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家族に縛られている者とは/書評/ヒロ

 「家族という病」、読んでみての第一の感想であるが、筆者の自己満足な文章であり、偏見の込められた本であった。というところだろうか。自分が家族に恵まれなかった、あるいはすれ違いを続けてきたとしている筆者の過去を大いに語っている内容であろう。
 内容のほとんどは自分とその家族のすれ違いやその家族のダメであったところの愚痴であった。自分がどれほど家族と意見が合わなかったのか、どれほど家族のことに反発してきたか、どれほど家族との間に嫌なことが起こってきたかが書いてあった。そして、それらの思い出から家族と言うものに対する否定的な意見が主観的と言えるようなもので挙げられていた。
 家族のことが全て理解できないことは当然のことだ。いくら血は繋がっていても思考までが繋がっているわけではない。あくまで血は繋がっている他人なのだ。そして他人との間で秘密にされることや理解できないことが存在することも当たり前のことだろう。日本人は家族のことを全然知らないだろうと本文にあったが、家族だからこそ話せないこと知られたくないことがあることは当然のことではないのか。そもそも私たち人間が他人のことを全て理解することなどは不可能なことだと私は考えている。そして、家族なのに知らないことが存在することと同時に家族だからこそ知ることができることというものもあるものではないだろうか。少なくとも親が子供に向ける表情、感情、思いはその子供しか知ることはできず、他人は親のそれらを知ることなどできないだろう。
 筆者が家族に恵まれず、すれ違いを続けてきたことがなかったことからくる嫉妬や不満がこの本のもとになっているのではないだろうか。確かに筆者は家族に恵まれず、すれ違いを重ねてきていたことやそれを今にも引きずっていることは本からも理解することができる。しかし、その筆者のみの経験から全ての家族は異常であり、通じ合うことはできないと決めつけてしまうことは間違っているのではないだろうか。結局のところ作者が最も家族というものに縛られているのだろう。

きっかけとして/書評/ゆさん

著者の個人的な感情の吐露でしかなく、自己満足に過ぎない文章であった。円満な家庭に恵まれなかった著者が、ひたすらに「家族とはこんなにも無意味なものだ」という主張を述べているだけの、なんの客観性もない暴論と言われても仕方がないと思う。

著者自身が自分の家族と向き合ってこなかったのだから、家族を理解することが難しいのは当然であり、そのことに対して「内心忸怩たる思いがある」と語りながらも、「お互いのことを分かり合っている家族などいない」などと言うのは、幸せな家族に対するやっかみでしかないのではないかとすら思えた。

「家族の話しかしない人はつまらない」、まさにこの本自体がそうであると言える。ひたすらに著者自身と、その家族の話に終始しており、しかもそれがなんとなく自慢のように思える内容で、読んでいて気分が悪い。結局のところ、セレブには小市民の一般家庭の情景など想像もできず、理解もできないのではなかろうか。

 

この本を、現代社会における家族問題に痛烈に切り込んだ~~、などという、学問的見地から述べられた文章だと思って読むと上記のような憤りを抱き、結果として「駄本」としか言いようがない評価になってしまうが、あくまでエッセイとして読むならば、勉強になるまではいかずとも、自分の家族について考える契機くらいにはなるのではないかと思う。

著者はこの文章の中で家族に対する(温かい家庭に対する?)憎悪や嫌悪感をむき出しにしており、円満な家庭で育ったわたしからすると「家族ってそんなに小難しいもんか?」としか思えなかった。家族とはいえ、一個人同士でしかないのは言うまでもなく当然のことであり、どうしても相容れない部分や許せない部分はあるだろう。著者と同じような感情を持っている人もいるだろう。それでも切っても切れないのが家族であり、実際「家族」というものを嫌悪している著者も、結局ずっと家族に縛られていて、それこそが著者にとっての「家族の形」なのだろう。著者がそれを受け入れることができず、うまくいっている家族の在り方や価値観にケチをつけているだけのような気がして、なんだか少し可哀相になってしまった。

わたしは著者とはそもそも境遇が全く違うので共感も理解もできなかったが、家族のために自分を犠牲にしていて辛い、など、家族というものに嫌悪感や疑問を感じている人が「家族は素晴らしい」という考え方から解放されるための気休めにはなるかもしれない。

