「距離」カテゴリーアーカイブ

素敵な生活/距離/縦槍ごめんね

僕の部屋はとても汚い。とてもじゃないが人を呼ぶことなどできやしない。おそらくもし他人が僕の部屋に入ったら、30秒で出たくなるだろう。しかし一見汚く見える僕の部屋は、実はとても計算し尽くされているのだ。

僕はベッドを持っているが、なぜが床にふとんを敷いて寝ている。それは部屋の構造上、床にふとんを敷かないと、パソコンを寝ながらいじることができないからだ。そして、本棚からも近くいつでもゴロゴロしながら漫画や小説を読むことができる。ふとんからすべての物の距離がベストな位置にある。

このように人は僕の部屋を汚い汚いと罵るが、僕の部屋はふとんにいながらにして快適な生活を僕が送っていけるスペースなのだ。

人はあまりの汚さに、僕の部屋のことを中村貝塚と呼ぶこともある。そんなバカにされている僕の部屋だがこんなに楽して生きられる場所もない。だから僕の部屋はNo.1なのだ!
・・・正直、現実逃避はこのぐらいにして本格的に掃除を始めなければ。

あー、ごみ捨て場までの距離が遠いよ~。

欲しい/距離/ふとん

春休み、朝から1人でお台場に行かないといけなくて、そのとき初めて本当の満員電車というやつを体験した。地元の電車とか普段使う時間だったらありえない人口密度で他人と密着することになった。
最初に乗った車両でスーツの就活女子と密着した。ものすごい嫌悪感でめまいがした。その人が汗くさかったり不潔だったりしたわけでは全然なくて、本当に普通の女の人だったのに。

 

 

画面をのぞき込む彼女の顔が自然と目に入って、眉毛の位置を元の場所から少しだけずらして描いてあるのがわかった。別に女子なら誰でもやることなのに、家でその作業をしてるところを想像してしまって、女の汚さというか、顔をかわいくするための努力を真近で感じて、気持ち悪くなった。自分を見ているみたいだったからだ。

 
どっかの駅でたくさん人が入れ替わって、スーツのおじさんと密着した。
気持ちいいと思った。なんなら背中に抱きつきたくなった。べつに若いわけでも顔がかっこいいわけでもない普通のおじさんなのに。

 
やっぱり男が好きなんだ、と思った。
男好きな汚い女なんだ。
たぶん小さいときからずっと。

 

 
ネイルは、男からするとださいからしない。つやつやにするくらいまで。
服を買うときは、自分がかわいいと思う服と、男子の誰かと遊びに行くときに着る服を分けてる。ふりふりはだめ。露出しすぎない。
香水じゃなくて、シャンプーの香りのスプレーをつける。よく忘れるけど。
ストレートの日とふわふわの日があったほうが新鮮だからパーマはかけない。
化粧が濃いのは論外だから、メイクは薄く見えるようにする。
本当はコンシーラーにシェーディングにハイライトして薄くなんかない。
グロスでテカテカにしない。
うるうるの上目遣いと、袖を引っ張るのは、普段はしない。いざというときにとっておく。

 

 

好みは色々だし、これをすればみんなにモテるわけじゃないのはわかってる。
でもたぶんこれは全部、誰とは知らない男に可愛いと思われるためにやってるんだと思う。
自分がしたいようにすればいいのにね、と思って、困った。全部自分がしたくてやってることだからだ。

 
普通は好きな人と距離を詰めたいんだと思う。
べつに好きではない不特定多数の男を引きつけようとして、何がしたいの。
ていうかこんなに繕ってるんだから男から見ても少しはばれてるに決まっている。
私だったらこんな汚い女は彼女にしたくないと、思うけど。

 
「あなたは悪女に引っかかったんだよ、悔しくないの?」
「悔しくないよ。男ってそういうもん」

 

20年近く男のことばっかり考えて生きてきて、さっぱりわからない。
私は何が欲しいの。

 

