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教養書としての評価は低い/書評/五目いなり

教養書としての評価は低い/『家族という病』/五目いなり

新書を手に取る人々は、いったい何を目的として本を選ぼうとするのか。勿論人によって本の良し悪しを決めるものは違うだろうが、多くはデータに裏付けああれた世間的に正しいとされた情報から学びや気付きを得ようとして、親書に手を伸ばすのだろう。そもそも新書とは「現代人の現代的教養を目的として」刊行されるようになったものであるから、この見解に間違いはないだろうと思う。
さて、前述した様に新書とは読者に新たな見解を与える事を一つの目的とした本である。読者もそれを期待して本を手に取るのだろうが、今回紹介する本は幻冬舎新書から出版された下重暁子著の『家族という病』という、何ともキャッチーなタイトルとその著者の特殊性で話題となった本である。元NHKアナウンサーという社会的知名度を持つ著者からみた家族への見解を述べたこの本であるが、紹介文の煽りが非常に巧みであり、特に最後の『家族の実態を抉りつつ、「家族とは何か」を提起する一冊』という一文は、まさに家族という集団に関心がある人々を惹きつける内容となっている。
そんな『家族という病』の肝心な内容だが、一言で纏めてみれば『自身の経験から見た家族の実態と自身が取った解決法』というものになるだろう。読者が期待しているような客観的データに基づく考察や問題点の指摘などは程少なく、殆どは著者の経験を通して語られる。そのせいか「家族はつまらない」「家族はいらない」「家族には期待しない」と言ったような自身の論にも揺らぎが見え、読者の共感を得ることはなかなかに難しい。この本の中には家族という病に侵され圧力の中雁字搦めになり身動きの取れなくなっている読者への救いはなく、言うなれば著者にとって正しかった個人的な経験を恰も一般論であるかのように語っているような印象を受けた。
現代社会を取り巻く問題の多くは確かに家族という閉鎖された空間が引き起こすものもあるだろう。読者は皆その家族という病の存在に気が付きながら、見出せない解決法を探し出すため先人の知恵としてこの本に手を伸ばした。しかし読者の心に寄り添うことなく戦後という時代を特殊な形で生き抜いた著者の経験を描いた本書は、多くの読者を落胆させただけにすぎないのではないか。
新書として、教養書としての評価はその強すぎる主観性を持って低評価にならざるを得ない。エッセイとして出版すればまだいくらかの共感は得られたのだろうが、それにしても無根拠な強すぎる断定は反感を買うだろう。しかし話題性のおかげで周知の事実となった家族という病の存在が、多くの人々が言いたくても言えなかったものであったことは間違いなく、その点では高い評価が与えられる。今度は明るみに出たその家族という病のウィルスが発見され、特効薬となり得る良書が書かれることを期待せざるを得ない。

読んでからが勝負/書評/エーオー

 

間違いなく、私にとって強烈な作品だった。

なぜなら、「この本を読みたい!」と思わせることがひとつの目的とされる、書評の概念を根本から揺るがす本だからである。

著者の下重曉子氏は、1936年生の作家・評論家・エッセイストである。元NHKのアナウンサーであり、現在でも講演活動などを行っているようだ。

そんな著者による本作品『家族という病』(幻冬舎新書/2015)は、オンライン通販サイトAmazonでベストセラーの一位を獲得している(2015年12月9日現在)。

「『家族はすばらしい』は欺瞞である」。

画家の夢を諦め軍人としてエリートコースを歩むものの、敗戦後は公職追放されてしまった父。娘に対して過干渉な母。父との軋轢により疎遠になってしまった兄――下重氏は今は亡くなってしまった「家族」であった彼らへの思いを語りながら、「家族とは何か」を問うていく。血のつながりのない他人であるが、「家族」だと思える配偶者・つれあいについての話、そして時おり、家族がらみのトラブルや事件、「家族写真入りの年賀状」などの社会現象を取り上げ、その裏にある「家族」の美化について指摘していく。

さて、ところであなたには「自分で文章を書いて本を出したい!」という望みがあるだろうか? 本でなくてもいい。ブログや討論、何かを誰かに向かって語りたいという思いがあるだろうか?