書評じゃない/書評/のっぽ

提出が遅れ、ペナルティもわんさか溜まっていたので、コメントを他の人に書いてから自分の書評を書くというズルをしています。

本来であれば他の人の意見を知らないまっさらな状態でこれを書くべきなんでしょうが、どうしても他の人がどう書いているか知りたくなってしまいました。読んでる途中からAmazonのレビューとか見てたので結局同じことかもしれないですが。

 

僕がこの本に対して興味を持ったのは二点。ひとつはどうしてこの本がこんなに売れたのか、ということ。でもう一つはなんでこの本を書いて出版しようとしたのか、ということ。

 

一つ目、どうしてこの本がこんなに売れたのか。

僕自身この本を読んでいて、さらりと読めませんでした。それは内容があんまり面白くなかったから。だっておばさんの人生観を読んでいても面白くない。別段盛り上がるポイントがあるわけでもなく、おばさんが考えたことがだらだらと書かれているだけ。書かれている内容に対しての賛否を問わず、面白くなかった。

 

ただそこで出てくるのが、こんなに面白くない本が「なぜ売れたのか」ということ。それはやはりタイトルだと思う。家族っていう単語と病という単語のミスマッチ。これが人の気引くことは当然だ。ミスマッチと書いたけれど、それも別段違和感なく受け入れられるだろう。家族というのは、いいものだから。病の入り込む余地なんてないのだ。これは他の人が書いた書評とかを読んでいて感じた。

 

家族は「いいもの」。これって本当だろうか。そもそも家族を「いいもの」のままキープすることは可能ですか?だって、考えてみてください。家族は常に年を取ります。子供は乳幼児、幼児、小中高、大人へと成長し、それに伴って親も歳を取っていきます。いずれはヨボヨボになって、ぼけてしまうかもしれません。もちろん自分も。そうした中で家族内の立ち位置は変わってきます。親に扶養されるものから独立し、子供を扶養する側に立ちます。いずれは親を介護する側にまわっていくかもしれません。

そんな風に移り変わる中で、家族が「いいもの」であり続ける保証はどこにもありません。それなのに家族とは無条件で「いいもの」だという感覚だけが人々に共有されています。

 

僕が立てた仮説は、人々は家族が必ずしも「いいもの」ではなく、特別な人間である家族も実は赤の他人ということを心の底では知っている。しかし、そんなことを考えたら共同体は離散してしまうから、それをひた隠しにしている(無意識にそれを排除している)のではないか、ということ。人々がこの本に対して以上なまでに反応する理由にもなる(アマゾンの低評価の数とか)。必死に隠しているものをつつかれたから反応してしまうんじゃないの。これはあくまで僕の仮説だから、全然否定してもらってもかまわないし、馬鹿げてると思われても仕方ないでしょう。

 

しかしこんな仮説を立てられるぐらいに、この本が売れたという事実が奇妙であるということだ。なぜならみんなが家族を「いいもの」だって信じてたならば、こんな本は見向きもされないはずだから。

 

 

二つ目、何でこの本を書いて出版しようと思ったのか。

 

編集部だって馬鹿じゃないでしょうから、こんな本を出したら叩かれまくるってわかっていたはず。もちろん著者だって。

 

他の人の書評の中にちらほら見えたのが「著者が矛盾している」という指摘。確かに、筆者の主張は食い違っているように見えることもある。それは確かだ。ただし、それが家族関係へのコンプレックスから来ていると決めつけるのは違うんじゃないかと思った。

彼女の主張には2つの側面があると思う。ひとつは、家族に対するあきらめから成るもの。そしてもうひとつは社会に対する期待からくるもの。つまり彼女は家族という共同体はあきらめているけど、社会に対しては希望を持っているんじゃないか、ということ。で、そこで食い違いが起きているだけなんじゃないかな、と。

 

 

ここまで書いて「あ、これ書評じゃない」と気づいてしまいました。

なのでまとめ。

 