 

音楽に感じる距離/距離/きりん

人はどんな時に”距離”を感じるのだろうか。遠い地平線の物理的距離。隣りに座っている人との精神的距離。
私はBUMP OF CHICKENの楽曲『ファイター』を聞いているときに距離を感じる。この曲は漫画『3月のライオン』とのコラボレーション楽曲として製作され、ネット配信と『3月のライオン』10巻付録のCDの形をとって販売された。漫画の作者、羽海野チカとの対談において、作詞・作曲を担当した藤原基央は徹頭徹尾自身について描いたと語っているが、漫画の主人公の姿が自然と楽曲の主人公の姿にも重なる。
曲の冒頭、ギターの音と共にシンセサイザーの密かな息遣いが聞こえてくる。絶妙な強弱の波がどこか遠くから聞こえてくるかのような感覚をもたらす。ここがまず鑑賞者と演奏との間に距離をとる部分だ。『K』や『天体観測』などBUMP OF CHICKENの楽曲を聞くとき少なからず感じられることだが、その感覚は曲を聴くというより、物語を聴くといった方が近い。先に”楽曲の主人公”と表記したとおり、主人公がいて物語性がある。物語を楽しむ客観的な視点を提供しているのが『ファイター』の場合、まず鑑賞者と演奏の間を空ける冒頭部分なのではないだろうか。
この呼吸音のようなサウンドは曲全体を通して取り入れられ、サビではコーラスも加わってその役割を引き継いでいく。そのサウンドが曲全体、特にサビにおいて演出するのは奥行きという距離だ。

以上のような音響効果のほかに、なぜか楽曲の主人公に対して心的距離を感じたりもするのだけれど、そこは個人差だろう。

ぜひ一度聞いてみてほしい。

テーマ関係なくね?/距離/温帯魚

「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉がある。あまりに即物的で乱暴な言葉ではあるが、しかし一方で全くあり得ないかと考えるとこれもまた否定しがたい。例えば友人から金を貸してほしいと言われ、一度なら貸すかもしれない。しかし二度、三度と続けば、その繋がりは煩わしくなるだろう。あるいは「貧すれば鈍する」ともいうように、その人としての美点が今までと全く同じままとはいかないかもしれない。とはいってもこの話は悪魔の証明のようなものだ。そもそも否定するということが難しい。だから私たちがこの話から学ぶことは、人とは何についても変わっていくということだ。何かがあって、それが周囲に影響を与えないということはありえない。
 しかし一方で切れた縁がつながることもまたあるのだろう。あるいはその切っ掛けとなる黄金が、麦とアルコールによってできていることも。
 映画「ワールズ・エンド/酔っ払いが世界を救う」は、消えていった過去の関係を再構築していく話である。人間の尊厳の話である。あるいは、酔っ払いの馬鹿騒ぎの話である。そしてそれらは、大して違いがないと映画を見終わったときに思うのだ。いや違う、私はまずこう思った。ビールが飲みたいと。

あらすじはこうだ。38歳のイギリス人ベイリー・キングは、20年前の高校最後の夜こそが自分の人生のピークだと考えていた。18歳の時に仲間と挑み失敗した挑戦は彼の最高の記憶で、しかしある日その失敗に未練はないのかと尋ねられる。そしてもう一度挑戦をしようと思い立つのだ。昔の仲間と、12軒のパブ巡りへと—―。
ジャンルはSFコメディとある。展開は突飛だが、しかし細部が作りこまれていて見ていて飽きる時間がない。スリー・フレーバー・コルネット三部作と呼ばれるもののひとつで、「ショーン・オブ・ザ・デッド」「ホット・ファズ‐俺たちスーパーポリスメン!‐」と同じエドガー・ライトが脚本と監督を務めている。
 映画の根幹となる挑戦は12軒のパブでそれぞれ1パイントずつビールを飲んでいくというものだ。1パイントは缶ビール約2本分らしく、映像でもジョッキがかなりデカい。イギリスのビールはアルコールは薄いが糖分が多く含まれていて甘いらしく、つまりすぐに腹にクるのだ。しかし映画内ではそんな素振り一切見せずにゴクゴクとただただ美味しそうに飲む。

