「オレの文章」カテゴリーアーカイブ

誰!?/オレの文章/リョウコ

私は、常に二つの自分に両手を引っ張られている。
 一人は、自分に酔い過ぎて、等身大の現実が何も見えていない、「陽」の自分。もう一人は、自分に自信が無く、加害妄想が激しい「隠」の自分。
 人と対話する際、ほとんどどちらかのモードの私だ。
 自分を少しでも大きい、よい物に見せようと言葉を繰る「陽」と、相手が不快に思わないように、場の雰囲気を乱さないようにと必死で言葉を探す「隠」の私。
 もちろんそれは内面の話であって、このシャバで20年近く生きる私は外面というものを身に着けており、外への対応は分かりやすく顔に出ることは無い。筈である。
 しかし、文章を書くのはこの二人とは全く違うワタシだ。
 「陽と隠」が出てくるのは自分ではない誰かが傍にいるときであり、この二人は私のセルフイメージを崩さないよう一生懸命だ。
 故に、現実の、ここにある私の身体を離れて、全く別の次元で冷静に物事を考えることができない。
 テーマに沿った文章のネタを探し、自分の中での主題を固め、構成を練り、適当な言葉を用いて文を書き出す。
 このノーマルな工程が、陽と隠の私にはその取っ掛かりすら全く想像できない位に難しく思われる。
 では、文章を書くワタシとは一体何なのか。
 実は、私にもそれが良く分からない。
 一つ一つの単語が組み合わさり、画面に書き出されているときの記憶がほとんど無いのだ。
 ネタを考え、調べ、主題を決めプロットを書き出す辺りまでは、書き終わった後もちゃんと覚えている。
 思いついたプロットを眺め、ああでもないこうでもないと書き足したり線を引っ張ったり、云々唸りながら新しい紙に別のものを書き出してみたり……。
 0から0.1を生み出す最もしんどい作業は生み出す前も後も、しっかり覚えている。
 しかし、文章の場合は違うのだ。
 難産の末生まれたプロットを脇に置き、パソコンの前に座りワードを起動させる。
 打つ前にプロットをじっと見つめ、まずはスペースキーを叩く。
 そして気づいたら一行目が生まれ、二行目が生まれ、一段落分の文章が書きあがっている。
 何かを考えながらキーボードを弾いた訳ではない。あ、と思った時にはそこに1500字の文字の塊が出来上がっている。
 スタジオ生でない友人から、文章を書くとき何を考えているのか、とよく聞かれる。
 参考になることは何も言えないよ、と答える。
私は、何も考えていない、というか、覚えていないのだから。答えようがないのだ。
 文章を書くワタシが、私の何処の部分なのか、一体誰なのか。
 文章を書き続けていけば、分かるのだろうか。

「夜明けのビート」~意味はなし~/俺の文章/縦槍ごめんね

今回のテーマ「俺の文章」を書く上で、まず欠かせなくなるのは間違えな「俺の脳味噌」だろう。これがなければ、僕は文章を書くことはおろか、ものを考えることもできないだろう。そして清田スタジオで、与えられたテーマを「俺の脳味噌」を使って、必死に考える。そしてつぎに「俺の文章」を作るうえで、必要になってくるのは、「俺の腕」と「俺のパソコン」である。僕は「俺の脳味噌」で考えたことを、アウトプットする手段として、「俺の腕」と「俺のパソコン」を使うのだ。(ちなみに、「俺のパソコン」は「俺のスマートフォン」でも変わりがきくぞ!) さてこうして、段々「俺の文章」が形を成してくる。ただし、まだこれだけでは「俺の文章」は完成ではない。最終段階として「俺の目」による「俺の手直し」が入るからだ。これをして、やっと「俺の文章」はほとんど完成、そして今度はそれを先ほども使用した、「俺の腕」によって、「スタジオのブログ」にアップロードする。そして後日「俺の文章」は、「人々のダメ出し」に合い、「スタジオの投票」によって「皆の意見」としてまとめ上げられる。そして「次の授業」にいき、「帰りの支度」をし、「家の路」につく。そして大体、「まいばすの弁当」を買って、「俺の家」に入り、「レンジのチン」を行う。そして「次のテーマ」のことを考えながら、また「次の文章」を「俺の脳味噌」を使って、考えだすのである。こうやって色々書いたが、「俺の文章は」こうやって「普通の日常」から生まれる。まあこれが「普通の日常」は「俺の感覚」で話しているので、「皆の生活」がどうかは「俺の想像」の範疇外である。さてそろそろ「ネタの限界」なので、切り上げて「皆の文章」を読むことにする。以上「深夜のテンション」でした。