あるならば、この本を読むべきである。

この本は、かけがえのない大切なことを教えてくれるだろう。

「欧米ではこうした犯罪は成立しにくいのではないか。日本人は(中略)他人に知られる前に内々に処理しようとするから振り込め詐欺被害は一向に減らない」。孫の身を案じてお金を振り込もうとする婦人の事例を挙げ、「家族という甘い意識」によるものだと著者は述べる。欧米と日本の振り込め詐欺の実態などについてのデータは、ない。その後も根拠の明示されない例はいくつも挙がる。初めて飛行機に乗り、窓の外を見ていた老人。そこに現れ「あてつけがましい言い方」をして席を譲らせた親子連れの行動を、「家族という名の暴力」だと著者は断じる。胸が痛む光景だ。しかし果たして、それは「家族」だけの問題だろうか?

おそらく、この本は評論ではない。エッセイでもない。その他あらゆるそれらの形式をとる前の、心に浮かぶよしなしごと、のようなものだろう。つまり、読者というものを意識する前の段階である、極めて個人的で主観的な文章のように思えるのだ。

さて、そのような極めて個人的で主観的な文章が、「本」として公、世の中に出て多くの人に読まれることになった時、何が起こるのだろうか。

本書の最大の問いの答えは、読者に委ねられている。

本を手に入れましたか? では、ペンを持ちましょう。付箋でも、頭の中のマーカーでもいい。気になった場所に印をつける。主観とは何か、公と私、「本」とは何か。繰り返し自問自答する。納得できるような説明を導くために。あなたの作るものに答えがあらわれてくるくらいに。そんな、たゆまぬ努力を続けられる気力がなければ、あなたがレジで払った842円と、そしておそらく読んだ後に感じる後悔に見あった価値は生まれないだろう。

 

 

 

「家族」への反動/書評/ちきん

全体を通して、論が極端過ぎる印象であった。たしかに中途半端で凡庸な意見では、特に執筆する必要がないのだが、それにしても、偏った考えを読者に押し付けている部分が非常に多かった。そして、その強い押し付けに、何の根拠も伴っていないところも気になった。「女達は、そうやって外へ外へと行動しているが、男の姿は少ない。男も同じように相手を求めてはいるのだろうが、内へ内へとバーチャルな世界に走っている。」(P27) これは多くの人々が分からなくもないであろうところだが、男女の枠組で完全にくくってしまったり、何の根拠もなく突然断定してしまったりすることには、多少問題があるだろう。「仲の良い家庭よりも、仲の悪い家庭の方が偽りがない。」(P36) これには根拠云々以前に、疑いしか湧かない。子どもが親に反発した生き方をする=親子仲が悪いということではないだろう。「家族」はそれをも包み込んでしまう空間なのではないか。自分の考えをこの世の真理であるかのように、堂々と主張できる筆者を羨ましくさえ思った。他にも、~が多くなっている、という調子であるものの、それは自分とその周りだけではないのか?と思わせる部分が数多く見受けられた。

このように極論を押し付ける形が採られた意味は、というか、この本の存在自体が、筆者の自己肯定によって成立している。「私とつれあいは期待のない夫婦で正解だったようである。」(P48)「家族というもたれ合いは好きではないが、共に暮らす相手がいるのは、よかったと思っている。」(P97) などから分かるように、筆者は自分の選択が正しかったと自己暗示することに必死だ。そこから、戦前の価値観に必死に反発してきた最初の世代の苦労や孤独感が伺える。一種の反動のように見えるその動きは、やはり「極論」という形を採るほどでなければ、家族主義のしがらみを振り切れなかったのかも知れない。呪縛が強力であるからこそ、自己肯定を続けなければ生きてはいけないことも解る。それから、読み進めるほどに、筆者の隠し持つ、家族への憧れや執着心が見えてくる。これほどまでに記憶し表現できるのだから、その想いは人並みではないだろう。まとまりのなかった自分の家族に対する強いコンプレックスや、逆に円満ではなかったが故の愛情などが滲み出ているように思う。

結果として、筆者の考えに動かされることはほとんどなかったが、変化の時代に生きた哀しみのような、よく知らない世界が覗けたところはおもしろかった。新書という形で読者に意見を押し付けるのではなく、あくまでエッセイとして、自分のそういった価値観の根源に迫る方が、読ませるものになるのではないだろうか。

