合う髪型を作るために(またはバリエーション)を増やすために必要だからと聞いたことがあったような、なかったような。

思えば、女子の髪型って、色んなバリエーションがあるね。編み方や縛り方次第で色んな髪型になるし(名前とかよくわからんから、色んなとしか言えないのだけれど)、たまに気づく分には見ていて楽しいし、眼にも優しい。セットする側は楽しいだけで済むはずはないだろうが。

 

私の髪型は、演奏会などに定期的に出るようになり、多少ワックスの付け方などを練習したりした。美容院では基本的に「不揃い」の、不自然にならないような髪型をお願いしている。というか、最初に切ってもらうように頼むときに頼み方がわからなくて「なんとなく、それっぽく、いい感じに」的なお願いをした記憶がある。高校に入って少し経つくらいまでは、運動をするのに邪魔だから切る、というくらいの認識しかなく、気にするようになっても、「あの髪型とかいいなぁ」と、どこか他人事で、大して知ろうともしなかったような気がする。むしろ、ワックスとか付けない俺って、無駄にキザっぽくしてなくていい感じじゃん! と思っていたようにも思う。最低限の身だしなみと、キザっぽさの違いに、もう少し早く気付いてほしかったよ、私。

そんな感じで、ワックスの付け方やドライヤーのかけ方とかを美容院で聞いたり、インターネットで調べてああでもない、こうでもないと本格的に気にするようになったのは大学生に入ってからだ。今思えば、大学生デビューしたかったのだと思う。○○になればきっと素敵な未来が待っている! 的なアレである。何度も裏切られていることは、経験上わかっているはずなのに、今度は○○だから、前回までのようにはならないはずだ! と、根拠のない自信を持って毎回挑んできている。案の定、それほど周囲に変化はなかったように思う。

気にするようにしてからしばらくして、ワックスをほとんどつけないでみんなが集まる場所に行ったこともある。雰囲気的には高校までの髪型に近い。理由としては寝坊のためにほとんどセットをする時間がなかったためだったか。とりあえずぼさぼさではない、というくらいの髪型であったように思う。サークルの後輩たちと会い、いつも通りの挨拶の後「今日の先輩、髪上げてないんですね? そっちの方がいいんじゃないですか?」と指摘をもらう。まじか。

いやいや、個人的な嗜好とかあるよね。私も、最近ショートボブ? とかの髪型にしている女の子は目で追っちゃいますよ、可愛いですねあれ。

げふんげふん。ともかく、たまたまだろうと思っていたら、今度は同輩(またも女子)から、今日の方が髪型いいね、とご指摘をもらう。なんか、今までの苦労が、変なベクトルを向いていたような気分で、なんだったのかと思ったよね。その後の会話で、「自分で髪をセットしてるの? すごいね」というありがたいお言葉ももらったのだが、実際はどうなのだろうか。

サークルの男子も、髪型をセットしている人はけっこういる。今よく使われている? モデルっぽいゆるふわウェーブ(名称あってる?)みたいにしているやつもいれば、ヘアアイロンを毎日かけて、きっちり決めてくるやつもいる。かと思えば、寝起きの髪跳ねを直してきただけのような奴もいれば、それすら直さないで来るのもいる。「さすがにヤバくないか?」と言ってみても、「いいんじゃない?」の一言で終わってしまう。

後、私のサークルではよくあることだが、演奏会の本番は髪型を特別なものにしてくるパターンが多い。男子もそこでは気を付けるらしく、髪を整えるのは勿論、オールバックにする人もいる。やり方も教わったから、今度はチャレンジしてみたいね。

女子は流石というか、なんというか。化粧や衣装も相まってまるで別人のように見える人たちもいる。まさに眼福である。記念写真一緒に撮ろう、なんて言えば一緒に撮ってくれるので本当にありがたい。これで好きな時に見られます。演奏会って素晴らしいね!(そうじゃない)

何が言いたいかって、男子が髪型とか身だしなみを整えることは当たり前ではないのか、ということになる。正直、女子が髪がぼさぼさでまったく手入れをしていなかったら「あれはないわー」と思ってしまう自分はいる。何もしていない、ストレートが好きっていう男子も、手入れをしていない髪が好きっていうわけじゃなくて、サラサラの綺麗なロングヘアーをご所望なのである(漫画でよくある風で髪がサラサラ流れるあれである)。かといって男子はそうじゃないのだろうか。ぼっさぼっさでも、街を歩く分にはそこまで咎められないようにも思う(ビジネスとかは流石に別だけど)。

私の髪型の話から、サークルに所属する男子の髪型の話へと変わっていき、あいつは髪を後ろから必死に全部前に持ってきているようで笑うだの、なんであの子はいっつも寝癖付けたまんまなのかな、とか、最近誰々が髪の毛弄り始めたよねーとか、どうやら指摘したい個所は山ほどあるようだ。更には服装の話へも発展していって、サークルの男子の評価になっていく。ワイシャツにカーディガンとかおっさんっぽいねとか、その服、新しいヤツじゃない? とか新歓期にジャケット着るとか、絶対に狙ってるよねーとか。本当によく見ていらっしゃる。