自分かわいい気持ち悪い/オレの文章/やきさば

 オレの文章というお題を出されたが、正直そういわれて胸を張ってかけることなど何もない。オレの文章というものがわからないのだ。

自分の文章の特徴はよくわからないし、自分の文章の中に自分をみせることもできていない。もともと、小粋な文章、人に自信をもって読ませる文章が書きたいと思って入った清田スタジオだったが、まだ自分はそれには程遠い場所にいる。

 だが、少なくとも清田スタジオに入ったおかげで、普通の人よりも自分の文章を他人に晒す機会がやたら増えたのはありがたいことだ。普通なら自分の文章を他人に見せることに対して結構な抵抗があるだろう。わたしだって、清田スタジオに入ったばかりの第一回目の授業はとても緊張したのを覚えている。そこから半年が過ぎて、自分の文章を他人に晒すという感覚には結構慣れてきた(だれてきてしまったのかもしれないが)
 
自分が清田スタジオで書いてきた文章を読み返してみた。う、気持ち悪い。この類の気持ち悪さどこかで感じたことがある。
 
 Twitterだ。しかもあいつの。
 自分の呟き、そのとき直感的に思ったことをツイートするのが基本的な使い方だが、それを投稿した時点で、自分の文章をフォロワーに晒すというもの。つまりオレの文章を他人に見せつける。必ずしもフォロワー全員がそのツイートを読むとは限らないが、最大でも140字ほどしかない文章、多くの人がさらっと目を通せることができるのは、自分のケースを顧みても自明である。

 わたしはTwitterを始めて4年くらいになるのだが、最近なんだかTwitterが気持ち悪いと感じるようになってきた。
 
 自分がフォローしている人なんて、仲のいい友人やサークル仲間からどうでもいい人までピンキリなので、見たいツイートだけ見て、それ以外は流してしまえばいいのだが、というか今まではそうしてTwitterを開いていたのだが、それもできなくなってきた。

 ある男のせいである。
 彼はサークルの同期で、それゆえにツイートを優先的に目にしてしまうのだが、まあ彼のツイートは不快なのである。

内容がうざいとか、ツイートが読みづらいとかそういうのではない。ツイートの内容はいたってシンプルで「まだ火曜なのに死にそう」とか「バイト終わって疲れて寝不足で課題もやってないのにガチでチャーハン作った馬鹿はこちら」だとか、まあよくあるものである。
でも、わたしにはこれが究極不快なのだ。
元々彼は自分大好き人間で、それを表には出さないものの言動からちらちらこぼして生きているような奴である。本人はきっと無自覚だろうが、みえているこっちからすると不快で仕方ない。それにプライドが高くてせこい。テスト前になるといつも体調を崩してサークルを休むような奴だ。他の人にはそうは感ずかれていないだろうが、Twitterになるとそれが全面的に出る。わたしはそれを1人で感じ取ってしまって本当に気持ち悪い。
さっき挙げたツイートだって「自分はこんなに大変なんだよ、辛いんだよ」アピールでしかないのだ。彼は自分がかわいくしょうがないのだ。それも無自覚に。

突き詰めていくと誰しもがそうかもしれないが、彼にはそれが如実に表れる。
本当はわたしだって自分がかわいくてしょうがない。だから彼のそういうところに一目散に気づいたし、それと同時に彼と同じようになるのが嫌でどんどんツイートできなくなっていく。けれども彼のツイートをTLで無意識的に探してしまうのだ。

最近、使っていなかった知り合いを誰もフォローしていないもう1つのアカウントでツイートすることが多くなった。

ああTwitter気持ち悪い。オレの文章気持ち悪い。

かぼちゃ/オレの文章/みくじ

急にかぼちゃが食べたくなった。鶏ひき肉と玉ねぎを透明になるまで炒めて、蒸かしたかぼちゃを出汁と醤油と砂糖で味をつけて、入れた水がとろとろになるまで煮て。米に乗せるしかない。となると味噌汁が飲みたい。わかめを入れよう。つるんとしたわかめには豆腐だ。豆腐は絹ごしがいい。細かく立方体になった絹ごし豆腐は何故にあんなにも愛くるしいのか。
などと考えながらバイトから帰ってきた訳だが財布も冷蔵庫も空っぽだった。文字に起こすとより一層かぼちゃが食べたくなる。しかし今からATMに駆け込んでもスーパーは閉まっている。仕方が無いのでかぼちゃと味噌汁は諦めて大人しく「俺の文章」について考えてみることにする。

