「身体」カテゴリーアーカイブ

わたしの初めてあげる/身体/ふとん

テレビをつけると、沖縄の米軍に殺された女の子のニュースが話題だった。

 

私はぼーっと観てただけでなにも考えなかったけど、横で一緒に観てた友達は「絶対これヤリ捨てされてるでしょ」って言った。

 

まじか。そういうことなのか。
そう考えた瞬間に女の子のことがむちゃくちゃ可哀想になって、米軍の男はむちゃくちゃ憎らしくて、死ねばいいのにと思った。
私の憎しみは、殺したことよりも、レイプしたことへ向いている。

 
自分がもしレイプされたらたぶんその後自殺する。
これは大袈裟じゃなくて本気だ。リアルがち。
ここまで守ってきた大事な大事な処女をそのへんの奴に奪われたら生きる希望が全くない。死ぬしかない。

 
なんでこんな異常なほどに処女にこだわってるのか。
高校生のときにこれを読んで間に受けたからだ。

 

女には絶対言えない「男の本音」が正論過ぎるとネットで話題に – NAVER まとめ http://nav.cx/33rsbU

 
ネットの情報を間に受けるのはよくないんだろうと思いながら、しっかり間に受けた。
処女はとっておくに越したことは無いのだ、たぶん。が心に刻まれてしまった。

 
実際あんなに好きだった元彼にも、今となってはあんなやつにあげなくて本当に良かった!って思ってるし、今の人がどれだけ好きで、優しい人で、大切にされてると感じてても、未来はわかんないし、この人といる時間に一生を捧げようと思うまではあげるべきじゃないと思ってる。

 
私の場合はただガード固いんじゃないから変態ちっくだ。
AVの痴漢ものもレイプものも、観るぶんには興奮するし痴漢に触られるだけなら別にいいしむしろ楽しそう。
自分の処女が奪われることだけに関して異常にこだわっている。

 
自分の価値を、処女だということがほとんど占めてるみたいで、処女を捨てたら、価値がなくなるみたいで、嫌なんだけど、女の価値はやっぱりそうやって決まってるんじゃないのか。

 
男性のみなさん、どうなんですか。
処女はめんどくさいとか言ってる人も、実際結婚して一生養うなら、自分に初めてをくれた女性がいいんじゃないんですか。

 

身体じゃなくて心を愛してるから関係ないとか言うんですか。
でも処女って、身体の問題ですか?心の問題じゃないですか?
初めてをあなたにあげました、っていうまごころがあるから大切にしようと思えたりするんじゃないですか。
どう思いますか。

 

わたしはなぜ処女についてこんな情熱的に語ってるんだ。
とりあえず処女の前にこの変なこだわりを捨てたい。

季節の変わり目/身体/θn

最近髪が抜けやすい気がする。

多分健康的な人間の範囲内だとは思うけど、ふと身の回りを見渡してみるとこんなに抜けるかってぐらい髪が抜けている。もちろんちゃんと掃除はするけど、毎日のことだから結構面倒だ。

髪が死んだ細胞だっていう話を聞いた時はそこそこショックを受けたような気がする。あれはいつの事だっただろうか。

幼いころ、私は親の趣味趣向の影響もあって髪を伸ばしたことがなかった。
特にそんな自覚はなかったけれど、無意識下で長い髪に憧れていたのかもしれない。

だからこそテレビのCMでまるで女性の美そのものであるように取り扱われている髪の毛が、あくまで自分から延々と生成される死骸に過ぎないのだと思うとなんだか悲しかったのである。その話を聞いて以来、少し髪の毛、特に抜け落ちた髪の毛というものに多少のエグみというかグロテスクさを感じるようになった。

私にとって髪の毛というものは自分の一部でありながら、自分の意志から離れているものである。生きた自分から生成された死んだものが、自分から完全に離れてもう一度死になおす。