というように、整えてみてもそうでなくても、色々と思う所はあるらしい。かくいう私も、あまりセットをしなかった髪型のほうがいいよ、と言われても、いまいちピンとこなかった。しばらくその髪型を維持しようと、それっぽくなるようにセットしてみたり、服装も少し気を遣ってみて、これまたネットでトレンドなるものを調べたりして直し、マフラーの巻き方まで調べた。が、髪型はいつの間にか、髪を上にあげるスタイルに戻っていた。なんだかよくわからないが、こっちの方が落ち着くのである。ちゃんとできているような気がするからだろうか。

 

 

「今日の先輩は髪を上げてるんですね」

「こっちの髪型はダメなのかな?」

「先輩の好きな方でいいんじゃないんですか? 今度は髪染めましょうよ! 茶色とか後は、銀色とか! あ、金髪とか笑えそう」

「いや、銀髪金髪は勘弁してね」

「じゃあ茶髪ですか?」

「いや、就活あるから無理」

「それなら就活終わったら茶色ですね!」

 

 

なんて会話が後日談としてあったりする。結局今の私も髪はワックスで少し上げている。髪を短くした方が、自分が納得する髪型になりやすいのは、単純に技量が足りないからなのか。あぁ、そういえばスプレーを使った方が維持しやすいって言われてたわ。今度買っておこう。

 

今の私はこの髪型が落ち着くんです。

バタフライエフェクト/Gioru

もし、私がいなかったら、今私が住んでいる世界にはどんな影響があるのだろうか。そんな風に考えることがよくある。

お天道様が見ている、なんて小さい頃にはよく言われたものだが、実際には見て見ぬふりをされている、あるいはそもそも見られてすらいない場合もある。

見られたくないな、誰かに知られたくないな、と思う出来事ほど、周りの人にいずれ気付かれてしまうのはマーフィーの法則(ジャムを塗ったパンが絨毯の上に落ちるとき、ジャムを塗った面が下になって落ちる確率は、絨毯の高級度に比例する)のようなものか。あるいは、実は気づかれてほしくて、痕跡を残してしまうのではないか。

 

話が少しずれた。自分がいたからこそ起こった出来事、自分がいないと成立しなかった関係を考えてしまうのは、自分の存在価値を確かめるためであろう。その延長として、このバタフライエフェクトのような、自分が時間を逆行し行動を変えることによって、世界が変わるような想像をするのか。もしあの時、別の行動をしていれば、その後の未来は変わるのではないか。

自分がいなくても、あるいは自分が重要だと思った場面で異なった行動をしても、何も変わらないのであれば、それこそ自分が存在している意味などないのではないかと絶望してしまう。

そんな風に考えてしまうと、もう何をしても変わらないのではないか、なんて思ってもしまう。選挙に自分が行っても結果が変わるわけでもない、なんて考えのように、どうせ今ジタバタあがいてもなるようにしかならない、なんて怠惰な答えに辿り着く。

 

実際はそんなことはないし、いくらか運の要素が絡もうとも、何かを成し遂げようと行動し続ければ、目標に辿り着くかはともかく、それをやった痕跡は自然と残ってしまう。誰かを真似た物、意図しない癖が物事の過程で出てくるもの、などなど。

もし人生をやり直せたら、あるいは、もしあの時に戻ったのなら、という考え方は今の私がその時を生きた記憶が存在しているからである。強くてニューゲーム、という訳ではないが似たような感覚だろうか。その時には持っていなかった知識(その行動によって起こり得る未来など)を持ったまま過去に戻ることでよりよい未来を目指そうとする。それが現状への不満から来るものであることは明らかである。

小さなころからやっていないと、大きくなってからはどうしても手に入らないものもある。音楽をやっていると、特に顕著かもしれない(絶対音感など)。今からでも遅くないものは確かにあるし、うじうじしているよりは何かをしていくことの方が、少なくとも現状を前に進められる。

それでも、あの時に戻ることができたのなら、と考えることを止めることができない。今がある程度充実している分、今の自分が思う無駄だな、と思う部分がどうしても気になってしまうのだ。

過去に戻って、それを切り離すなんて、そんな決断ができるのは、それこそそんな未来を経験した強くてニューゲームの主人公でしか、あり得ないのに。私がいない世界は、私しか見えない。

フラグをへし折りたいのに、勝手に乱立していくんですけどおぉぉ!?/シラサキマイ/Gioru

真っ白になった頭を無理やりフル稼働させて、再起動させる。ヤバい、これ以上はもう無理……!!