私の描く文章は思考回路垂れ流しだだ。それは友人とのSNSでのやりとりはもちろん、レポートなどでも一旦はこうやって文章を作る。後で見返して修正することもあるがその時のテンションで書ききったものの方が自分の中でしっくり来てしまう。自己満足というかアッパー系コミュ障というか。でも、その方が考えてる過程がそのまま伝わるし、私は読者を説得するより共感されたいのでこれでいいと思っている。
特に液晶画面で文字を見る時は、紙に刷られた文字を見るより体制や場所を選ばないのだから、内容も身構えず読める方が良い。液晶画面にしか存在しない文章は鮮度が大事である。というのはたった今生まれた自論なのだが、勢いで書いた文章は勢いよく読んで欲しい。感覚で書いている文章だから直感的に伝わって欲しい。
あと、私の意見が正しいと押し付けることはしたくない。そもそも自分でも自分が正しいとは思わない。でもこの気持ちはちょっとでもわかって欲しい。という思いの元に、軽く受け止めて貰えるように、でも伝わるように、日常的な言葉を使いたいのだ。
これは一見すると嗜好の問題かもしれないが、ともすると信仰の問題でもある。正しいものが存在するか否か。私は極論を言えば正しさなんてないし、都合の良し悪しや気持ちの良し悪しくらいしかないと思っている。だから何事を書くにも正しさを掲げられずに、腑抜けたというか間の抜けた感じになっているのかもしれない。
広く公に発信される権威からの意見なら多くの人を傷つけないよう最新の注意を払うべきだが、これは一学生のブログ記事だ。内容にエッジがかかることもあるし独断と偏見込み込みである。それをアドととるかディスアドバンテージととるかは置いていおいて、そういうものだ。だからそれに適した軽さを出したい。

説得より共感って、意見はないのに分かって欲しいって何だそれ。じゃあ何で文章を書いているのか。反転して何で文章を読むのか考えたら分かったのだが、そんなの寂しいからに決まっている。人間なんだからちょっとしたことで誰かと分かり合いたい。友達とLINEするのも絵画を見るのも歌うのも本を読むのもそうだ。
人の作ったものを見ている内は人と関わっているのだから寂しくない。誰かに読んでもらうものを書く内は誰かのことを考えるのだから寂しくない。友達を作るのは得意ではないしむしろド下手くそな私だが、書き手と読み手は近くて対等な関係でありたい。いや、一方的に書いている時点でそれは破綻するかもしれないがそんな気持ちで読んで欲しい。

ということで私の文章は読み手にがんがん突っ込んでもらえるくらいのやさしい言葉で軽くぐだぐだやっていこうと思います。

スプリング・ストーム フォー・センテンス/オレの文章/エーオー

 リノリウムの床がぬめりと光る。苔むした洞窟みたいだと朔は思う。昇降口は暗い。二年生の今でもちょっと不気味だ。
 見つけた。階段の横にごみ箱はある。どきどきしながら近づいて、そっとポケットから紙を出した。
「なにやってるんだ!」
 驚いて朔は飛び上がった。低く皺がれた声が、がらんとした校舎に響く。
 用務員のトバリさんだ。背でオーブンの夕陽を跳ね返しそびえたっている。彼は朔が落としたプリントを広げた。『親子参加による草刈りのお知らせ』。
「ちゃんと家の人に渡しなさい」
 学校からの手紙を捨てるのが男子の間で流行っていた。教室のごみ箱から発見され、先生がひどく怒ったので、やめる生徒もいれば、見つからないように捨てる者もいた。
 でも。でも、朔が捨てようとしたのは今日が初めてだった。それにどうせ草刈りには行かないし、捨ててもいいじゃないか。なんで自分だけ怒られなきゃいけないんだ。そもそもなんでそれが悪いんだ。眼がじんわりとする。
 そんなことは、言えない。
 唇の内側を噛みながら、朔はランドセルに手紙を入れた。「さようなら」には返事をせずに、教科書と筆箱にごとごと追い立てられながら走った。