二度死ぬなんてこと、あって良いはずないけれど。

死んだものってとっても未知で好きじゃない。

髪の毛に限らず。虫とか魚とかは特にそう。
魚の何が気持ち悪いって、死んでるかどうかがわかりづらいってとこだ。
お祭りで掬ってから大事に飼っていた金魚がお腹を向けて浮いていたとき、可哀想より先に気持ち悪いって思って泣いた。

虫も。生きていても好きじゃないけど、殺してしまったりしてからのほうが気持ち悪い。ティッシュの中の感覚は何回経験しても吐き気がする。

人のに関しては、好きじゃないっていうかわからないなと思った。
よくわからないものだと思った。接したことは二回くらいしかないけど、やっぱりもう二度と味わいたくはない。

この感情には未知だってこと以外も関わってるだろうけど。

生きている中で何回も死んでしまいたいと考えて、それと同じだけの数死にたくないとも考えた。いろんな死に会って、最近はちゃんと死ぬってやだなって思う。自分がわからないものになるのはちょっと怖い。

親に抜け毛が多いと言ったら髪が伸びて目立つようになっただけじゃないのと言われた。それだ。

わたしのアンテナとペ・ドゥナについてのこと/身体/T

好きな人がいると、そんなことする必要ないのに、その人の魅力を他人に伝えたくなる感情は何なんだろう。

男友達と、お互いの好きな人の話をする。お互いその子のどこがいいかについて回答しあう。私は高校の時に好きだった女の子の、腕の動かし方がすごく好きだった。でもそんなこと人に言ったって伝わらないだろうし、なんか身体が好きなのって言ったら、え、カラダが好きなの?ってなっちゃうだろうし、難しいよなぁと思う。実際それが完全に的外れではなくて、異性の身体だし意識しちゃうところは意識するし。だからだいたいはその人のなんとなく雰囲気が好きってあいまいに答える。それぞれが自分しか持っていないアンテナで感じる部分だから、上手く言葉にして他人に伝えるのは難しい。それだから、この人が好きなんだよねー、えーどこがいいのっていう友達との会話が存在していて、こんなに素敵な人なのに魅力がうまく伝わらねえってもどかしくなったりするのだ。そのみんなのアンテナの違いが、日々生きていて面白いって思うところの一つだったりするけれど。

 

 

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数年前からずっと、ぺ・ドゥナという韓国の女優が好きだ。(上の写真の人。)

以下、簡単なペ・ドゥナのプロフィール。

1979年ソウル生まれ。女優。韓国の映画やドラマを中心に活動しているけれど、日本の映画に数本出ていたり、最近はハリウッドに進出したりしている。公式Instagramとか見ていると、たまに日本に来ている。(…だからいつか会ってみたい。)今、36歳。

 

最初にペ・ドゥナのことを知ったのは、2009年の是枝裕和監督の「空気人形」という映画を観たときだった。心を持ってしまったラブドールというちょっとドキドキする役でその映画に出ていた女の人を見て、あ、この人すごく素敵な人だって思って、それから調べて彼女が韓国の有名な女優だということを知った。気になって彼女が出演しているほかの映画を観れるものはほぼ観て、観終わった後には完全に惚れてしまった。(さっきの是枝監督の「空気人形」公開時のインタビューによると、魅力的すぎて現場のスタッフ全員が彼女に惚れたらしい。。)

 

ペ・ドゥナはモデルもやっていたり(身長が171cm!)して、写真の中でとどまっている仕事も多い。でも彼女が一番魅力的なのは、その身体が動いているときだと思う。画面の中で動く彼女は、ずっと見ていても飽きないのだ。ふわふわ歩いていたと思ったら突然力強く走りだしたり、柔和な表情から謎の強い意志を伝えてくるような目をしたりする。一つ一つの仕草がすごくかわいらしいけど、ひんやりした、周りをよせつけない雰囲気も出すことができる。(あと私は、すごく疲れた表情をするときが好き。。)