 

「ご、ごめんね! 今は私、そういうのとかちょっと考えられないっていうか、とにかくごめんなさい!」

 

全力でジタバタして二人の包囲網を何とか潜り抜け、拘束を逃れる。あぁ、なんだよ、その二人して「意外!?」みたいにポカンとした顔しちゃって! イケメンならなんでも許されるってか? 当たりだよチキショウ! そのまま石像にでもなっちまえよ!

 

全力で廊下を走ってとにかく二人から離れる。途中でさっきまで教室にいた先生とすれ違って「またおまえかシラサキ!」って叫ばれた気がするけど許してね☆ おぇ、心の中で言っても気持ち悪いや、なんでこんなキャラになっちゃったんだろう、俺。

 

そう、シラサキマイは転生者! 前世では男やってました! 気が付いたら女子高生になっていて、しかもそのキャラが前世で俺が血迷ってプレイした乙女ゲーム『俺とキスしてよ』のヒロイン、シラサキマイだったんだ! って信じられるかよ!? そう思ったんだけど、起きた部屋とかゲームの画面で見た主人公の部屋にそっくりだし、おとーさんとおかーさんもどこかで見たビジュアルだった。

これはもしや? なんて思ったら、いきなり体が動き出して、さっきみたいなことを口走りながら、序盤のイベントのフラグを全部回収していきやがった……!! なにこれ、全自動になっちゃって、話したくもないセリフをべらべらとして、しかも男からキスされるだぁ!? なんてことだ!! まさに人生最悪の日だ! そこだけは同意してやるよ、シラサキマイ!!!

 

階段を駆け上がって、屋上前の踊り場に辿り着く。ここなら、授業終わりだし誰も来ないだろう。ふぅ、と一呼吸いれる。もう何が何だかわからない。

一回頭を整理しよう。さっき、思い出すだけで吐き気がしてくるが、俺にキスしてきたダイキってやつは主人公の攻略対象の1人。普段は猫を被っていて王子様キャラの男だが、先程片鱗を見せたように、好感度を上げていくと俺様キャラをどんどんだしていく。俺の姉貴なんかはそんなダイキを見て、「ステキッ! ダイキ様もっと!!」だの言っていたが実際にやられたらたまったもんじゃない。あんなの恐怖でしかねぇよ。断罪イベントとか起こしちゃった場合どうすんだよ、死ぬ未来しかないじゃん!

ちなみに教室で怒ってきた先生も、幼馴染のケンタも、もちろん攻略対象。先生が熱血系で、ケンタはツンデレ幼馴染。あんなスペック良い顔の持ち主がこんなにいっぱいいてたまるかよ。乙女ゲームの世界だけにしてくれ。あ、ここ乙女ゲームだったよ畜生。

 

 

今後もフラグには気を付けねぇとな。なにせ、フラグが少しでも経ったら自動操縦が始まってしまうことは経験済みだ。欠片すらフラグを立てないようにしないと。

そう決意したその瞬間だった。

 

 

「さっきから一人で百面相披露してるけど、何か面白いことでもあったのカナ? なんでそんな感じになっているのかボクに教えてほしいんだけど?」

 

 

真横から聞こえてきた声によって、電流が背中を走ったかのような錯覚を受ける。

こ、この声はヤバい! 声優さん的にも大好きで、そのネットリとした声はある鬼畜ピエロを思い出すんだけど、そうじゃなくて!! そこも大事だけど、このキャラは駄目だ!

 

経年劣化で錆びついてしまったロボットの頭のようにギギギッて効果音を鳴らすみたいに首を動かすと……。

 

 

なんでこんなところに隠しキャラクターがいるんですかね!? フラグなんて立てた覚えないんですけど!?!?

 

そこには、口元を三日月のような形にした腹黒鬼畜ドSキャラのトオルがこちらの瞳をじっと見つめていたんだ。もうやだ、この世界。

ふわりふわりと漂って/明るい小説/GIoru

ぽつんと出てきた私。

ふわりふわりと漂って、ゆっくりと落ちていく。

 

ぽかぽかとしているのは、お日様が私を見守っていてくれるから。私を照らして、気持ちよくしてくれるの。お日様ってすごいんだ。ある時はこの前置いてあったリンゴみたいに真っ赤で、そうかと思ったら雪みたいに真っ白な時もあるの。そんな時はちょっと気を付けないといけない。じっと見続けると、くらくらしてきちゃう。

 

そんなことを考えているうちにどんどん下に落ちていって、お日様の光が届かない、ひんやりとしたところに辿り着く。そこには、どこか私に似た、私よりもずっと大きくってモコモコした先客がいました。

 

 