 青いジャンパーの懐に右手を隠し、きょろきょろと辺りを見回して進む。誰にも見つかりませんように。冷たい風が、ヒリヒリと頬を焦がした。もうすこしだ。下を向きながら校門へ駆ける。
 ガチン!
 その音に、咄嗟に顔を上げた朔は後悔した。トバリさんとばっちり目が合った。大きな枝切りバサミを置いて、彼がこちらに向かってくる。
「手に持ってるもの、出しなさい」
 逃げようとする気持ちはぺしゃんこに潰れてしまった。それでも抵抗したくて、ジャンパーの懐に手を入れたままうつむいていた。土色の大きな手が手首をつかむ。おしまいだ。朔はのろのろと手の中をみせた。
 ぱあくりと、ふくらんだカマキリの腹は割れていた。ひしゃげた胴体のアンゼリカに、土で汚れたしろいあわがまとわりつく。
 トバリさんは少し固まった。声を、重い釣瓶をひっぱり上げるのに身体ががたがた震えた。
「ふ、ふんじゃって、うめなきゃって、おもって、」
 あっ、と思ったときには遅かったのだ。
よそ見をしていて足はすでに前に出ていた。卵の重い母カマキリは、いつもより動きが鈍いのだ。スローモーションで降りていく運動靴と、その底が、ちいさくてひたむきなものの、無数の悲鳴を壊した。
 硬くかさついた掌が離れ、乱暴に朔の髪をぐちゃぐちゃにした。
「黙ってないで、そうやってちゃんと言いなさい」
 ぼろっと、目から熱いみずがこぼれた。

 その後、スコップで木の根元を掘ってカマキリを埋めた。横でトバリさんは枝の切り口に薬を塗っている。11月のがらすびんの空気の中で見た彼は、前より恐くない。
もらったキャラメルが、まだ少し嗚咽の余韻でひくつく喉を甘さで焦がした。

「先生だれがいい?」
「うーん、こぐれ先生」
「だよね」
 隣の列で女子がこしょこしょと言う。今日から朔たちは三年生だ。新しい担任の発表が終わり、いなくなる先生の名前に移る。
あの先生いなくなるんだ。恐いからよかった。ね。淡いピンクのスーツが壇上へ上がっていくのをぼーっと眺めていた。
だから、次に起こることなんて考えていなかった。
『――えー、そして残念ながら、用務員の戸張さんが学校を去りました』
 えっ?
きいいーんと、マイクが歪んだ音をたてた。目と耳と手と体が瞬時に鋭利になる。
『今日の式には出られないとのことで、代わりに手紙を預かっています――』
 腹から下の感覚が、さっと消えたようだった。

 朔は歩いていた。校門までの道。日は隠れて、春なのに少し寒い。つま先を見て、歩く。青い靴の先を追いかけるみたいに。
 そのとき、空で乳白色の真綿がやぶれた。
 太陽を赤で描く人はうそつきだ。だって光は、あんなに白い。とろみのあるステンレスがあの桜に降り注ぐ。あの、蟷螂の孵った桜が、光にまばゆく輝きはじめる。
 強く風が吹いた。グレースケールの曇りの日、花弁は吹雪のように刺さる。ぶわっ。ミキサーにかけられて、地面に落ちた鱗もまわる。きれいと言うよりもっと。火おこしで舞い上がる新聞紙の残骸のように、仄かな頬色は消し飛ぶ。
 
『二度と、かっちゃんに会えないのね』

 遠い遠い親戚のお葬式の銀の盆の隅っこでひそひそ話す、骨の破片。
 その人に会ったこともなくて、ドラマでよく聞く台詞だなあとそれだけ思った。
 ああ。朔は初めて分かった。
二度と会えないとは、ほんとうはこういうことなんだ。
あの金色の陽の中の、皺の刻まれた横顔と、キャラメルの火傷がよみがえる。それが胸を焼いてどうしようもないから、そこで嵐が起こって、朔は。――職員室まで走った。

『戸張 匠様』
 頬を赤くして、先生に住所を尋ねる朔の姿が浮かぶ。
 緊張でこわばった宛名の封筒は、中に詰まった花びらで少し膨らんでいた。

本心に触って/オレの文章/ふとん

最近、自分がまじでおかしい。
おかしいっていうのを、紛れもなく良い意味で言ってるから、さらにおかしい。
自分では受け入れられないくらいに、自分が良すぎるのだ。

ちなみに、私はナルシストです、というつまらない話ではない。
この数か月で、私は圧倒的爆発的成長を遂げた。
私はもう完全に以前の私ではないのだ。

どういうことかというと、なんと、宙に浮くことが出来るようになってしまった。
これはもちろん比喩なので、私が今書いているのはよくありそうなファンタジー小説ではないことを分かっていただきたい。
宙に浮くのは身体ではなく視点である。

まあここまで大げさに言ってきたが、簡単に言うと物事を見る視点が変わったというだけである。が、しかし。
これが意外と今まで出来そうで出来なかったすごいことで、自分の体の中に今まで入っていたものを全部くりぬかれた後になにかきれいなものを詰め込まれたかのように、体が軽い。浮きそう。