なんていっていいか分からないけど彼女だけが纏っている空気があって、その中で生きているような気がする。独特な雰囲気だけど、物語の流れの中で役の感情の動きにきちんと沿った演技をするから映画からはみ出ることはない。すごく自然。それでいて主演だろうと脇役だろうと観ている人の心にポンって残るのだ。

 

色んな作品を観てペ・ドゥナのことが好きになってしまったけれど、どうして語っててこんなふうに気持ち悪くなるくらいこの人にハマってしまったのかなあと思う。彼女は役者だから、映画の物語の中で、その役として生きているところしか私は見ることができない。口に出す言葉は、台本に書かれたもので。それに彼女は韓国の人だ。たまにYoutubeで彼女が出ている韓国のバラエティーとかニュース番組のインタビューとか見てみるけれど、韓国語分からないからどんなこと言ってるのかもほぼ分からない。(そもそも身近にいる人じゃないんだから、彼女について多くを読み取ろうとすることが不可能なんだけれど。でも、好きな人のことだから知りたいんだよねぇ…。)

でも仕草、目線、表情から、彼女の内面的なもの、強い意志とかが垣間見える瞬間はあるような気がするのだ。役を超えてにじむ人間性。…それを見て、たぶん割と気強いんだろうなとか考えて、ドキドキしたりするのだ。(ほんとクソ気持ち悪いけど。。)

 

 

好きな人について語るとき、顔や体が好きなの?それとも内面?って分けて考えることがある。でも私たちが他人の性格的なものを読み取るのって、発する言葉だけじゃなくて、顔の表情やひとつひとつの仕草とかいったもっと身体的なものによることもあると思う。そしてそれらは、その人の人間性をそれなりに正確に語っているように私は思う。人の内側と外側って明確に分けられない曖昧な部分。私が持っているアンテナは、たぶんそこに反応している気がする。

 

…いつかペ・ドゥナに会ってみたい、まじで。あと彼女の出演作品の中ではポン・ジュノという監督の「ほえる犬は噛まない」という映画がおすすめです。動くペ・ドゥナをぜひ観てほしいのです。(…お前はいったい誰なんだ。。)

どうたい/身体/みくじ

からだは骨に形作られる。
からだの中には大事な臓器が詰まっている。
からだ中を血液が駆け巡り、それを皮膚が覆っている。
胴体の話をしよう。
からだの真ん中、胴体から手も足も頭も生えている。
ハンガーみたいに、繋がった鎖骨と肩甲骨がからだを吊るす。
鎖骨の周りから胸にかけては皮膚が薄いから、静脈が少し透ける。
鎖骨の真上は皮膚と骨の間に肉がほとんどないから、触ると骨そのものの感触がある。
肩のあたりに繋がる部分があって、触るとごつごつする。その下から上腕骨に繋がる。
その中心を貫く背骨は頭の付け根から骨盤まで達してからだの支えになる。
犀の背骨は凹凸がはっきりしているけど、痩せていると人も丸っこい点線みたいになる。
背骨から生えてきて臓器は、それを覆う左右12対の肋骨に守られながら食べたものを、吸った酸素をエネルギーに変える。
恐竜や、大きな動物の肋骨を想像してほしい。
あの大きなからだに見合う大きな臓器をすっぽり覆うのだ。
脊椎から丸く包み込むあの大きなあばら。それに包まれて眠りたい。
夜の博物館に侵入して、おおむかしにいなくなってしまった海の大きな生きもののあばらに包まれて眠りたい。
肋骨は背骨からスタートして、上の10本は軟骨で結ばれる1つのゴールを目指す。
ネクタイみたいな胸骨。軟骨をくっつけやすいようでこぼこしている。肉の薄い人は指で弾くといい音がする。
肋骨の一番下と骨盤までの間にあいた空間は、へその上あたりに胃、その下に腸と膀胱。
おなかいっぱい食べた後、ふっくらする胃とそれに圧迫される下腹。
柔らかく、骨がないからよく動く。
ズボンのウエストあたりにかかる腸骨は人によってはとても張りだす。
骨盤に穴が開いて、その穴から覗き込める尾てい骨。
哺乳類は、この穴から出てくる。生まれてくる。
私は帝王切開だからちがうけど。
骨盤の左右の端から大腿骨に繋がる。このあたりも皮膚が薄い。ここで胴体はおしまい。