20年たてば人は変わる。四人の仲間には家族が出来ていたり、仕事で偉くなっていたりとそれぞれの社会的な地位がある。ゲイリーが若い時の様に振る舞うのは痛々しく、見ていて少しきつい。しかし生き方は誰にも決められない。あるいは本人さえも。
過去はなくならないし、人生で必要だと思うものは増え続ける。数少ない消してしまえるものだからこそ、彼らは友情というもののために再び集まったのかもしれない。

時をかける俺/距離/ばたこ

というタイトルで真面目に書ききった文章がつい先程コピーみすによってこいつに入れ替わりました。スマホで作業してたので直せません。悔しいですので入れ替わった方の文章を載せます。

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無念です。

嫌よ嫌よは嫌だよ/距離/θn

その4.3キロメートルが世の中で一番嫌いだ。

中学高校と過ごしていく中で、どうしても避けがたい試練がある。
運動部の人間からすればきっとなんてことはない2kmという距離。
それがいかに文化部の、特にある一定の種の人間からすれば苦痛かなんてきっと彼らからすれば特にどうだっていいのだろう。

「持久走」に関して少し話そうと思う。

私は簡単に言ってしまえば運動全般ができない。どの位できないかといえば、学年でちょっと浮くぐらいにはできない。
何でそんなんなのかはさっぱりわからないが、多分もともとの体力の無さに加えて経験のなさだとか、嫌いと苦手の負の連鎖はずっと前から起きている。

球技もマット運動もダンスも短距離走もできないわけだけど、その中でも特出してできない競技、それが「持久走」だった。

「持久走」の嫌いなところその一。
皆一斉に走り始めて、ノルマを達成した人から抜けていくところ。
タイムが遅い人間からすれば死にそうになってる姿をその他全員に晒さなきゃいけないはめになる。タイムが速い人間からしても、そいつらが走り終わるまで授業が終わらないんだからいいことなしだ。すいませんねほんと。ちょっと卑屈にもなる。

「持久走」の嫌いなところその二。
多くの人間が苦手だと思っているところ。
私のような最下層の人間はともかくとして、中位ぐらいの子から「私持久走苦手なんだよね〜」と言い出す傾向にある競技第一位なのだ。これのせいで「ねえ次の時間一緒に走らない?」→「ごめん、先行くね!」現象が起きるのである。ホント笑い事じゃなかった。人間不信になるかと思った。なんならなった。

「持久走」の嫌いなところその三。
ラストに待ち構えるマラソン大会。
授業で走るのは基本的に女子が2km、男子が2.5kmだった。なのに持久走のまとめと位置づけられたマラソン大会は性別問わず4.3kmなのである。最初聞いたときはちょっとよくわからなかった。そういう男女平等みたいな精神はフェミニズムの目指していた到達点とは違うんじゃないかとかとっても冷静な気持ちになったあと絶望した。

まあ結局毎年サボる勇気もなくて走ったんですけども。
苦しいしお腹も頭も痛いし、精神的にも肉体的にもボロボロになる。
冬も人間も自分も嫌いになりそうだった。

一朝一夕でどうにかなるわけじゃないと言い訳して努力しなかったのは私である。うーん。「私が今ここで走ってて、突然死んだら社会的に問題になって持久走という文化自体が問い直されて、英雄になるんじゃ」とか、そんなしょうもないこと考える前に体力づくりでもすりゃよかったのだろうか。

ただあのつらい経験も振り返ってみれば今につながっているんじゃないかと。あの寒い中確かに一人で走っていたけれど、皆が毎回応援してくれていて、その度に元気をもらっていたことも間違いないわけで。やっぱりあの試練こそがここにいる私を形成していると思う。

