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真似事/百合/ゆさん

百合ちゃんは、かわいい。

大きな目に長いまつげ、透けるように真っ白な肌で、その頬はいつも淡いピンク色に染まっている。これまたピンク色の唇に縁どられた口に綺麗に収まった小さい歯。薄いからだは折れてしまいそうなのに、半袖のブラウスから伸びる腕はまっすぐでしなやかだ。

百合ちゃんはかわいくて、この上なく「女の子」だ。

 

百合ちゃんに、彼氏ができた。一年生のときから数えて、4人目のその相手はヤマシタくんという。ヤマシタくんは野球部のエースで、百合ちゃんとは違うクラスだけど、ずっと彼女のことを見ていたらしい。流されやすい百合ちゃんが、ヤマシタくんの猛アタックに負けて、付き合うことになったのだと言う。

流されやすい?ふざけるな。かわいいフリしたこのクソビッチが。誰も嫌わないような人当たりのいい笑顔に吐き気がする。ヤマシタくんも百合ちゃんと同様、異性からかなりの人気で、彼に片想いしている子はたくさんいるのだと、噂で聞いた。百合ちゃんと彼が付き合いだして、傷付いた子がたくさんいることも。

美男美女でお似合いですね、ってか?相手が自分に釣り合うか考えて、脳内会議でオッケーが出たら付き合う。打算にまみれたそれに、どうしようもなく百合ちゃんの「女の子」の部分を感じてしまう。

 

わたしは百合ちゃんより10センチも背が高い。勉強だって、運動だって、全部百合ちゃんよりできるじゃない。体もずっと丈夫だ。なのになぜ、ヤマシタを選ぶ。

ディズニーの新作は、ヤマシタくんは興味ないからってわたしと観に行った。スイーツ食べ放題も、ヤマシタくんは甘いものが苦手だからってわたしと食べに行った。

なのに、わたしに何が足りない?ヤマシタのなにがわたしより優れている?

わたしと映画観に行った日も、スイーツ食べに行った日も、どうせそのあとヤマシタの部屋で、ヤマシタとしかできないことしてるんでしょう。カレシとしかできないこと。オトコとしか、できないこと。

汚い。お前らの関係は、汚い。汚い。きたない。

 

「美紀は美人なんだから、髪長いのだって似合うと思うなあ」

百合ちゃんの何気ない言葉が簡単にわたしを傷つける。成績を褒められたときも、やっぱり背が高いねって隣で笑った時も。百合ちゃんの隣にいるとき、わたしは「女の子」ではいられない。いさせてくれない。「女の子」でいられないのに、ヤマシタたちには決して敵わないのだ。

わたしは百合ちゃんの隣で、髪を伸ばすことはできないだろう。わたしだって、女の子のままで、百合ちゃんに好きになってもらいたかったよ。

紙一重/嫌い/ゆさん

歳を重ねて、以前よりもなにかを「嫌い」だと思うことが少なくなった。

 

高校生くらいまで、嫌いなものや嫌いな人がひどく多い子どもであったような気がする。そしてさらに悪いことには、思ったことはストレートに表に出すような我慢のできない子どもでもあったため、今思えば無駄に敵を作り、周囲と積極的に交わろうともしなかった。

 

子どもの頃から、集団行動が苦手で、小さな教室に押し込められ、クラスメイトと隣に座り、同じ授業を受け、班活動をすることが苦痛で仕方なかった。そんな空間で、他人の粗を探してそれを非難して壁を作ることは、幼いわたしにできる唯一の防衛手段だったのだろうか。

それに対し大学は本当に楽だ。自分で勝手に授業を組み、勝手にサボり、一日誰とも話さないなんてことザラだ。誰かと繋がりたければ繋がって、気が向かなければ離れる。それが許される今の生活は、ぬるま湯にぷかぷかと浮かんでいるようで心地よい。

 