ほんのつい最近まで、この前の冬くらいまで、私は、他人にどう思われるかを一番に気にし、依存し振り回される日々を送るまじでしょうもない人間だった。
昨学期の自分の投稿を振り返るとそれがそのまんま出ていて面白い。

自己中な元彼に依存していて、浮気されて怒られて都合よく扱われても、お願いだから別れないで、って本気で思っていた。ドラマでよく見る、DV彼氏におとなしく従う女みたいなあれだ。まあ暴力はされてないけども。

やっとそいつのクソさに気付いて、別れたと思いきや、今度は家でひとりでいるのが寂しくてしょうがなくて、サークルの先輩たちと週に3回くらいは朝まで飲んでいた。
自分から誘う勇気は無いから誰かから誘いの電話が来るのを常に待っていて、誰からも誘われない日は自分がいらない存在のような気がして落ち込みまくった。誘われたらすぐ化粧して出かけた。

そんな生活をしているんだから当然1限には行けないし、2限にも行けないし、3限すら間に合わないみたいなくそ生活を送ることになる。そもそも授業がだるいから行きたくなかった。

今思えば去年の夏ごろの清田スタジオの面接でも、うまく思ってることが書けないからうまくなりたいんですー、みたいな普通のしょうもないことを言った。つまんない答え。
あなたは何に興味があるの?って言われて、なにも思いつかなかったから、入ってた生協委員会の活動を言ったりした。つまんない奴。
お前の本音はどこだよ。生協の仕事なんて全然楽しくないくせに。

 

そんな私が、気づいたら全く違う人間になってしまっていた。変わってしまった。
今日飲もう!とかLINEが来ても、眠いからいいや、とか着替えるのめんどいからいいや、とか平気で言うようになった。実際何回か断ったくらいで嫌われたりすることはないし、嫌われたとしても誘われなくなるだけでわたしの生活に支障はない。

 

 

奨学金を借りてまで大学に通っているのは自分で、別に通わされてるわけじゃないから授業がつまんないなら行かなくていい。
行きたくないならやめればいい。

 

でも、今は新しいことを知るのが楽しくてしょうがないからさぼらない。
人文の授業は面白いものばっかりだし、全然興味なかった法律の般教だってちゃんと聞いてみたらへえー、と思うこともあったりする。

 
ずっとやってみたかったテレビ番組の制作会社のアルバイトを自分で探して応募した。ADと全く同じ内容の仕事をやらせてもらえて、ディレクターさんと2人で夜中に取材して回った。
機転を利かせた行動ができずに、もっと頭を使え、とかたくさん厳しいことを言われまくったけどくじけることはなかった。
怒られたらそりゃ一瞬悲しくはなるけど、落ち込む時間が無駄なのを知ってるから引きずらない。新しい経験をさせてもらえているのが嬉しい。

 
アップデート済の冷めた私を好きになってくれる人もいたりする。自分がちゃんとしてるとクソみたいな男は寄ってこないものだ。寄ってきても相手にしないから振り回されることはない。

前みたいに周りが見えなくなるくらいの熱い恋じゃないけど、そういう恋は幼稚園のころから繰り返してきたしもう十分だと思う。
でも相手は自分のために冷静さを失ってたりして、落ち着いてそれをありがたく受け取ってるのもこれはこれで楽しい。

 

 
なんでこんなふうになったのだろうか。
きっかけがはっきりないから怖いし自分がおかしいんじゃないのかと思うことがある。
仮におかしくても今の方がいいからこれでいいんだけど。

 

スタジオで哲学を読んだから?
と思ったけど正直アリストテレスが何言ってたかなんて理解もしてないしなにも覚えてないし、そんなすぐ分かるような学問じゃなさそうだ。

 
スタジオで文章を書くようになったから?
ありえる。
別に文章書くのは好きではない。本をたくさん読んできたわけでもないから語彙力も表現力もないし、わかりやすく書こうとか思わない。
将来ライターとか小説家になる気もないし。
正直にいうと何回かさぼって出さなかった。

 

でも課題で文章を書けと言われていると、なにを書こうか常に考えることになる。実際に書くのは面倒だからたまにしかしないけど、何を書くか考えてるだけなのは楽しい。
そうやって暮らしていると、いつのまにか「あ、自分はいまこう考えたな」って自分を外側から見るようになっていた。