不器用なダブルクリック/身体/エーオー

 「思わず」という言葉がある。
 世界で一番信用できない。
 肩に衝撃が走る。サラリーマンは行ってしまった。こういう時すぐに「すみません」と言えればよかったと思う。だけど、なんていうか、エレベーターが死ぬほど遅い。声が喉元まで昇ってくる気もなくて、いつもそれで代わりになるかのように少し、立ち尽くす。
 横断歩道の前で止まった。途端に疲労がのしかかる。あくびをするにも、頬の皮膚までやめてくれと悲鳴を上げて引きつれた。息が白い。冬の朝は冷えるし、俺だってまだ寝ていたかった。でも。
 たとえば、好きな人を抱きしめる人。いじめられっ子の前に立ち、相手に言い返す人のシーン。どうして? と聞くと彼らは言う。「あのときは、思わず身体が勝手に」。そんなの、絶対に嘘だと思う。
 信号が青に変わった。自然に一歩踏み出す。
あ、これは「思わず」だと思った。

「おはよう」
 教室に入ると、暁がほっとしたように声をかけてきた。すこし可哀想になるくらいあからさまな、縋るようだった表情がすこしほどけた。
「よかった、これで男子が三人になった」
「ね。ありがと、遠野くん」
 女子との慣れないやり取りにごにょごにょして鞄を置く。暁ならまだ同じ部活だが、喋ったことなど皆無に等しい。教室には普段の三分の一弱の人しかいない。学校の合唱祭まではあと二週間だ。
「朝練、人増えないね」
 キーボードをいじりながら小間沢がため息をついた。
「琴美さあ、もっかいちゃんと来てほしいって言った方がいいよ。やばいよ」
「うん、がんばる。まあ今日はテスト前だししょうがないよ」
 合唱祭のクラス委員になってしまった暁は明るく言った。しばらくして、頼りなさげな声が寄り添うような歌が教室に広がった。

 毎年、この行事って何のためにあるんだろうと思う。
 テストが終わった開放感から、学校中が騒がしい。ロングホームルームは合唱祭の練習に当てられたが散々だった。テノールパートが練習しているはずの廊下からは、音楽が聴こえなくなって久しい。義務的にデッキの巻き戻しボタンを押した。
「あ、遠野くん。バスは全体合唱いけそう?」
 暁が廊下から入ってきた。
「たぶん、逆に俺たちだけだとやりにくい」
「そうだね。よかった、なんかテノールの男子がどっかいっちゃってさ」
 困ったように息をついた。その後ろから、派手目の女子が連れ立って出ていこうとする。暁が慌てて呼び止めた。
「えっと、ごめん、そろそろ全体で合わせたいんだけど」
「あれ、今テノールいないんじゃなかった?」
「そう、なんだけど」
「ふーん。自販機だけ行ってきてもいい? もしいたら呼んでくるからさ」
「あ、うん。ありがとう」
 もし、「思わず」があったとしたら。ちゃんと練習しろよとか言ったのだろうか。でも現実でそんなことはなくて、声のつるべは重く腹の底でぴくりともしない。俺のような地味なグループの人間が、上の方のやつに何か言ったって無駄で、っていうか言う前から無駄で、だからどうにもならない。
「琴美、どうする」
 伴奏の子がこちらを見た。
「うん、どうにか、する」
 暁は苦しそうに言った。