なにかを嫌うことのエネルギーはすごい。それのどこが嫌いか、相容れないか、気持ち悪いか、不愉快か、持てる限りの言葉を尽くして語ろうとするときの熱量は、好きなものについて語るときのそれを圧倒的に上回っているような気がする。

いまのわたしは、昔のわたしに比べて、圧倒的に「好きなものにだけ」囲まれて生きている。なのに、なんだか空虚だ。本当にそれが「好き」なのかすらわからない。

嫌いなものに囲まれていた時は、「嫌いなもの」と「好きなもの」の対比があったから、好きなものがより輝いて見えた。例えば、大嫌いな数学の授業の後は、大好きな古文の授業が楽しかった。しんどくてしんどくてたまらないテストを終えた後、大好きなバンドのライブに行けるのは幸せだった。わたしの好きなものたちのことを、わたしはきっと間違いなく、好きなのだろうと思う。でも、好きなものに関して積極的に語ろうとすると、どうしても言葉に詰まる。それの何が好きなのか、わからない。説明できない。「嫌い」を語らないと「好き」が浮かび上がってこないなんて、なんて不器用なんだろう。

 

嫌いなものやひとを見ているときはイライラするしムカムカしてたまらない。でもかなり細かく見ている。凝視していると言ってもいい。そのとき、わたしはその嫌いなものを通して、好きなものを見ているのかもしれない。

嫌いから好きに転じるのはけっこう簡単なことだ。好きなものと違うからこそ、そこに興味が湧くのもよくあることだ。そう考えたら、好きなもののことしか見ていないわたしは、もしかしたら人生半分損しているのかもしれない。

意味がない/目/ゆさん

わたしは、電車で化粧している女の子を見て、とても潔いとすら思ってしまう。

 

多くの女性にとって、素顔と化粧後の顔の差を他人に見られてしまうことは、なるべく(絶対に、というひともいるだろう)避けたいことのはずだけど、公の場でそれを晒してしまう彼女たちにとっては、誰が見ていようが問題ないのだろう。と言うより、電車を降りて目的地に着いて、その完成した顔を見せたい相手以外に見られようが、関係ないのだ。もはや見られているとすら思っていないのだろう。人前で化粧をすることは恥ずかしいことだ、という当然のものとなっているようなマナーすら気にしないその態度、清々しいとさえ思える。まあ当人はそんなことすら考えていないかもしれないけれど。

 

「他人の目を気にする」とは言っても、「見られたい目」に見られることしか気にしていないような気がする。無数の目に晒されていようが、わたしがそのことを知らない、気付かない、そして何より興味がないのであれば、そんなものは無いのと同じだ。そう思うととても楽になる。少なくとも、わたしの場合は。「見られたい目」に見られて、さらに何かのレスポンスをもらえることを期待して、外見なり言動なりを取り繕って、はい、どうぞ見てください、と相手に提示しているのだから、「見られる」という受動的な立場ではなくて「見せる」能動的な立場なのではないかとドヤ顔すらしてしまう。提示なんて大げさな表現になってしまうけど。その精神性は、電車で化粧をする女性と同じかもしれない。「別にお前には見せていない」的な、妙な開き直りがある。

 

なんて自意識過剰なんだろうかと、自分でも思う。わたしが提示しようがしまいが、見ている人は見ているし見ていない人は見ていないのだ。それなら、せめて自分は能動的な立場にいる、などとドヤ顔している方が、幾分か生き易い。

そもそも、見るだの見られるだの、そんな曖昧なやり取りにこだわって精神を消耗させることが無駄なのかもしれない。わたしが見ている相手も、はたまた相手に見られているわたしも、結局は互いが認識した像でしかないのだから。

 

なんてまとまりもなくつらつらと綴った文章を通して、どんなわたしが「見られ」ているのかも、わたしには定かではない。

甘え/嵐/ゆさん

強い雨が窓を打ち、風がゴーゴーと音を立て木々を揺らす。そんな嵐の日は、なんとなくわくわくしてしまうものだ。家の外に出なければならない用事があるときにそんな天候だったら最悪だけど、休みの日はそれを理由に一日中引きこもって過ごすのも悪くない。昼間なのにあたりは薄暗く、時間の感覚が少し狂ってしまう感じも、非日常感が増していい。