この本を読んで心が多かれ少なかれざわっとすれば、それでいいのかなと思いました。

家族という病/書評/オレオ

この本は、筆者である下重暁子が、我々日本人が抱く「家族」への幻想を一刀両断するという主旨のものである。

しかし、結論から言ってしまえば、主観のみで語られるただの自己満足に過ぎない文章だという印象だった。全ての事例において、客観的なデータが一切書かれておらず、全て自己解釈または憶測で語られているため、説得性が微塵も感じられなかった。

内容の多くは筆者自身の体験談が、“皆んな本当の家族を知らない”という主張を裏付ける根拠として連々と書かれているのだが、何かと説得性に欠けている気がした。特に作者自身が父親、母親、兄の三人と分かり合う前に別れてしまったという体験談の結論は実に幼稚だと印象を受けた。

というのもこの筆者の個人的な体験と見解を根拠に作者は、

“私だけではない、多くの人間が、家族を知らないうちに、両親やきょうだいが何を考え感じていたのか確かめぬうちに、別れてしまうのではないかという気がするのだ。”

とまとめていたからだ。筆者の主観を大衆の意見として無理矢理こじつけ、それが如何にもそれが紛うことなき事実という風に述べているのだ。つまり、「私がそうだったから、皆んなもそうに違いない」というのと然程変わりは無いのではないだろうか。その後これについて何か裏付けや統計データが付け足される訳でもなく、ただふと思いついた作者の感想で終わってしまっており、実際何が言いたかったのかが全く解らなかった。

また、度々出される具体例がかなり表面的で、その解釈が非常に浅はかだと感じた。内容は、お盆の時期にテレビでよく見る帰省インタビューについてなのだが、それに対して筆者は

“「冬休み、何が楽しみ?」というリポーターの差し出すマイクに子供が答える。「おばあちゃんやおじいちゃんに会えること」「おもちつきと雪だるまを作ること」・・・・登場する家族はみな善人である。テレビの中で家族は善人でなければならないのだ。日々そうしたパターンを見せられている。”

と綴っている。要するに、純粋無垢な子供のコメントを、あたかもそれが善人ぶったコメントとして偽善或いは綺麗事だと完全な主観で言い切っているのだ。こんな無茶苦茶な論理で「ああ、なるほど」と納得して読む人はいるのだろうか。

そして終いには、

最近私がつくづく思うことがある。それは愛されると同時に、愛する対象が必要だということ。「子供が成長して膝がさみしい」と言った知人の評論家の言葉がよくわかる。私も最近。愛する者が欲しいと思うようになった。犬や猫を我が子同然かそれ以上にかわいがるのも同じなのである。世の中の夫婦の会話の中心が今やペットという事実はそのことを物語っている

という事実かどうかも判らないような小学生みたいな例を挙げて根拠づけしようとした挙句、「筆者がそう感じたからそれは絶対的事実なのだ」と言い出す始末。

結論として、この本は筆者の憶測や個人的見解のみで書かれた自己満足だというのが個人的な感想である。

承知/書評/リョウコ

「私たち、家族なんだから」
居間には、母と、中二の私。よくある喧嘩、よく聞く台詞。その口論について、私は詳細を殆ど覚えていない。覚えているのは、そのクサ過ぎる古臭い、腐った台詞の衝撃だ。
分かり合えないはずがない、知らないことなど何もない。
母は、床に座りこみ、ソファにもたれかかって泣いている私にそう言った。
「そうだよね、ごめんなさい」
私は、その瞬間に、大人への階段をひとつ、確かに上った。家族を諦めた瞬間だった。
家族という病、とは、語感も大変よく、確かにある一定の層の目を引くタイトルだ。血のつながった父親、母親、子供。それぞれがそれぞれを尊重し合い、信頼し、助け合って生きるスバラシイ共同体。家族を信じて疑わない人々と、家族(それが家族制度そのものなのか、特定の人間に対するものなのかは別として)に不満を持つ人々。
その内容もまた大変刺激的で、攻撃的なものだ。血縁のある子、親を信頼し、分かり合えているという強い思い込みの元生まれた歪さを無いものとして幸せに暮らしている人間を、直接的な表現や言葉で批判する。目を覚ませ、わたしたちは何も分かってはいない。一つ屋根の下暮らしている、そのニンゲンは誰だ?
筆者は繰り返し言う。家族を理解することはできない。
当たり前のことである。父は、母は、兄は、家族の一員である前にまず人間なのだ。自分ではない、誰かを理解することはできない。筆者は導入で、親しい友人・知人とは分かり合おうと対話を重ねるが、家族は分かり合っているという前提で、それを行わない。分かり合えなさの原因は、その思い込みにある、と述べている。
家族は、最も近しい他人。
その認識は、大学に入り、一人暮らしを始めるよりも前から、私の中にあった。この本を、タイトルに惹かれ手に取った人間の半数は、そのように思う瞬間を、経験していたはずだ。
筆者の批判。血のつながりがあろうと、家族は、独の集まりである。
私にとって、何も衝撃ではなかった。
「私たち、家族なんだから」
赤い目に涙を浮かべ、私にそういった母にとっては、どうだろうか。