……んなわけねーだろ。

魔法の杖であなたの願いを叶えましょう/距離/ヒロ

 ある日、魔法のステッキを手に入れた。
 それは老人や紳士が持っているようなステッキではなく、日曜の朝に放送している本来は小さな女の子向けなはずのアニメのキャラクターが持っているようなステッキだった。
 何故魔法なのかというとそのステッキにはそれを向けたものとの距離をゼロにする。つまり瞬間移動できる能力が備わっているからだ。ちなみに瞬間移動の能力はステッキの横に付いているスイッチを押して発動する。
 その使い方やその能力は手に入れたときに何故だかわかっていた。

 しかし、そんなステッキを手に入れても私の日常は何も変わることはなかった。
 いつも通り出社し、いつも通りに仕事をし、いつも通りに帰宅する。それだけの日常だった。
「こんなものがあっても宝の持ち腐れだよなぁ」
 こういうものは物語のキャラクターやもっと可愛らしい女の子にもたせるべきじゃないんだろうか。そう思い、私はステッキを見つめてため息を吐いた。
 使おうと思えばこのステッキは金稼ぎなどに応用することもできるのだろう。だが、私にはこんなものを三十路間近の男が持っていることを周りに知られてしまうことが恐ろしい。それでも何故か手放していてはいけない気がして会社にもこっそり持って行ってはいるのだが。たぶん誰にもばれてはいないはずだ。

「なあ、今日飲みにいかないか?」
 いつも通りの仕事が終わった後、同僚が声をかけてきた。私は少し考える素振りをした後に答える。
「……いや、今日は止めておくよ。誘ってくれてありがとう」
「そうか、すまんな。急に誘っちゃって。……その、なんだ、元気出せよ」
 同僚はそう言い残すと他にも誘っていたのか他の同僚と出ていった。
 どうやら私に気を使っていたらしい。おそらく最近の私の様子を見て元気を出させようとして声をかけたのだろう。その心遣いはうれしかったがとても飲みに行くような気分にはなれなかった。
 率直に言って、何をする気もわいてこなかったのだ。
 
 つい数か月前に妻が死んだ。
 火事だった。発火原因はストーブからだった。誰も悪くないただの事故に過ぎなかったのだ。
 その日は少し同僚と飲みに行っていた。燃えている我が家を見て酔いは一瞬で覚めた。だけど、私が家のもとに駆け付けたときにはすでに火の手は回りきっていて、私は火に飛び込もうとして周りの人に押さえつけられ、燃える妻がこちらに手を伸ばすのをただ眺めることしかできなかった。

 いつもの朝に空を眺めた。眩く光る太陽を見てイカロスの話を思い出す。確か蝋の翼を手に入れたイカロスという男が調子に乗って太陽を目指し、途中で太陽の熱で翼が溶けて墜落して死ぬ話だっただろうか。
 イカロスはあの太陽には届かなかったが私はどうだろう。鞄の中にある魔法のステッキを見つめる。このステッキなら太陽のもとまで行けるのではないか、一瞬で苦しむことなく、妻のように身体を燃やして死ねるのではないか。
 私は震える手でステッキを掴み太陽へと向ける。スイッチに指を重ねて気づいた。
「そうか、私は妻と同じように死にたかったのか……」
 そしてスイッチを押し込んだ。

温度と、それを感じる/距離/猫背脱却物語

 この前平日に休みが取れた時、京急に乗って東京へ出かけていった。花の都大東京とはいえ平日の昼間の電車はガラガラで、空席の方が多い。悠々と座っていると、どこかの駅で女子高生くらいの少女が電車に乗ってきた。