 

わくわくはするけど、結局はすごく怖がっている。このまま家が壊れてしまうんじゃないか。川が氾濫して、一気に水が押し寄せて来るんじゃないか…近所中がパニックになって、みんなが避難所へ押し寄せる。わたしたち家族もなんとか逃げてきたものも、着の身着のまま、雨で濡れた洋服が冷えてどんどんわたしたちの体温を奪っていく……そんなところまで妄想する。一通りの悲劇を妄想したところで、ふと我に返り、ぬくぬくとブランケットにくるまり直し、温かいマグカップに口をつける。自分の置かれている現実がどんなに暖かく平和なものか実感し、安心する。

 

平穏な日常が壊れる妄想に浸ってしまうのは、何故だろう。嵐に限らず、地震や火事、交通事故など、わたしは何か、わたしなんかの力は到底及ばないような、大きなちからによってわたしの生活が壊されることを妄想してしまう癖がある。その妄想の中で、わたしや、わたしの大切なひとが酷い目に遭えば遭うほど、平和が崩壊すればするほど、わたしの感じる一種のエクスタシーのようなものが高まっていく。辛い妄想に埋没すればするほど、現実に返ってきたときの幸福感が増す。

 

不幸な場面を想像して、自分が実際に置かれている状況がいかに恵まれているかを実感して幸せを噛み締めるなんて、陳腐すぎると思う。不謹慎だなんだというつもりなんて到底ないけれど、そんな妄想しなくても、自分は恵まれているに決まっているのに。

 

結局のところ、自分の幸せなんて、誰かと比べないと、わたしにはわからないのかもしれない。こんなひどい状況に比べたらわたしは恵まれている、幸せだなあ、なんて言って満足しているだけなのだと思う。……まあ、幸せってなんだ?って話になったら困ってしまうけど。こんなくだらないことをつらつらだらだらと書いていられるっていうこの状況がすでに、しあわせなんじゃないかと思うけど。

 

本当にそんな嵐みたいな状況に見舞われて、それまでの平和がめちゃくちゃになってしまったあと、わたしは立ち直って、再び「自分は幸せだ」と思えるのだろうか。誰かと比べたりせず、自分で自分の「幸せ」を掴み取りに行くことなんてできるのだろうか。この幸せボケしたわたしが、そんな困難に立ち向かっていく自信なんてない。

 

……なんて、ここまで全部、くだらない甘えでしかないっていうことも、わかっている。いつかこんなに甘えていられなくなって、嵐の中に放り出されるんだ。そんなことわかってるけど、今はまだ、ぬくぬくと窓の外の嵐を眺めていたい。

きっかけとして/書評/ゆさん

著者の個人的な感情の吐露でしかなく、自己満足に過ぎない文章であった。円満な家庭に恵まれなかった著者が、ひたすらに「家族とはこんなにも無意味なものだ」という主張を述べているだけの、なんの客観性もない暴論と言われても仕方がないと思う。

著者自身が自分の家族と向き合ってこなかったのだから、家族を理解することが難しいのは当然であり、そのことに対して「内心忸怩たる思いがある」と語りながらも、「お互いのことを分かり合っている家族などいない」などと言うのは、幸せな家族に対するやっかみでしかないのではないかとすら思えた。

「家族の話しかしない人はつまらない」、まさにこの本自体がそうであると言える。ひたすらに著者自身と、その家族の話に終始しており、しかもそれがなんとなく自慢のように思える内容で、読んでいて気分が悪い。結局のところ、セレブには小市民の一般家庭の情景など想像もできず、理解もできないのではなかろうか。

 

この本を、現代社会における家族問題に痛烈に切り込んだ~~、などという、学問的見地から述べられた文章だと思って読むと上記のような憤りを抱き、結果として「駄本」としか言いようがない評価になってしまうが、あくまでエッセイとして読むならば、勉強になるまではいかずとも、自分の家族について考える契機くらいにはなるのではないかと思う。