私には一生分からないし、分からなくても彼女は私の母親だ。

私達と筆者どちらが幼いのか/書評/YDK

タイトルを見て、面白そうに見えた。だから、スタジオ課題になって少し嬉しかった。が、しかし……。

この本の評価は全く知らずに読み始めたが、全くページをめくる手が進まない。随所にある小見出しもよく言えばわかりやすい、悪く言えば稚拙で筆者の家族への愚痴を淡々と聞いているようだった。言い方は悪いが、語尾も「だろう」「と思う」などといった推測系が多く、ひたすら自分はこう思うからこうですよね!!というような意見を押し付けられているように感じたし、だからと言ってこちらが同情したくなるような文章であるわけでもなく、むしろ萎えてしまう、そんな感覚を受けた。

そこで逆に、筆者を否定的に見て読んでみると、幾らかページを捲る手が早まったような気がする。(流し読みになっていたかもしれないが)
この本は要は家族を否定したいだけなのだな、としか感じることができない本だった。タイトルから終わりまで一貫しているといえば聞こえはいいが、正直タイトルにインパクトがあるだけに中身にも期待してしまった自分を公開する内容だったと思う。家族を持ってから読むとまた違った感じ方ができるのかな、と一応淡い期待もしてみるが、今の私には面白くなくて面白い、という感情しか沸かなかった。

最後に、「家族という病」この病にかかっているのは筆者ではないだろうか。

家族に対するこだわり/書評/きりん

まず正直に、子どもを持たない筆者の子育てや教育についての講釈を受け入れる気にはなれない。それらの分野に対してのアドバイスは客観的であっても、実践的にはなり得ないからだ。なので、世の中の半分ぐらいの家族について、私は筆者の経験を信用できない。

それを踏まえた上で、私は著者の家族への見解に概ね賛同する。
現代の家族というのはどこかどろっとしていて気持ちが悪い。

私の両親は共働きしていた。家計も独立採算制。共同出資は筆者同様どんぶり勘定で成立している。筆者がもしも無茶を通してこどもを得ていたら、こんな感じに近くなったのではないだろうか。
割と各々勝手にやっている家族だ。それでも色々と面倒に感じることはある。

そんな事情で、小学校高学年になる頃まで、私は保育園や学校のあと、彼らが夜帰るまでの間、個人保育やら近所のお宅やらを転々とする生活を送っていた。祖父母は遠方であったし、遅くにできた一人娘である私を家に1人では置いておけなかったのだろう。

その期間、私はいくつかの家庭をみてきた。だいたい著者の言う典型的な現代の家族だ。両親のいる家庭も片親の家庭もあったが、経済的に安定していて、子どもは2人、家族がそれぞれにお互いを甘やかし、愛し合っている。反抗期はあったりなかったりだ。
今時珍しいぐらいに反抗的な友人も、すぐそばで見てきた。
下手をしたら、彼らが殺しあうこともあり得たのかもしれない。
けれど、その中に立ち入っていた他人の私の目には、反抗しようとしまいと彼らが深く愛しあっていることには変わりなかった。

甘やかしあう家族は端から見ていれば気持ちが悪いが、私は彼らが羨ましかった。
その点では嫌悪感を表す筆者に賛同できない。
お互いに甘くとも、こどもも親も自立できている家族だってある。甘やかさない家族など、相手が対等な大人ならともかく、こども相手ならばそちらの方が気持ち悪いだろう。