「ねぇ、君はどこから来たの?」

大きなあなたは私に問いかけます。

「わたしはここで生まれたよ、あなたもここで生まれたんでしょ?」

「そうだね、気がついたここにいて……それから動いていないや!」

「えぇ! あなたって怠け者なのね!」

「そうじゃないんだよ。ただ、僕を動かしてくれる気まぐれな相棒が、まだ来てないだけだよ」

「でもそれって、あなたが怠け者じゃないって証明じゃないでしょ?」

「いいや、僕は働き者さ。なんたって取締役なのだから!」

「それはすごい! ところで何の取締役なの?」

「僕の仲間たちを呼び寄せてみんなで集まって楽しめる場所を提供しているんだ! 僕はその中心! だから取締役!」

「へぇ、じゃあみんなで集まって何をしているの?」

「それはみんな違うことをしているのさ。じっと座っているだけの奴もいれば、落ち着きがなくてあっちこっち行くやつもいる。歌を歌っている奴もいれば、みんなでピクニックにいって、仲間と掘り出し物を持ってくるやつもいるんだ」

「それは楽しそうな生活だね! 私も仲間に入れてもらっていい?」

「もちろんさ。ただ、一つ気を付けることがある」

「それってさっきの気まぐれな相棒さんのこと?」

「そうさ。あいつはとにかく気まぐれで、俺たちをバラバラにしてしまうこともあれば、もっと暮らしやすい場所に連れて行ってくれることもある。ひとりぼっちだと、しばらく地上に降りてこられないことだってあるんだ!」

「それは大変! なんとかならないの?」

「みんなでいれば怖くないよ。ひとりぼっちだからどうなるかわからない。こうやってみんなで固まっていればどんな時でも一緒さ。ここじゃない所でも、また歌を歌ってピクニックができる」

 

 

その時、キャーという悲鳴が近くから聞こえ、やがてずっと遠くへ行くように消えていきました。

「噂をすれば奴が来たぞ! さぁ、早く私の下へ!」

 

 

私はモコモコさんに引っ付いて、ぎゅっと目を閉じます。

その瞬間、ごぉっという音と共に私とモコモコさんは大勢の仲間と共に宙に飛びました。

離されないようにと私は必死でしがみつきました。仲間たちのうちでは引きはがされてしまった者たちもいたのか、悲鳴が絶えず上がります。

でもその悲鳴は、やがてキャッキャと楽しそうな声に変っているではないですか。

恐る恐る目を開けると、私たちはふわふわと空を浮かんでいます。

とてもいい眺めで、いつもは見えない銀色の上に大きな水たまりがあるのがわかります。みんな大はしゃぎです。私も大はしゃぎ。

 

空中遊泳が終わるまで、私たちの笑い声は収まりませでした。

 

やがて、だたっぴろい空間にぽつりと私たちは着陸しました。周りには物が何もありません。

 

 

「しまった、この場所はいけない!」

「どうしたの?」

「ここは気まぐれなやつよりもずっと恐ろしいやつが……」

 

 

次の瞬間私たちは肌色の5本の柱によって掴まってしまいました。

「君だけでもいいから離れなさい! ほら早く!」

「でも!」

「大丈夫。私たちの仲間は必ずどこかにいるさ! ひとりぼっちになんてならないよ」

 

ぱっとモコモコさんと分かれ、モコモコさんは四角い箱の中へ。私はまた宙に。

 

 

ふわりふわりと漂って、ゆっくりと落ちていく。

音にハマる/好きなこと/Gioru

好きなことというと、どうしてもクラシック! と答えたいのだが、前回クラシックについて多少触れてしまったので今回は別方面から。音ゲームについて紹介していきたいと思う。

 

とはいっても、一概に音ゲームといってもたくさんの種類がある。一つずつ上げていってみようか。

 

皆が知っている音ゲームで有名なものといえば『太鼓の達人』であろうか。曲に合わせて右から流れてくるアイコンをタイミングよく太鼓を叩いてスコアを上げていくあれである。

体感型ゲームと呼ばれる、ゲームセンターなどで体を動かして遊ぶゲームの一種であり、本当に太鼓を叩いているかのように楽しめるゲーム。オリジナル曲から話題のヒット曲、東方からボーカロイドまで、カバーしている曲の範囲も幅広い。オススメの音ゲームの一つだ。

 

 

 

ゲームセンターにおいてある音ゲームからもう一つ紹介。『グルーヴコースター』。音ゲームの基本は変わらず、タイミングに合わせて出てくるアイコンを手元にあるボタンを叩いていくゲームである。これがほかのゲームとは違うのは、音ゲームとしては珍しく、叩かなければいけないアイコンが一定の場所から出てくるわけではないということ。

公式サイトの説明では、「画面上のレールの上を走る『アバター』がターゲットを通過するときに、曲のリズムにあわせてタイミングよく専用演奏コントローラー『ブースター』を操作する」とある。

レールはただ真っすぐに伸びているわけではなく、複雑に絡み合っていることもあればいきなりアバターがレールを通過する速度が上昇したりもする。そのレールにあわせてターゲットも千差万別に登場方法が変わる。ただリズム感が良くてもクリアできないのがこのゲームの特徴になる。