「おつかれ」
 教卓の横にデッキを置くと、暁に声をかけられた。
「おつかれ」
「うん。テノールが廊下にCD置きっぱなしでさ。よかった、見つかって」
 練習は終わり、すっかり誰もいなくなっていた。声をかけてきたくせに、こちらの顔をみないようにして暁はCDを教卓にしまった。
 なんとなく、予感のようなものがあった。
「なんかさ。私、だめだね」
 そう言った声が震えていた。聞いた瞬間にもうだめだった。
 顔を覆って暁はまるくしゃがんだ。がらんとしたクラスに水の音が響いて、よっぽどここから逃げ出したかった。やめてくれよと思うのに、身体じゅうにかなしみを浴びせられたまま俺は立ちすくむ。
 「思わず」なんてできない。慰めるような言葉もでてこない。身体は勝手に動いたりしない。風船みたいに無駄に漂うこころも、いつも鉛の重しに括りつけられている。
 でも、だから、「思って」足の裏を引きはがした。
 左足が動く。しゃがむ。馬鹿みたいに動作を意識している。平均台の上にいるみたいに、なにをしたって確かな気がしない。それでも。
 ぎこちなく手を伸ばした。関節が軋んだ気がする。どうすればいいか分からなくて、なんとか肩を叩いた。つたない不格好なダブルクリックのようなテンポになって、それでもかまわないと思った。
 びくびくと肩のふるえが伝わって、それにまた怖くなる。それでも離せなくなった手の行き場のことを、隣にしゃがんだまま、ずっとずっとずっと考えていた。

身体がしゃべる/身体/きりん

自分の身体は本当に脳につながっているのか、と疑いたくなるくらい言うことを聞かないことがある。あるいは、脳がもう職務放棄して身体それぞれに任せきっているようなときが。例えば身体それぞれの感覚が声に出ていたら、どんな感じかやってみようと思う。どの部位かはご想像にお任せしよう。

こんな感じだ。

 

現在。

「もう疲れたんだけど、寝ない?」

「ね、起きてる?さっきから無駄足多いんだけど」

「おしゃれしたいな~。ね、マニキュア塗らない?」

「暑い。蒸れる」

「はらへり~」

「やっぱパソコンのスピーカーだと音悪いな」もう少し我慢してください。

 

書店来店時。

「俺あの本みたいや。あの装丁はきっとざらっとしてぐっとくるジャストなサイズだぜ」

「いや、んな金もってないから。みるだけ無駄でしょ。買える範疇のところみましょうよ。私疲れるの」

「もう僕疲れたぁ」

「時間大丈夫?時間」

「お腹すいた」

「あの新刊ひょっとして出てたりしないかな。時々見落とすし」結果挙動不審。

 

講義中。

「うぜぇ。髪の毛まじうぜぇ」

「さらさらでごめんなさいねぇ。てかこれで荒れるほどあなた繊細なの?えっ、まさかの繊細?」

「おまえ昨日リンス使ったろ。うえ、だるい」

「あっ……意識が……」

「準備―。準備しろ―」

「えー、この姿勢だと私よじれるから辛いんだけど」

「今日マスカラついててさ。ごめんな、堪忍!」寝ます。

時はバイトおわり。

「今日もちゃんと働いたわよ!褒めて褒めて」

「はいはいようやりましたなぁ。おかげでわいぼろぼろやで。ただでさえこのくそ靴がじゃじゃ馬やねん。また変にあとつくやん。これでも変に硬いとことことかないの自信やったんに。あーもう、はよ代われし。て、また履くんかよ」

「腹減った……」

「もう休ませて~。これ背負いたくない~」

 

みっつの場面を描いていみたが、理性の発言の少ないことよ。かつて脳科学の実験で意識的決定より行動の始めのほうが早いという結果がでたそうだが、なんとなく信じられる気がしてくる。私はこれまで精神と脳をほぼ同一視していたが、脳は身体の感覚を処理するただの機構なのではないだろうか。そんなことを考えた。