ともあれ、筆者は現状、つれあいと呼ぶ家族を大切に思っている。
大切な家族がいる、それだけでもう筆者が悩む必要はないのではないだろうか。

結局のところ、家族という枠組みは地域社会や人間関係を把握し易くする為に必要なものだ。それに対するこだわりを捨てる必要はないと、私は考えている。

これを読んでどうしろと/書評/眉毛

下重暁子の「家族という病」(幻冬舎新書)を読んでみた。Amazonではベストセラーになっているこの本、はっきり言って、著者の自己満足である。

 

「私達は家族を選んで生まれてくることは出来ない。産声をあげた時には、枠は決まっている。その枠の中で家族を演じてみせる。父・母・子供という役割を。家族団欒の名の下に、お互いが、よく知ったふりをし、愛し合っていると思い込む。何でも許せる美しい空間・・・・・・。そこでは個は埋没し、家族という巨大な生き物と化す。」

 

著者の言いたいことはまとめるとこうだ。「家族って言ったって赤の他人だしわざわざ知ろうとしたりしないくせに、家族だからという理由でこの世でいちばん理解していると思い込んでいるのは馬鹿じゃないか。私は家族団欒とかいう幸せ空間が嫌いだ。」おそらくこんなもんだろう。私としては、前者の方はものすごく共感できる。馬鹿だとは思わないけれど、私達は、赤の他人ならお互いがお互いを知ろうとし、助け合ったり、またはどうしても許せなかったりするのに、どうして「家族だから」という理由だけで、こうもこの世の人間関係の最上位にその構成員を配置させてしまうのか。

 

しかしそれこそが家族の不思議というか、家族はそれを赦してしまう関係性だとは思う。しかし著者はこの本の中でだらだらだらだらいかに自分が家族というひとつの「集団行動」が嫌いかをただ愚痴っているように思う。そこに何も客観的な根拠は存在せず、ひたすら、著者の体験談か、著者の周りの人を見て著者が感じたことを根拠に話が進む。お前の家族がどうとか知らねえよ!!ひたすら、あなたの家庭であなたが感じていたことをつらつら述べられても、「私はこうだから皆もそうでしょ?」とはならない。

 

なによりいちばん意味がわからないのは最後の、著者から亡くなった父、母、兄、そして著者自身への手紙の部分だ。あれを読まされてこちらはどうすればいいのか。たしかに、著者の苦悩で私も共感する部分はある。しかし、あれを読んで読み手が何か救われたり、変われたりすることがあろうか。ただ著者が自己の救済、自己満足のために書いただけでしかない本だった。

めんつゆは飲むものじゃない/書評/θn

 「家族という病」という題名はなかなか人を惹きつけるように思う。文中にもあったが家族の存在は人生においてかなり重要な地位を占める。それを病だと両断したそのタイトルはまさに初めからベストセラーになりうる本であったことを示しているだろう。売れる新書のタイトルは得てして過激だ。
 そんなこんなでいったいどのように私の家族像をぶった斬ってくれるのだろうと期待して読み出したわけであるが。結果としては今か今かと待ち望んでいたら、いつの間にか本は終わってしまっていた。むしろ読み進めるにつれて「この人は本当に家族という集団に対して確固たる意見を持っているのだろうか」と感じてしまう。要は期待外れであったのだ。
 内容としては現代社会における家族という集団の変容、問題点、課題について書かれた文章だ、と言ってしまって良いだろう。一貫して家族はどうあるべきかという観点が中心となっている。
 家族はしんどい、難しい、意外と分かり合えない……。それらのフレーズがなんどもなんども繰り返された。少々くどい。私はそれ以上の解決策を求めていた。家族が病であるなら、処方箋もあるだろうと思っていたのだ。しかし文章は病であるということを明言するだけして終結してしまった。
 そしてもう一つ、古い。現代社会に異論を呈しているのだから多少懐古的な文章になってしまうのはありがちな事案であるから別に問題はない。ただそういうことではないのだ。筆者が生きている世界が古いように感じるのである。
 9歳で終戦を迎え、軍人であった父とそれを献身的に支えた母、腹違いの兄を持つ筆者の意見に、戦後70年を生きる私が共感できるはずもないのかもしれない。しかし筆者が提示する理想の家族像は、あまりにも現代社会とズレてしまっている。筆者は平凡な、暖かい家庭が欲しかったのかもしれない、しかしもう作り方すらわからないのかもしれない、と同情に近い感情を抱いている。最終章に載せられた家族への手紙は、これまで筆者の言っていた「一人で生きていく」という言葉は強がりだったのかと思わせる。筆者の中にも揺らぎが見えてしまうのだ。共感も、感銘を受けることも、起こりうるはずがなかった。
 珈琲だと思って飲んだらめんつゆだった。その手の期待の裏切られ方である。まあ本書には「過度な期待などしてはいけない」とか「期待は自分にこそすべきものなのだ」と書かれているから、それは教訓にすべきなのかもしれないが。
ここまで考えて、一番家族に期待していたのは筆者自身なのだろうと気づき、少し切ない気持ちになった。