更にもう一つ特徴を上げると、“ターゲットの姿は画面上に現れないが、隠しターゲットが設定されている”というものである。音楽のリズム的に、あきらかにここでターゲットが来てもおかしくないのに、ターゲットが存在していない時にコントローラーを押すと、それが得点になったりする。そんな「隠しターゲット」が盛り込まれているゲームでもある。

まさに体感型ゲーム。視界だけが全てではなく、リズムとノリが必要なゲームとなる。

 

 

 

ゲームセンターにいかなくても、音ゲームは楽しめる。

アイドルマスターやラブライブなど音楽が作品の特徴に入るアニメなどは、音ゲームとなってスマホなどで楽しめるようになっている。

最近では、あのテニスの王子様も音ゲームを出しているようで……? テニスとはいったい何だったのか。

 

 

 

 

キャラクター作品の一つとしての音ゲームではなくて、スマホでもできる純粋な音ゲームとして一つ『Deemo』を紹介しよう。

画面の奥から流れてくるアイコンをタイミングよくタッチすることで楽曲を奏でることがコンセプトの作品。まるでピアノを演奏しているかのように音ゲームを楽しむことができる。

複雑な動作は少なく、感覚でもなんとなくできてしまう。収録曲もピアノのメロディーを主体としたもので、クラシカルなものからポップなものまであり親しみやすい。

このゲームにはストーリーも存在していて、主人公Deemoのもとに空から少女が迷い込んできてしまうところからゲームが始まる。彼女を上の世界に戻すために、音楽を聞かせると成長する不思議な木を育てて、天井にある窓を目指す。魅力的な音楽とファンタジーな世界が織りなすこの作品を一度は体験してみてほしい。

というか、やらなくてもいいから音楽だけでも聴いてほしいです! それくらいには耳に残る曲だと思うし、とにかく優しい気分になれる曲、元気になれる曲、ちょっと悲しくなる曲など、非常に表情豊かな曲たちが収録されています!

(この曲はMirror Night という曲。1:23:34 から始まるWings of Piano という曲もオススメ!)

 

他にもいろいろ音ゲームってあるんですよ? たとえば実際に作曲できて、楽器を弾いている気分にもなれる「バンドブラザーズ」とか「ギタドラ」など。

RPGとかの、一つの大きな道がある作品と違って、音ゲームの良いところはいつでもやめることができて、いつでも戻ってくることのできるゲームです!

 

それだけに中毒性もヤバいんですけどね。

集中講義フィードバック/Gioru

音楽を趣味とはいえ嗜んでいる身としては、ミュージカル・音がどのようにこの映画に用いられているのかが、気になってしまう。

Wikipediaによると、オーケストラなどでも知られ、オペラとミュージカルのどちらも書いているレナード・バーンスタインが「歌によって進行するのがオペラで、ドラマの結果として感情を歌に託するのがミュージカル」と定義している(あくまで一説ではあるが)。それならば、作中でも出てきた映画『サウンド・オブ・ミュージック』はまさしくミュージカル映画であると言えよう。

ダンサー・イン・ザ・ダークではどうか。彼女が感情の発露の結果歌を歌っていたかというと、その通りなのかもしれない。彼女は眼が悪く、満足に作業もできない状態で、音を頼りに妄想の世界に入り込んでいく。視界という認知能力を失っていく中、世界を認識するためには別の感覚を用いるしかない。彼女にとっての視界の代替物が聴覚であったのだ。ただ、その情報変換が、彼女の楽しみであるミュージカルになってしまうだけで。しかも、実際に行動して発露することはできないから妄想という形での表現になる。

彼女自身それではいけないとわかっていたのだろうか。息子の視力と母親の存在を天秤にかけた時に、迷わず息子の視力に天秤が傾いた。

彼女にとってミュージカルとは、辛いことが何も起こらない世界であり、誰もが笑って過ごすことのできる世界である。非常に魅力的な世界ではあるのだが、その世界が現実ではないことを知っている。最初から視力がないわけではないため、自分の目で見てきた現実世界が存在する。

現実で辛いことが起こっても妄想(ミュージカル)の世界に入ってしまえば、逃げることができる。ただ、現実は彼女を逃がし続けることをさせず、妄想に割り込んで彼女にとって非情な世界を見せる。

息子の手術費用のために働いているのに妄想の中に入り込んでしまい、結果として解雇されてしまうのも、彼女が耳からの刺激と妄想の魔力に侵されてしまっているからである。独房の中で、聖歌隊の音に気づくまで妄想ができなかったのは刺激がなかったため。

音は視界以上に自分流の解釈が可能な感覚と言える。ある程度の快・不快は共通かもしれないが、それがどんなイメージかは人によりけりな場合が多い。クラシックなどの曲で、ただ番号がついていて淡白としているように思われるのも、聞いた人が自由に解釈ができるようにとも言える。

セルマが息子の視力を優先させたのが、自分のようになってほしくないと、警告の意味も込めているのだとすれば、セルマに共感できなくもない。

現実と向き合えなくなったのが視力がなくなり視えなくなっていくから、いくらでも逃げ込める世界に閉じ込められてしまうから。そんな視覚と聴覚による世界の感じ方に悩まされたのがセルマだったのかもしれない。

感情を掘り起こそう/自分が今情熱を注いでいること(改訂)/Gioru

皆さんはクラシック音楽を聞きますか?