まあこれだけがきっかけじゃないかもしれないけど、このスタジオには感謝しておきます。

私は自分のためだけに文章を書きます。
他人に読んでもらえるのは嬉しい。
もしそれにまぐれで良い評価がもらえたらものすごく嬉しい。
その程度のものです。

はじめまして/オレの文章/なご

おはこんばんちはなら。

はじめましての人ははじめまして。何かこいつ見たことあんぞって人はどーも。

なごです。

まとまった文章ブログに書くなんて久々過ぎて何書いていいやらって感じですよね。テーマ「オレの文章」だし。うん。

そもそも文章って何なんでしょうね。とくに書き起こされたやつっていうのは。

自分の口から発せられた言葉ってすぐ消えちゃうわけじゃないですか、でもこういった形で書き起こされた言葉はまとまって、文章になって残るわけで。半永久的に残り続けるわけで。ハイ。

ただなんか違うって気がするのよね。書かれたものを後から見ると確かに自分が書いたはずなのに自分じゃないみたい。もう一人のボク、というか一人とは言わずに何人ものボクが文章ごとにいるみたいな感じがするのですよ。

特に大学入ってからのレポートとか本当に自分が書いてるのかって思っちゃうくらい、自分とはかけ離れた位置に存在している感じがずっとしていて、まぁめったに出したレポート読み返すことなんてないんだけども、書いてる途中からふわふわした浮遊感に包まれて、なんだか筆がうわべだけを滑っているような、確固たる地盤に足をつけていないような感覚が生まれてきて、みたいな。

結局書くことで、それは何か自分が思ってることとどうしても、微妙な、もう感覚でしかわからないような違いが出てきちゃうんだろうなって思うわけで。「思う→書く」のプロセスでおかしくなるんだろうね。

その点すぐ消えちゃう、口から出た、音、言葉、文章の方がよっぽど自分らしい、「オレ」らしい気がする。

これも結局感覚の話になるんだろうけど、視覚よりも聴覚がよっぽど自分て言うものをリアルに、直接的に感じられるっていう。だから、自分でしゃべって自分の音を聴くことで、より自分らしさってやつを感じることができるだろうなーって。

だから、今回のテーマ「オレの文章」なんて言われたらこんな口調で書いちゃうのよね。

中学高校でミクシィの日記とかアメブロとかの文章思い出してもこんな感じで書いてた記憶あるし、オレらしさ出そうとすると、まぁ、話口調に落ちついちゃうんだろうね。うん。

これが記念すべき初投稿になるわけですが、思うにこんな感じの文章このブログ少なかった気がするから、投稿後即猛省の未来が見えてるけどそれはそれでってことで。

ではでは、

 

 

この「ではでは、」って締め方いつぶりだろ……

苺マシュマロを殴りたい/オレの文章/θn

 たまにTwitterとかにいるじゃないですか、「私に包丁とか持たせないでくださいね!(やたら立体的なハートの絵文字)下手したら刺しちゃうかもしれないんで(黄色い絵文字、笑顔×10)」とか「破壊衝動みたいなのがあって、ついうっかり人殺しちゃったらどうしよう(やたら文字数稼ぎそうな泣き顔の顔文字)」みたいなこと言ってる女。そういう奴に限ってツイート数多い傾向にあるもんで、いつ見てもいるもんだからこう、なんか、なんか歩きスマホして電柱に頭ぶつければいいのになぁって思いながら淡々とミュートしていくんですけど。ああいう中学高校にありがちな女の子って何なんですかね。どういう感情でそういうわけのわからん短文を世の中に発信してるんでしょうかね。ああいうツイートって食前にみると食欲を根こそぎ奪われるような、そんなグロテスクさがありませんか?あ、もちろんここでいうグロテスクってスプラッター的なのじゃなくて合成甘味料100%ふわふわ苺マシュマロみたいな、そんな方向性のグロさです。……いや、自分でも何言ってるかよくわかってないんですけど。なんなら苺マシュマロとか率先して食べるぐらいには好きなんですけど。とにかく思春期女子の何人かに一人が陥る「社会に適合できない自分特別で可哀想」って考えが凡庸できしょいって話です。
 まあここまで私がそういう女の子たちに嫌悪感を抱くのは「危うい私が大好き」っていう時期が自分にもあったからなんですね。多分本当に彼女たちを客観的に見ることができている人は彼女たちから冷静に距離を置くことができると思うので。こういうときの同族嫌悪ほど強い憎悪ってないかもしれないですね!そりゃあもう葬りたい過去です。
 ところが文章の話になるとちょっと状況が変わってくるんですよね。なんというか悲劇のヒロイン症候群まっしぐらで白馬の王子様を信じて疑わなかったころの発想力?想像力?みたいなものは失いたくないもんだなーなんて考えてる私がいるんです。そういう自尊心を拗らせてる頃って自分が特別だってことを証明したいもんだから、目は自分の方にしか向いてないのに他人に自分を表現しようと必死になるのかな、と。だから独りよがりで不快な文章を、それでもある一定の信念みたいなものに基づいて作り続けることができるんでしょう。それがいいか悪いかは置いておいたとして、完全になかったことにしてしまうのはもったいないなあと思ってしまうのです。こういう感情も結局自己防衛からなるものかもしれませんが。
 ってなわけでそういう中高生女子特有の良く言えば瑞々しくって純粋な、言葉をちょっと選べば若くて青い、言葉を選ばなければ世間知らずで無知な、そういう世界を全く特別じゃないように表現してやりたいんです。自分にもそういう忌むべき気質と自覚と、あるいは今でもそれに該当する頭の悪さみたいなものを知らず知らずに発散している可能性がある人間にしかできないことをしたいんですよね。社会的には全く必要のないことかもしれないけれど、それでも。なんだか、昔自分も誰かにとどめを刺して欲しいってそう思っていたような気がして。
 気持ちの悪い彼女たちにお前の気持ち悪さなんて特別じゃねーんだよって、それはお前が女子高生だからなんだよってそう言ってあげられる文章、それが私の文章であるべきだと考えています。