家族という病/書評/やきさば

いくら話題になっているといっても、課題に出されなければ、絶対読むことはなかった本であろう。なぜなら、この著者は完全に私と正反対であるし、読んでいるときの気分は、自分の家族に対する考えを全否定されているようで、気分はすこぶる悪かったからだ。

 

筆者は、母、父、兄、自分の4人家族であった。幼い頃に戦争を経験して、軍人であった父と娘を溺愛する母のもとに生まれ、兄は養子であり、血はつながっていなかった。比較的兄とは仲が良かったようだが、軍人だった父に関しては、敗戦後の姿を見ていられなくなり、父にその気持ちをぶつけられない分、母の生き方にも大きく反抗して、しっかりわかりあえないまま皆失ってしまった。そんな彼女が、家族とは、結局理解しあうことはできない、と説く。
家族は一番近くて遠い存在。一番近くにいるからこそ、なんでも知っていると思いこんで、理解しようとせず、実は何も知らないのだ。家族は所詮他人同士。家族という単位で捉えずに、個人の集まりとして考えれば、簡単にはわかりあえないことなんて当たり前である。
彼女のこの論には納得ができないわけではないのだが、両親と娘の6人で、今まで大きな事件もなく、仲良し家族の一員として育ってきたわたしには、この考え方は筆者の僻みから来たものではないかと感じた。おそらく、筆者が家族という枠組みの中で成功していたならば、このような考え方は生まれなかっただろう。

筆者の中に一つ矛盾点を見つけた。家族に期待するな、他人の個に期待するな、自分にだけ期待しろ。家族に期待なんてするから裏切られたときストレスとなり、落胆や愚痴の原因になる。こう筆者が説くシーンがあるのだが、彼女自身は、父にすこぶる期待していた。軍人である姿をかっこいいと尊敬していたのに、敗戦後の、生き方を曲げて落ちぶれていくのを見て距離をとってしまう。あの信念を貫いてかっこよかった父はどこだ。そんな思いを抱えたまま永遠の別れを迎えてしまった。もしかすると、この考えは彼女にとっての自分の人生から学んだ教訓なのかもしれない。

自分の考えが全否定されているようで、と言ったが、筆者の考えが全て理解できないわけではなかった。今現在離れて暮らしてはいるものの、親のすねをかじって家族との繋がりを保って生きているわたしだからこそ、共感できる部分は多々あった。
父はもともと無口で、何を考えているかつかめない人だった。幼い頃の私は父のことがよくわからず、二人きりになると何を話していいのかわからなかった。しかし、私が生まれてから15年後に新しい家族ができたことで父の印象は一変した。わたしの15歳下の妹を見る目は、愛にあふれていた。年を取ったこともあり、父の表情はむすっとした顔から常に朗らかなものに変わり、無口の裏に隠された父の誠実さや、家族愛を知ることができた。私は、父のことを何も知らなかったのだと悟った。今ではたまたまこのような機会を持てたことに感謝している。

 
誰もが家族のもとで成長する経験があるからこそ、この本の内容は皆の心に何かしら響くものがあると思う。仲の良い家族の中で育ってきた私のような者にとっては、気づかないふりをしていたものに強制的に目を向けさせられる怖さもあるが、一度は読んでおきたい本である。