著者はこの文章の中で家族に対する(温かい家庭に対する?)憎悪や嫌悪感をむき出しにしており、円満な家庭で育ったわたしからすると「家族ってそんなに小難しいもんか?」としか思えなかった。家族とはいえ、一個人同士でしかないのは言うまでもなく当然のことであり、どうしても相容れない部分や許せない部分はあるだろう。著者と同じような感情を持っている人もいるだろう。それでも切っても切れないのが家族であり、実際「家族」というものを嫌悪している著者も、結局ずっと家族に縛られていて、それこそが著者にとっての「家族の形」なのだろう。著者がそれを受け入れることができず、うまくいっている家族の在り方や価値観にケチをつけているだけのような気がして、なんだか少し可哀相になってしまった。

わたしは著者とはそもそも境遇が全く違うので共感も理解もできなかったが、家族のために自分を犠牲にしていて辛い、など、家族というものに嫌悪感や疑問を感じている人が「家族は素晴らしい」という考え方から解放されるための気休めにはなるかもしれない。

いま思えば/初恋/ゆさん

初恋なんて言うけれど、誰かを好きになるときは、いつだって初恋のつもりだ。毎回毎回、「今回が一番本気、一番好き、一生大好き」なんて思って、これまでの自分の恋愛はいかに稚拙なものだったか振り返って、ひとりで恥ずかしくなったりするものだ。

 

その稚拙な思い出の中でも、忘れられないひとが一人いる。

高校一年のクラスで出会ったMくんだ。顔はイマイチだったけど、優しくて面白くて、クラスの中心でみんなから愛されるいじられキャラだった。

Mくんが授業中に鳴らした携帯の着信音が、わたしの好きな曲だったことから仲良くなった。ふたりとも当時はボカロにハマっていて、毎日課題や予習をやりながらくだらないことをメールした。わたしは基本的に男の子があまり得意ではなく、ほぼ初めてできた男友達の存在が、自分の中でどんどん大きくなっていくのに時間はかからなかった。

 

Mくんには好きな人がいた。同じクラスのあやちゃん。かわいくて優しくて明るくて、みんなから大事にされているような子だった。その時点でわたしはもう諦めきっていたような気がする。あやちゃんにはできない、アニメや漫画の話ができるだけで十分だと思ってていた気がする。

 

Mくんのことを忘れられないのは、当時わたしが彼のことを「好き」だと認識していなかったからだと思う。高校を卒業して離れ離れになって、ようやく自分の気持ちに気付いた。「ああ、今思えば好きだったんだろうな~」なんて、いまさら思っても仕方ないことだけど。というか、「好き」だったことにしたいだけなのかもしれない。自分の喪な高校生活に少しでも彩りを加えてあげたいという、我ながら悲しい悪あがきなのかもしれない。

 

この間Mくんに久しぶりに会って、初めて一緒にお酒を飲んだ。わたしが好きだったころと全然変わっていなかったけど、いまならもっとうまくやれる、と思った。あやちゃんはとにかく顔がかわいくて、今のわたしならお得意の「顔がかわいい女批判」「顔がかわいい女を好きな男批判」ができるけど、当時のわたしにとっては、かわいい女の子なんて違う世界の生き物である、という発想しかなかったため、そもそも同じ土俵に立とうとしていなかった。自分が女として生きていくという自覚なんてなかった。でも、今ならきっと、ひとりの女としてMくんに向き合える。もう高校生じゃないし。もう成人だってしてしまっているし。そんなことに気付かせてくれたのも、Mくんなのだろうなと思う。

 