なんだか堅苦しいイメージがあるジャンルですが果たして堅いだけなのか。

クラシック音楽界には「3大B」と呼ばれる人たちがいる。あ、三大バカでも三大ブスでも三大ブルジョワでもないです。三大仏頂面のように厳めしいわけでもなく、頭文字っぽいところからとってます。

J.S.Bach(バッハ)、Beethoven(ベートーベン)、Brahms(ブラームス)の3人のことを指し、偉大な音楽家として現代にまで名を遺した人たちである。ものすごくざっくりとまとめると、

バッハは音楽の父とも呼ばれ、カツラの人

ベートーベンは交響曲という形式に変革をもたらした、カツラじゃない人。

ではブラームスはどうなのか、と言われると何ともパッとしない。バッハとベートーベンを知っている人はかなり多いだろうが、ブラームスと聞いてもぱっと来ない人もいるのではないか。今回は、今私がオーケストラで取り組んでいる彼について書いていこう。

とりあえず今残されているビジュアルを見比べるところから始めよう。

これが一般的に知られているブラームスのイメージである。カツラを被っておらず、ひげもじゃのおじさまだ。中々威厳があるしカッコいい。目の部分に注目してみると髭のイメージとは程遠く、どこか潤んでいるようにも見え、そういう面では可愛いと言えるかもしれない。

このイメージはブラームスがだいぶ年を取ってからのものと言われている。ここで見てもらいたいのが次のイメージである。

もの凄く好青年っぽい。アイデンティティのようなお鬚は影も形も存在せず、眼には鋭さがうかがえる。

1833年に生まれ、このイメージは1853年に撮られたものと言われているから20歳のブラームスである。こっちの写真が出回った方が今の観点からすると人気が出そうな気がするが果たして。

一枚目の写真からにじみ出る厳格なイメージからは想像もつかないが、ブラームス本人はとてもシャイであったらしい。自分の気持ちを相手に伝えるのが苦手で、作った曲の解説を求められても嫌々答えるほど。友人の人妻に恋をし、その友人が自殺してしまいその女性と親しくなっても最後まで一歩踏み出す勇気がなく生涯を独身で貫いている。あのお鬚も周りから見下されないために付けたのでは? と言われるほどである。ブラームス本人も若い頃の写真はあまり使われたくなかったそうだ。

残された曲ではハンガリー舞曲などが有名である。

小学校や中学校で聞いたことがある人も多いのではないか。お鬚にふさわしいカッコいい曲である。

この曲、実は少し面白いエピソードがある。「ハンガリー」舞曲とあるように、ブラームスはジプシー音楽の影響を受け、民族音楽のメロディーを元にこれを”編曲”した。そう”作曲”したのではないのである。

ブラームスがハンガリー舞曲で大成功を収めると、それを妬んだ人が盗作ではないかと訴訟を起こす。しかし、結果はブラームスの勝訴。自分が作ったのではなく、アレンジをしただけ。そういうスタンスのおかげでブラームスは今の地位の一部を築き上げたとも言える。……少しお鬚のイメージから遠ざかってきた。

それでもバッハやベートーベンと比べると知名度では一歩劣る。今私がオーケストラで練習をしている交響曲第2番などクラシックを嗜む人ではないと聞いたことがある人はいないと思われる。

ハッキリ言うと、他の二人と比べてどこが凄いのかよくわからない、という人である。音楽的に説明しようと思えばできるが、逆に言うとそこまでしないと伝わらない。一度聴いたら耳から離れない! みたいな二人の曲(トッカータとフーガ・交響曲第5番「運命」・交響曲第9番「合唱付き」など)みたいなインパクトがない。

まずは聞いてみよう。流すのは交響曲第2番の2楽章冒頭である。

チェロによる穏やかなメロディーが続き、どこかもの憂いのある局長が続く。内なる感情がそのまま燻ぶっているかのように続く。途中から抑えきれなかった感情があふれ出るかのように流れ(動画の19:30辺りから)、それも少ししたら理性で抑え込まれたかのように静かになる。

 

比較対象として、ブラームスと同じ時期に活躍したワーグナーの作品も出してみよう。曲名はワルキューレの騎行である。

比較してみれば一目瞭然かもしれないが、まるっきり曲調が違う。こちらは我こそはと様々な楽器が主張しているイメージか。金管楽器の主張が特に激しく、イケイケどんどんという言葉がふさわしい。