 本当なら気にも留めないのだけど、少女は選び放題の座席の中から、あろうことか私の隣に座ってきた。座るやいなや、コクコクと居眠り特有の肩の動きが始まり、少女は私の肩に重心を預けて眠っていた。乗車口から近いところに座っていたし、何かに寄っ掛かって寝たい一心だったのかもしれない、と推測は多分に無限に可能である。ただ私の降りる二駅手前で何事もなかったように降りた彼女が与えた人肌の温度だけが強く印象に残って、考えるのはやめにした。

 字面に起こすとまあ気持ち悪いけれど、残っちゃった印象は仕方ない。一人で暮らしていると、自分以外の温かいものは大抵、誰かに温められたものばかりなのである。店員さんがチンしたから温かいお弁当、私がかぶっていたから温かい掛け布団。つまり、自ら熱を持つようなものに接することが少ない。えっと、だからつまり、人との触れ合いが少ない。レジのアルバイトをしている手前、本当はカウンター越し五十センチのところでお客様と接しているからそれは嘘になるのだが、それはカウントに入らない気がする。近いところにいる人が近しい人ではないのだ。

ただ、近くにいることで、初めてその人が近しいかそうでないかは判明する。

 視線を合わすだけなら画面の向こう側のアイドルとだって平気でできる。もっと言えばコンサートに「目線ください☆」とでも書いたウチワを持っていったなら現物でもなんとかなるかもしれない。それでもアイドルが決して私だけのものに感じられないのは、そこの距離に温度という要素が絡んでいない、ロボットのように無機質な存在でも置き換えられそうな存在だからではないか。

 だからこそ近い距離で温度を感じると、自分に対する心の距離がはじめて暴かれる気がする。温度というのは正の方向だけではなく負の方向だってあって、アルバイト先でお釣りを手渡すお客様の手はこころなしかどれも冷たい。接客という必然的に距離が近くなる場に立ってはじめて、自分のことを「店員」のワン オブ ゼムとしか見ていない事が伝わり、それこそ客の手が釣り銭受けのトレーのように見えたりする。

 温かくない、即ち冷たい存在に対して親しみを感じる事ができないのは、恒温動物であるヒトのイメージから外れる点で(少なくとも自分に対して)「人間味」を感じないからか。死んだ人間が棺の中で冷たくされている感覚、熱伝導率の高い金属でのアンドロイドも、人間の形をしているからこそ「温かくない」という事で余計に物悲しさを感じさせたりする。その反面、温かさが親しみなり、もっと言えば愛だの恋だのココロ的な部分にヒットするのは、自分を見ても社会を見ても分かりきっていることだろう。お布団が恋人な大学生が多いのも無理はない。

 遠くにいれば、その人が自分に近づいた時に温かいか冷たいかが分からずにすむ。物理的な距離は心の距離に影響しないはずだけど、心の距離の指標としての温もりを測る精度に大きく関わっている。だからこそ人は距離感というものを気にしながら暮らすのかもしれない。

 それを逆手にとったアイドルの握手会やチェキ会(ツーショットの写真撮影)というのは、流石あれだけファンの心をつかんで離さないわけだ。かつては遠い存在であった人の温かさが、本人の手を持ってダイレクトに伝わるのだから。アイドルのおててが、握手しているその瞬間の君だけに温かいわけなんてないのに。アイドルだけじゃなくても、妙にスキンシップが上手い女性っているらしいから、自身も純粋に温かさを受け入れづらくなりそうで怖い。

 電車で会ったあの少女は、いつもああして誰かにあの温度を振りまいているのだろうか。万が一、いやありえないけれど、もしもそれが私だけの為の温もりだったとしたら。その事が確かめられないままに、京浜急行は私と少女の距離を二駅以上離していった。

家と大学の/距離/やきさば

わたしの家と大学間には絶妙な距離がある。
だいたい歩いて15分ほどの距離なのだが、完全住宅街なので夜は真っ暗だし、人通りも少ない。

その距離はときに長いし、ときに短い。

家と大学間の距離が長いとき。
2限に行くのに10時20分に家を出たとき。
夜1人で帰っていると、昨日見た映画の怖かったシーンを思い出したとき。
バイトで疲れているとき。
スーパーで買った荷物が重いとき。