いまわたしには好きな人がいるけど、まさか結婚するわけないし、一生好きでいるわけないと思っている。きっと今日こんなに嬉しかったり、ラインの返事が来なくてもやもやしたり、そんなことも思い出になっちゃうんだろうな。恋愛に没入なんてできない。常に自分をメタ的に見ながら行動している気がする。でもわたしにできることはせいぜい、将来の自分の酒の肴になるような、今思えばあれが初恋だったと言えるような、そんな恋愛をしていくことだけなのだ。

自意識過剰/はな/ゆさん

 

自分の鼻が嫌いで嫌いで仕方がない。鼻先は真ん丸に膨らんでいて、小鼻のところはぶっくりと横に広がっている。高さなんてもちろんない。お父さんに似たこの鼻が、嫌いで嫌いで仕方がないのだ。

 

わたしはこの鼻が嫌いだけれど、マスクをして過ごすなんてダサいこと、絶対にしたくない。自分がブスだからと言って、ブスを隠すためにずーっとマスクをして過ごしている子もいるけれど、恥ずかしくないのかなと思う。だって、自分がブスであることを認めているのを周囲に公言しているようなものじゃない。だからわたしは、この鼻を隠したりなんてしない。

 

とは言っても、辛いことがないわけがない。大学に入って、新しい友達もたくさんできたけれど、みんな初めて会ったときはわたしの鼻をまず見る。うわ、その鼻、なんてもちろん言わないけど、目線が鼻に行っている。みんな正直者だ。

キャンパス内を移動するときも、講義室に入るときも、街を歩くときも、すれ違う人はみんなわたしの鼻を見ている。ひどいときは友達に「ねえあの鼻……」なんてひそひそ話をしたりもする。全部聞こえているけど、わたしは涼しい顔をして、聞こえないふりをする。

居酒屋でバイトも始めた。注文を取るときも、食べ物を運ぶ時も、みんなまずわたしの鼻を見ている。うるさい大学生たちのバカ騒ぎも一瞬止んで、みんなわたしの鼻を見る。鼻の高い綺麗な女の子は、優越感をにじませながら自分の鼻をそっと触ったりもする。でも一番ひどいのは酔っぱらったおっさんたちだ。「うわっ!その鼻どうした?」なんて、あいつら、平気で言うんだ。「姉ちゃんこれで整形しな!」とか言って、大笑いしながら1000円渡してきたジジイもいた。こんなの足しにもならねえんだよ、死ね。そう思いながらもありがたく頂いて、帰りにそのお金でアイスを買った。

 

整形、か。わたしは最近、整形について考え始めている。今はもちろんお金が全然足りないけど、このままずっとバイトを続けて、なんなら新しく掛け持ちも始めて、節約して…そうして貯金していけば、就活が終わって、卒業と入社の間には整形できるんじゃないだろうか。整形手術をしたあとにはダウンタイムというものが必要だという。手術後の腫れが引いて、ようやく自然な美しい状態へとなれるのだそうだ。鼻の整形のダウンタイムは2週間から長くてもせいぜい1か月程度。なんだ、そんなものか。その程度の時間があれば、わたしをこれまで苦しめてきたこの鼻から解放されるのか。どんどん整形へのハードルが下がってゆく。

 

夢を見た。整形手術が成功して、美しい鼻を手に入れる夢だ。わたしは美しい鼻をみんなにみせびらかすように、胸を張って街を歩く。最高の気分だ。そのはずなのに、どこかからひそひそと話す声が聞こえてくる。「ねえ、あの子の鼻、あれさ、整形したんだ」「ほんとだ。あんなに気にしてない風だったのに、やっぱめちゃめちゃ気にしてたんじゃん」「ね。やっぱすごいコンプレックスだったんだね。まああの鼻じゃあね……」なんで?もうあんな鼻じゃない。今のわたしはもうこんなに綺麗な鼻を持っているのに。なんでまたこんなこと言われなきゃいけないの?いやだ、見ないで、知らないで、わたしのコンプレックスに気付かないで……わたしは整形外科に駆け込み、元の鼻に戻してくれと懇願する。困惑する医師。もうこんな鼻は嫌だと叫ぶ自分の声で目が覚めた。

 