裏切る/オレの文章/仄塵

初めてこのブログに投稿します。仄塵です。ほのよ と読みます。キラキラネームではありません。

このブログによく投稿されるのは小説だと聞いたが、私は小説を書いたことがない。一度もあわ書き終わったことがないと言った方がいいかも知れない。大体人物、ストーリーを構想する段階で満足しちゃう、もしくは「小説を書きたい!」という衝動を感じた時点で満足できるのだ。

小説を書く時は一つのワールドが新たに作り上げられる。それ以外の論文でもエッセイでも、今我々のいる世界を再認識、再構築するだけだ。僕は小説を批判することができない。なぜならそれは一つの世界として成り立っていて、その中に生きている人間、動物、あるいは静止状態にいるすべてものがあの空間では客観的に存在している。そのすでに生成した存在は批判を受けることで変化したりはしない。「全然面白くない」と言っても、それはあの世界の上空に浮いている身として同じく神の視点を持っている作者に言うもので、実際にあの世界の秩序になんの影響も与えられない。ということは、小説は書き始めた時点で終わっているのである。

そもそも「批判」というのはなんだろう。大学入る前に理科ばっかり勉強して、与えられた知識は必ず正確的であり、違うと感じた時は、自分が無知すぎるか、間違っているかの二つの可能性しかない。大学の授業で「批判的リテラシー」という概念を知り、すべてのものに対し批判的見方しかできなくなった。結局その批判が合ってた時と、やはり向こうが正しかったという状況が半々で、自分が批判的態度を持った時点で他の人も自分を叩きに来れるという危険な位置に立たされているのだ。

物事を批判するにはやはり身の程知らずの精神が必要なんだ。

SNSで活発的である分よく炎上する。相手が目の前にいないだけで遠慮のかけらもない暴言も日常茶飯事ですし何より心のダメージが大きいのは普段仲良くしてくれてた「友達」だと思い込んでた人にボロクソ言われてお互いの世界から永遠に消えること。しかし最近気づいたのは、自分は時々わざと炎上しそうなことを書きたがる。ある程度の予想も出来るようになり、それを書けば「いいね」がいっぱい来るとか、それを書くとフォロワー解除がいっぱい出るとか。

だからわざと物議をかもす発言をすることや、あえて批判的なコメントを残すことは以前無意味で論理的に不可能だと思ってたがどうも合理性も持っている。逆にその予測を的中させた側がバカではないか。論争が起こりそうな文章に対してあえてベタ褒めしたり、一見それ以上の正論はないという文章に批判しまくることは最も面白いコミュニケーションの仕方だ。

思ったことを何でもつぶやいてしまうと同時に常に知らない人に監視される状況にいると、俺は自然と攻撃の態勢になる。すべての人は同じ立ち位置で情報を発信しているのに一部の「凄そうな人」の言葉を優先的に信じてしまう。その少しだけ味わえる世論を操作する快感は俺の140字未満の文章の暴力性を増していく。

清田スタジオに関する考察/オレの文章/ばたこ

「俺たち廃止される学部を選んでるからな。」

「人文はやっぱり屑の集まり。」

「人文は教授も生徒も変なやつが多い。」

 