つれづれ/身体/温帯魚

いやはや、書くことがない。
いやもちろん課題というものは書きたいものを書くということではないのだろう。自由度が高いためつい勘違いしてしまう。気を付けなくては。
さて、今回のテーマは「身体」である。しんたい。話題としてはなかなか広げられる。いくつか思いつくものを挙げるとするなら例えば昔の体育の思い出であったり。私はあまり得意ではなかった。体育という授業は身体能力もそうだがコミュニケーションも多く求められるものだ。そもそも私にとってそれらは授業時間内にどうにかできる問題でもなかった。大学での講義はとっていない。
例えば身体の持たないAIの話であったり。いやあるいはロボットにせよコンピュータにせよハードというものとソフトに本質的な違いはないのかもしれない。ハードがなければソフトは動かない。ソフトがなければハードは意味がない。あるいはそれは生命に似ているともいえるし、生命という偏見から見た見当違いなのかもしれない。少し話はそれるが、人間という種族がここまで発展した一因には身体機能の脆弱さがあるだろう。弱く不便だからこそ人間の使う記号や道具は発展した。ならばAIも脆弱な体を持たせたほうがより高度になるのだろうか。
例えばセックスの話だったり。とはいっても経験はないから適当である。個人的には恋愛というものが生活において割合を占めたことがないので、他人の話を聞くと面白い一方で窮屈そうだなとつい感じてしまう。人間そんな愛が一つに集中するものなのだろうか。あるいはそれこそが身体と精神の同一性というものなのかもしれない。とはいっても興味はある。そういえば高校のころに友達と軽く話をしていた時に、女子から君もそういうことに興味があるのかと驚かれたことがある。個人的にはあの一件から他人にどう思われているのか激しく気になるようになった。与太話である。
例えば禅というものについてだったり。中学三年の時に盲腸で二週間ほど入院したのだが、その時母が持って来た漫画が手塚治虫の「ブッダ」であった。今思うと母は何を思って病人に持ってきたのか激しく気になる。悟れと。あるいは高校三年生の時にもしの倫理の筆記で(今思うとこの科目を受ける必要はあったのだろうか?)「梵我一如を説明せよ」という問いが出た。悟れと。しかしまあ本来物と物との境などは適当である。虹は六色だったり七色だったり、川と海の明確な境は無かったり。ならば世界と私という身体を区別するものも本来はなく、精神においても同じことなのだろう。世界は一つの現象であり、そこに名前を付けて認識するのだとするならば「梵」である。そして「梵」以外のモノも梵である。などと考えてみる。という世間話。
例えば舞台だったり。五年ほど吹奏楽をやって、昨年は少しだけ演劇に縁を持った。とはいっても私は本質というよりエンターテイメントに興味が向いていたので、浅い話しかできない。でもまあ、飛んで跳ねては見ていて楽しい。やってても楽しい。体力はないのだが。
ふらふらと書いたが案外楽しいものである。こんなものだろうか。それでは。

はは/身体/やきさば

母とは最近会っていない。

去年の4月に大学に入学して、一人暮らしを始めて、ゴールデンウィーク、お盆、年末、春休みと、長期休みがあると当たり前のように帰省していたのだが、2年になってからここ最近全く会っていない。

こないだのゴールデンウィークは別に帰省しなかった。なんだか忙しかったから。別に少し遅めの反抗期が来たとかではない。
わたしは4姉妹の2番目で、姉とわたしは親と離れて暮らしているが、下の2人はまだ歳も歳なので親とともに暮らしている。
その姉もゴールデンウィークには帰ってきて、わたし以外の家族みんなで宮古島に行っていたらしい。羨ましい。わたしだけが家族に会っていない。

夜、帰りが遅くなると電話する。
夜道は危ないからと、一人暮らしを始めてからずっと続けていた習慣だ。
でもそれもなくなってきた。1人で夜道を歩くことにも慣れてきたし、友達と帰ることも多くなってきて自然となくなってきた。
家に着いたらとりあえず母親に「きたくしました」とラインしてそれで終わり。そのあとちょっと雑談するとかも全くない。一緒に暮らしていた当時は、女友達のように仲がよかったのに。
もはや母親と会っていないというより、声すらきいていない。