自分の醜い鼻を触って、元のままであることを確認して安心した。わたしの体の一部でしかないのに、なぜわたしの思い通りにはなってくれないのか。いや、誰かに見られている時点で、わたしだけのものではないのかもしれない。わたしは結局、整形することはできないのかもしれないな、なんてぼんやりと考えながら、今日も大学へ行く支度を始める。

 

 

参考:芥川龍之介『鼻』

交差/青春/ゆさん

 

僕の青春は、君そのものだったけれど、君に出会った瞬間に僕の青春は終わったに等しい。絶対に叶わない思いを抱き続ける青春なんて、そんなの終わっているに等しい。いや、その思いが果てることもないのだから、いわばゾンビのようなものだ。

 

出会いは語るのも恥ずかしい程にありきたりだ。高校一年生のクラスで初めて出会った君は、その場の光をすべて背から浴びているかのような輝きを放っていた。それほどに君は美しく、君に目を奪われていたのは僕だけじゃない。君は入学してすぐに学年の、いや全校のマドンナになった。それに対し僕は、これまたありきたりな、暗い、汚い、気持ち悪いが三拍子揃った、模範的カースト最下層の住人だった。キモいだのなんだのという陰口はそれまでの人生でとうに聞き飽き、靴を隠されることや机に落書きをされることなど、とりあえず一通りは経験してきた。これからの三年間はせめて何を言われても、されても傷付かないような精神力を身に付けよう、と悲しい決心をしていた。

しかし君は、そんな僕にも笑顔であいさつをし、配布物を手渡し、落とした消しゴムを拾ってくれるのだ。そんな当たり前のことですら僕にとっては新鮮で、いつも嬉しいやら恥ずかしいやらで泣きそうになるのを必死にこらえていた。間違いなくあの教室で、君だけが僕にとっての絶対だった。圧倒的な美しさが周囲に与える影響力はとても大きなものだ。君が僕なんかにも分け隔てなく接してくれていたから、そのクラスで僕がいじめられることは無かった。

 

君が斜め前の席だったときのことを思い出す。振り向くな。黒板を見る横顔の、小さな耳たぶを、長いまつげを、すっと通った鼻筋を、赤い唇を、ただ見つめている。振り向くな。そう念じながら盗み見ていたのに、視線を感じたのか君が振り返って僕に微笑み、すぐに黒板に向き直る。その目に映りたい、映りたくない。ぐちゃぐちゃの感情でいっぱいになった僕の心など君は一生知ることは無い。

 

 

 

懐かしいことを思い出してしまった。我に返り必死でペンライトを振り、推しの名を叫ぶ。きっと今日の髪型が、あの日の君のようなポニーテールだからなのだろう。君の娘は、君に瓜二つだ。

 

君の娘を見た瞬間、すぐにわかった。むしろ、君本人かと思った。それほどまでに、君の娘は君に似ている。

高校三年の冬、君はモデルにスカウトされたと言って喜んでいた。しかし、親の許しを得られず、そのまま君は大学進学することを決めた。君は自分の美しさをひけらかすような女ではなかったけれど、それに対する確かな自信はあったのだろう。華々しい世界を夢見ながらも叶えることができなかった、という思いを娘に託しているのだろうか。

君の娘のステージを見て、君の娘の名前を呼んでいるが、僕が見ているのは間違いなく君の姿だ。きっと君は僕のことなんて覚えてはいないと思うが、高校を卒業し、十数年経った後もなお自分に一方的な憧れを抱いている男が、アイドルをやっている娘と高校時代の自分の姿を重ねていると知ったら、きっと気持ち悪いと感じるだろう。それを想像すると、どうしようもない興奮を覚えてしまう。

君もきっと、娘と自らを重ねているのだろう。自分が叶えられなかった青春の姿を、娘に見ているのだろう。その姿を、僕が見る。君の青春と僕の青春が、やっと交差する。僕の青春は君によって終わらせられたけれど、それを生かし続けるのもまた、君なのだ。