これは実際に僕の聞いてきた言葉の数々だ。そしてこのような内容のセリフを聞いたことのある人は僕だけではないはず。これらの言葉の数々は大概が自嘲の響きを伴って発せられるのだが、それと同時に、それ以上の意義を付与されていることも我々は知っている。

 

「清田スタジオの生徒は変人ばっかり、てか変人しかいない。」

「ここにいる奴はマジで何考えてるか分からない。」

「清田スタジオらしい面白いことをしなきゃ。」

 

自分がこれらのセリフ、またはそれに類似するものを吐いたと自覚する人も多いのではないだろうか。そして僕が今回述べたい内容に関してそろそろ読者は気付いているとも思う。今回の文章は我々人文生とりわけ清田スタジオ生の否定が目的だ。しかしただこれらに対する熱いディスをつらつらと書きつづったところで、その文が大した価値を持たないことは容易に想像できる。そのため、以下では清田スタジオの腐敗の現状・要因・打開策に関する考察を述べていくこととする。

 

・現状(問題提起)

上記のように、清田スタジオの講義中に自分たちを特別な人間であるとするセリフが多く発せられる現状こそが腐敗の証拠であると考える。というのも、僕が、人は自身の不足を理解し、それらを埋めていくことによって成長していくと信じているからだ。冒頭で述べたセリフは決して自身を貶めるための言葉ではなく、「一風変わった」組織に属する一員として自身を差別化するものに他ならない。そのような言葉・意識の集合としてのこのスタジオに成長や邁進の見込みは無いと推測する。

また、これ以上に疑問を呈すべきセリフがある。「淘汰」このフレーズを何度聞いたことか分からない。実際に先週の講義においても頻発したワードなのだが、この考え方は果たして正しいのだろうか。本当にこのスタジオを後にした生徒は「淘汰」された結果去って行ったのだろうか。そもそもこの言葉の原因となったのは清田先生の吐くスタジオ紹介のはずだが、我々はその言葉を鵜呑みしすぎている気さえする。実際にこのスタジオを去った人々の文章を思い起こしてほしい。確かに能力や意識が伴わなかったために去って行った生徒もいたであろうが、そうでない人も多数いたはずだ。では能力や意識が十分であった彼らはなぜここを去ったのだろうか。

 

・要因

第一に、入学当初から始まった教授陣からの刷り込みが大きいのではないかと推測する。この学部は前記の通り廃止が決定された。その成否・善悪に関してここで追及するつもりはないが、これはこの人文を食い扶持・拠点とする教授陣にとっては死活問題だ。国という抗うにあらがえない強大な権力を前にした彼らには、人文そのものの価値を外に対して発信していく必要がある。そのためにはそこに属する我々生徒に人文の価値を強く信じ込んでもらう必要があるのもまた否定のできないところだ。だからこそ彼らは人文を特殊な、必要なものであると力説する。冒頭で述べたようなセリフは教授陣の恣意的な発言による刷り込みの結果としてのおうむ返しに過ぎないのではないだろうか。

また、清田スタジオはその中でも顕著な例であると考える。いい意味でも悪い意味でも、僕自身このスタジオが最も人文らしいスタジオであるという自覚をしている。それは内容の奇抜さ・あいまいさに加え、その内部の意識が最も教授の発言に左右されていることなどが要因である。

 

・結び(自分なりの打開策)

ここまで書き連ねたが、僕がこのスタジオを嫌っているわけではないと理解してほしい。演劇や演技を普段から行い、文章力を欲している身としてこのスタジオは最適である上に、何よりどんなに手を抜いても評価で可を頂けるのは成績底辺の身としてはとてもありがたい。ただそれでも居心地が悪すぎる上に、先週のように結局何も話が進展しないで内輪の評価ばかりをするダサいサイクルに疑問を呈したかったというのもまた本音だ。

結びとして一つの解決策を提示するとするなら、一度初心に帰ることだと考える。自分を含めいくらか陰気で内にこもりがちになり、そこに教授の放つ甘言が飛び込んだことでこの現状があるとするなら、我々はそれ以前の価値観に一度立ち戻り価値観をリセットする必要があると思う。その方法の一つとして僕が提示したいのはドッジボールだ。現在小学生に算数を教えて金を稼ぐ僕としては、小学生の持つ一種のさわやかさ・まっすぐさこそが今このスタジオに足りないものだと考える。一度全員偏屈な考えや普段の自分を捨ててドッジボールに興じる。その結果で運動不足やストレスも解消できるなら、今の無価値なスタジオ授業を続けるよりはるかに素晴らしいことではないか。

 

書きたいことがたくさんあったのですが、字数の都合これが限界でした。申し訳ありません。(現在2023字)