けど、問題なのはその先だ。
だからといって、全く寂しさを感じないのだ。家族と疎遠になってしまうとかそういう感覚も全くない。
夏休みには帰らなきゃなあとか、そういう気持ちもない。むしろ今年は帰省できなそうだと考えているほどだ。

不思議だ。
どうして寂しさを感じないんだろう。
どうして焦りを感じないんだろう。
連絡してもしなくても、母親とはいつもどこかで繋がってられると安心している。
身体を触れ合わせなくても、心は繋がってられると安心している。

家族だからだろう?と誰もがいうだろう。
家族だから、いつでも安心していられる。
身体と身体で対面しなくたって心は繋がっていられる。
突然電話しても、わたしの味方だよと言ってくれる自信がある。

でもそれにかまけて、会いに行かなくなるのはよくないよね。夏休みには帰省しよう。わたしの元気な体を見せて親孝行しよう。

もう一つの身体で/身体/ヒロ

 ビィーー、ビィーーと機能停止の音が狭い部屋の中で響いた。
 僕は目を開けて起き上がり、頭にはめていたトランスシミュレーターを外す。
「今日も楽しかったなー。やっぱり全く違う人間になりきるのも楽しいよ」
 そして僕は今の自分の姿とはとても似つかわしくないもう一つの僕の身体を見つめた。

 十数年前に世界に新たな技術が開発された。それは自分の精神を他のものに移すものだ。
 もともとはVR技術の応用らしい。そのゲーム世界に入ることができる技術が開発されたのはもう三十年ほど前の話だ。だけどゲーム世界でも体を動かすことに違和感が生まれたりすることから髪や目の色を変えるなどの些細な変化しか許可されてはいなかった。実際に違法に元の身体と違うデータで遊び続けて脳に異常が出て、自分の身体を満足に動かせなくなってしまった例もある。
だけどこの精神転移技術は今までの身体と全く違う身体も操ることができるのだ。精神転移で人間そっくりに作られた生体義体に精神を移すことができるのがこの技術のすごいところである。その生体義体にはその人用に調整がされていて、その人に何の異常も与えないようになっているらしい。

僕は今日もトランスシミュレーター、僕の精神を義体に移すための装置を使って町に出かけていた。最近仲が良くなった女の子とデートの約束をしていたのだ。もちろん相手も義体である。義体でも人間の生理反応は再現しているのでもちろんあんなことやこんなこともできるのだ。何でも最近は義体で卒業する人も多いらしい。
待ち合わせの場所に来てみたらもう相手の子は来ていた。「すいません。待たせましたか?」と声をかけながら駆け寄る。
幸いにも気分は悪くしなかったのか笑顔で大丈夫ですよ、と答えてくれた。

その後は普通のデートをした。義体を使っているからといって変わったことはない。自分の妹などの家族の話や最近あったことなどの世間話をしたりしながら色々なところを回っただけだ。
義体の外見は自由に変えることができるので今ではそれよりも性格などの内面が重視されるようになっている。僕も楽しいデートをすることができてなかなか彼女との相性は良さそうだった。

デートも終えて僕はまた自分の本当の身体に戻った。鏡で自分の顔を見るが、義体と比べて不細工でどうしても違和感がある。このままこの姿でいてくだらない人生を過ごすよりも義体の中に入って楽しく過ごすほうがいいんじゃないかという思いが浮かんでくる。
そう思うと止められなかった。もう一度義体に、いや僕の本当の身体に戻って今までの偽物の必要のなくなった身体の首を絞める。
抵抗もなく、それの死はあっという間のことだった。
それでも僕の心は希望で満ち溢れていた。
そう、これから僕の新しい幸せな人生が始まるんだ!