 

どちらの作曲家も後世に残る曲を数多く残した偉大な作曲家であることは間違いない。ただ、ブラームスの場合はヨーロッパ圏の人ではあるが自己主張というよりは曲の中ですら感情を抑え込み、漏れ出てしまった、くらいの気持ちで作曲をしていたのではないか。

音楽史的には無くてはならない大事な人ではあるが、少し調べてみるだけでもこのざまである。厳格なだけではない、そんな一面を曲の中から探していける人物である。深く調べれば、聞いていけばいくほど抑え込まれた感情を見つけ出していくことができるのが彼の曲であり、ブラームスなのだと思う。

 

堅苦しい中からシャイな彼の気持ちを感じられたらほっこりしませんか?

お風呂/いい○○の日/Gioru

毎日が記念日なのが11月。というより、毎日を記念日にしやすいのが11月である。語呂合わせの都合上やりやすいのではありそうだが、そもそも「いい」を付ける必要があるのかわからない日が結構ある。

例えば11月26日は「いい風呂の日」らしいが、何をどうしたら「いい」風呂になるのかいまいちピンとこない。2月6日なら「ちょっと大きめの風呂にでもいくかー」となるかもしれない。

 

一人暮らしをしているとシャワーで済ませることが私は結構多い。大きいお風呂にゆっくりと入ってのんびりしたい気持ちが時たま首を出してくる。そんな時に何でもいいから理由があれば普段はそこまでしなくとも、と思えるものでも贅沢をしてやってみたくなる。

長湯が得意な方ではないが、大きいお風呂屋にいくとたまにあるのが、疲れない程度の温度のお湯が入っているお風呂である。どのくらいの温度かというと大体人肌くらい。36℃から38℃くらいのお湯である。ぬるいとぎりぎり感じないくらいの温度で、とりあえず中に入るといつまでも入っていられる不思議なお風呂。お湯の中にいる独特のふわふわした感じだけを持ってきたイメージで、温まってきて限界だから出る、なんて事をしないで済む。ジェットバスが付いているものもあって、凝り固まった全身をぼっこぼこにしてくれるみたいなのがたまらない。

ただでさえお風呂に入っていると何も考えなくなるのに、人を駄目にするソファーのような離れがたさがある。

人を駄目にする風呂。うん、これだけだとなんか不衛生な感じだけになってしまう。

小学生くらいの小さい頃は薬草風呂なんて、そんなものいらないだろと思っていた。今入浴してみると、なんだかわからないけどすごく体にいいような気がしてくる。草の匂いとか健康によさそうな感じをぷんぷん出している。肌とか今までにないくらいスベスベになっているし、そうでなくとも若返ったような気がする。それが長時間風呂に入っているから水分がいつも以上に肌に入っただけだとしても、なにか気持ちがいい。

そうはいってもお風呂を出なくてはいけない時間が来てのろのろと風呂を上がる。着替えている最中に目に入ってくるのは牛乳瓶で売っている自販機である。みるからに割高なのはわかるのにこれがなきゃ、と思って購入してしまうのは毒されすぎたのか。

 

結論。いい風呂の日でなくとも「いい」かどうかはともかく満足する風呂に入れればいい。ただ、きっかけがないだけ。行けばたぶん、どんな日に行ってもある程度同じ。

彼がわからない/自分が今情熱を注いでいること/Gioru

クラシック音楽界には「3大B」と呼ばれる人たちがいる。あ、三大バカでも三大ブスでも三大ブルジョワでもないです。頭文字っぽいところからとってます。

J.S.Bach(バッハ)、Beethoven(ベートーベン)、Brahms(ブラームス)の3人のことを指し、偉大な音楽家として現代にまで名を遺した人たちである。ものすごくざっくりとまとめると、

バッハは音楽の父とも呼ばれ、カツラの人

ベートーベンは交響曲という形式に変革をもたらした、カツラじゃない人。

ではブラームスはどうなのか、と言われると何ともパッとしない。バッハとベートーベンを知っている人はかなり多いだろうが、ブラームスと聞いてもぱっと来ない人もいるのではないか。

とりあえず今残されているビジュアルを見比べるところから始めよう。

これが一般的に知られているブラームスのイメージである。カツラを被っておらず、ひげもじゃのおじさまだ。これはこれで中々威厳もあるしカッコいい。目の部分に注目してみると髭のイメージとは程遠く、どこか潤んでいるかのようにも見え、そういう面では可愛いと言えるかもしれない。

このイメージはブラームスがだいぶ年を取ってからのものと言われている。ここで見てもらいたいのが次のイメージである。

もの凄く好青年っぽい。アイデンティティのようなお鬚は影も形も存在せず、眼には鋭さがうかがえる。

1833年に生まれ、このイメージは1853年に撮られたものと言われているから20歳のブラームスである。こっちの写真が出回った方が今の観点からすると人気が出そうな気がするが果たして。