家と大学間の距離が短いとき。
何か考え事をしながら帰っているとき。
好きな人と電話しながら帰っているとき。
好きな曲を口ずさみながら帰っているとき。
楽しかったことを思い出しながら帰っているとき。

この距離は何か考え事をするのにちょうどいい。
あのときわたしが発した言葉は誰かを傷つけてしまったんじゃないか。
あのときわたしが考えたことは間違っていたんじゃないか。
あのときわたしが示した態度は失礼だったんじゃないか。
あのときわたしが……

わたしはすぐに甘えてしまうから。周りの人が優しいとわかるとすぐに甘えてしまうから。
いつか間違えてしまいそうで怖い。
わたしのあの言葉は失礼じゃなかったかな?軽率じゃなかったかな?怖くなかったかな?
わたしの純度100%の言葉はきっと相手に届くときには40%くらい濁ってる。
わたしの言いたいこと全部が、わたしの気持ち全部が言葉一つで伝わればいいのに。

相手と距離を埋めていくのは難しくて。
言葉一つじゃ足りなくて。
あのときどうすればよかったんだろうと真っ暗な住宅街にのまれながらゆらゆら考える。

わたしの純度100%を受け取ってほしいけど、全て知られるのは怖くて。
ああ、だからわたしは人との距離が埋められない。

こうして大学から家に帰るときみたいに少しずつ、目に見えて埋められればいいのに。
右足を出して、その次は左足を出す。そうして少しずつ埋められればいいのに。

きっと明日も作り笑いをしてしまう。
きっと明日も無理に取り繕ってしまう。

きっと明日も純度100%のわたしはいない。

SNSと年賀状と/距離/なご

成人の際に行われた中学高校の同窓会でこんなことがあった。

私は中高一貫の男子校に6年間通っており、その同窓会では6年間一緒にいた仲間たちと2年ぶりに会うのである。普通に考えてみれば「久しぶりー」なんて言葉が最初に出てくるであろう。もちろんそれから会話が始まるケースもあったが、それ以上に出てきた言葉が

「久しぶりに会うけどなんだか久しぶりって感じしないねーまぁTwitterとかで見てるからだねー」

である。その時は「確かにそうだねーではまたTwitterでー」とか言ったが、よくよく考えてみるとこれはとても驚くべきことなのではないだろうか。

我々はSNSでつながっていることで、リアルで全く会うことが無くともその人がそばにいるような感覚になっているのかもしれない。Twitterを開けば同窓生が百数人タイムライン上にいるのだから、当たり前といえば当たり前だし、文字にして書いてみると普通のことをだいそれて書いてしまった感が否めないがやはり改めてSNSの力を感じる出来事であった。

「同窓会、久しぶり、SNS」の関連として思いついたものが年賀状である。あれもTwitterに似たような性質を持っている気がする。

あなたにもいるだろう、何年も会っていないのに律儀に毎年年賀状のやり取りだけしている人が(たとえば小学校の同級生など)。

そんな彼らにいざあって見るとさほど久しぶりな感じがしないのだ。おそらく毎年の年賀状に彼らの写真などが載せてあることによって成長した姿を毎年見ているし、近況などもその年賀状によってわかっているからだろう。

最近の若い人は年賀状を書かないなんて言われているが、確かにこれではラインやTwitterにとって代わられたということも納得がいくだろう。私たちの近況報告は年に1度はがきを出すまでもなく、日常において日々垂れ流され続けているのである。

そんな私は、ここ数年家族内で「年賀状という文化を廃止する委員会委員長」を自称し、年々送る人を減らして、卒業までには送る人も送られてくる人もゼロを目指しているところである(郵政関係の方がいたら大変申し訳ございません)。