一枚目の写真からにじみ出る厳格なイメージからは想像もつかないが、ブラームス本人はとてもシャイである。自分の気持ちを相手に伝えるのが苦手で、作った曲の解説を求められても嫌だったらしい。友人の人妻に恋をし、その友人が自殺してしまいその女性と親しくなっても最後まで一歩踏み出す勇気がなく生涯を独身で貫いている。あのお鬚も周りから見下されないために付けたのでは? と言われるほどである。ブラームス本人も若い頃の写真はあまり使われたくなかったそうだ。

なんだか途端に親近感というか、安心感が出てきた。そういえば先程年を取った方のブラームスの目が可愛いといったばかりであった。お鬚をはやしても隠し切れなかったようだ。

 

残された曲ではハンガリー舞曲などが有名である。

小学校や中学校で聞いたことがある人も多いのではないか。お鬚にふさわしいカッコいい曲である。もっとも、性格を知ってしまった今では強がりのようにも聞こえてしまうか。

それでもバッハやベートーベンと比べると知名度では一歩劣る。今私がオーケストラで練習をしている交響曲第2番などクラシックを嗜む人ではないと聞いたことがある人はいないと思われる。

ハッキリ言うと、他の二人と比べてどこが凄いのかよくわからない、という人である。音楽的に説明しようと思えばできるが、逆に言うとそこまでしないと伝わらない。一度聴いたら耳から離れない! みたいな二人の曲(トッカータとフーガ・交響曲第5番「運命」・交響曲第9番「合唱付き」など)みたいなインパクトがない。

音楽史的には無くてはならない大事な人ではあるが、少し調べてみるだけでもこのざまである。厳格なだけではない、そんな一面を曲の中からも探していきたい。

複雑で単純な回り道/ネット記事/Gioru

『「自分のことがわからない」ときに「自分ひとりで考えこむ」と「胃液」しか出てこない理由!?(中原淳)』

https://news.yahoo.co.jp/byline/nakaharajun/20170725-00073690/

結局、自分のことはいくら自分で考えてもわからないよねぇ。とは、何度も思うけれども、気が付いたら自分の中でグルグルしているのはよくあることのように思う。少し考えればそりゃわかるんですよ。ひたすらに自分と向き合ってウンウンと考え込んでいる時間は、自分の中にあることでしか解決方法が見当たらないから、スッキリするような結果にはならないってことくらい。見つからないから同じところをグルグル回っているんだから。

だから別のことに集中してみたりする。なにかに追われてみたりする。レポートに追い込まれている時(特に留年とかに関係ありそうなやつ)は、逆に言うとそれしかその時は考えられないから、自分の中の何かと向き合う必要は無くなる。その時に限って言えばレポート内容が悩み事に直結していなければ逃げ出すことができているんですよね。別にレポートじゃなくたって、スポーツでも音楽でもゲームでもプログラミングでも読書でも、何かに没頭できている時は気持ち良いと思うんです。悩むなんて辛い思いはしなくても良くて、気が付いたら時間は過ぎていく素晴らしさ。

ただ、どんなことをしていても息詰まることはあって、結局悩みができてしまって止まってしまう。その度に別の何かに逃避して、思い出したころに戻ってきたりするんですよね。

 

最近、サークルの友達がインターンに取り組む際に自己分析カードみたいなものを書いているのを見た。自分で思う、自分のことについてざーっと書いて、それから、自分とそれほど親しくない人、とても親しい人、その中間くらいの人に、その人についてどう思っているか書いてもらうっていうやつ。それを見比べて、自分が思っている人間像と、他の人から見る「私」の人間像のギャップを確認して自己分析を深めるんだとか。

よくできているもんだな、とは思う。堂々巡りにならないように、他者からの視線を取り込んでいくのである。自分では納得できなくても、そう思われているというフィードバックが確かにそこにあって、取り合えずの解決策はもらえる。もし、そこから新たな自分を見つけだしたと「思い込んで」、思い込むことができたのならそれは素晴らしいのだと思う。迷うことがなくなって、熱中できるのだから強いのもうなずける、悩むなんて言う無駄な時間を別のことに使えるのだから。

 

こんな風に書いていると、一直線に何かをできるやつを、何か仕事に追われて脅迫されてるんじゃないかと思えるほど忙しそうにしているやつをなんだか羨ましく思う。別にそうなりたいとか思う訳ではないのだが、どうにも眩しいというか。

 

 

そういえば、何気なくしたことを感謝されて、わざわざお礼を言ってくれた子がいた。なんだかとても嬉しかったのを覚えている。

どうしようもなく単純で、馬鹿だなぁ、とはいつも思うのだけれど。思うのだけれどね。