OSS/書評/ノルニル

僕はこの本を賛美したい。これほどまでに自己の正当性を疑わず、自らの描いた理想へと突き進む著作もそうないだろう。
類稀なる名著で、非常に楽しい読書の時間となった。

まず、登場する筆者の友人・知人たちの状況や境遇が余すことなく懇切丁寧に説明、描写されており、筆者の主張をそのまま描くことよりもひとり一人のエピソード、ナマの声に重きが置かれている。これにより、事実関係が手に取るように把握できる。
それらのエピソードに交えて、ところどころで筆者の考えが繰り返される。この積み重ねが厚みをもって語りかけてくるのだが、現役時代は素晴らしいキャスターであり、人生経験豊富な筆者の主張が間違っているはずもなく、さぞかし正当性のあるものに違いない。
筆者が事実関係を直接問いただすことがなかったシチュエーションの中でも、一歩踏み込むために筆者が人々の心の声を想定し代弁してくれるため、理解の助けとなっている。

電車の座席についての話は、一時ネットで物議を醸した、『新幹線の座席についての新聞投書』と似た香りを彷彿とさせた。
あれほどまでにネットを沸かせた文章を想起させるということは、それと同じだけセンスがあるということだ。ベストセラーとなるのも頷ける。
国内線の機内で乗り合わせた老人のことを初めて飛行機を利用した客だと決めつけ、その惨めな姿に同情するシーンなど、読んでいて自然に笑みがこぼれる。
人を楽しくさせる本が書けるのは一種の才能だと私は考えている。著者からは強いオーラを感じ、傑出した才能のたまものだと信じざるを得ない。

加えて、筆者の主張が繰り返し繰り返し記述されている点も評価が高い。序章から結末に至るまで、しっかりと何度も何度も説明されている。
非常に親切な著作だといえるだろう。


誉め殺したが、結局はOSS、「お前がそう思うならそうなんだろう お前ん中ではな」という本だった。
文中で著者はひたすらに「わたしのかんがえたさいりょうのかぞく」像をゴリ押ししてくる。
『実録!ホントにあった~な話』などとは比べものにならないぐらい冗長かつ一般性に欠ける例示、筆者の視野の狭さ、見事なまでのダブスタ、老害っぷりの顕示を見てもこの本は非常に読者を楽しませてくれる。
それ以外でも筆者とその茶飲み友達にまつわる閉じたBBAコミュニティにおける逸話のオンパレードで、食傷気味を通り越して中毒症状のような状態を引き起こすほどだ。

筆者は自らの頭の中で世界の主人公であり、完全に脳を灼かれている。
このようなメンヘラ厨二本をAmazonのベストセラーになるまで売った出版社の手際は実にあざやかで、評価されるべきだろう。
ところで、問題のAmazonのレビューは240件で、星の平均値は2.0だった。驚くべき評価だ。と同時に、読者は正直だとも悟った。

今回この本を課題に設定するにあたり丁寧に裁断し、全編170ページ余りをスキャンしたあと、解体された本著はゴミ箱に突っ込んでしまった。
しかし今では、この本の素晴らしさを他の人にも伝えるために、雑にでも裁断せずにそのままスキャンして、ブックオフに即座に持ち込んでもよかったな、とそう痛感している。

薄っぺらな家族という病/書評/フチ子

嘘くさい本だという噂は聞いていた。

定価で買うのは気が引けたため、BOOKOFFに向かった。すぐに見つからず、店員さんに聞いた。「『家族という病』売ってませんかね?」「ありますよ。その本はたくさん」。店員さんは少し呆れたような言い方だった。きっと大量に売りに出されているのだろう。100円で購入できた。

2015年、下重暁子著『家族という病』が大ヒットした。実の母(私にとっての祖母)との関係に悩む私の母も気になっていた本だった。まさに今、「家族」に対する理想像が世代や性別によって異なり、家族内で衝突が起こりやすいからこそ、このタイトルに多くの人が惹かれるのだろう。家族との間にこんなにも確執が出来てしまった自分は異常なのか、と悩んでいた人々が、自分は流行病である「家族の病」にかかっているだけなのだという確信を持ち、安堵する。ニーズに合わせた題名で、その点は評価に値する。

しかし肝心の内容は薄い。薄っぺらすぎる。

多くの読者は、筆者の強い信念で生きる私!ブイブイ!を読みたくて買ったのではないと思う。家族との確執に悩んでる人が、励まされたい、あるいは打開策を見つけ出したい、とこの本に頼っている。しかしこの本に書かれていることは、デキル女下重の新しい家族の形を作り出すための心構えであり、既存の衝突中家族やギリギリを保つ家族に対する考察や助言はほとんどない。「家族に血のつながりは関係ない」と小見出しをつけ、家族には精神的なつながりが必要であり、血がつながっているか否かは関係ないと強く何度も主張する。

たしかに、下重や下重の周りの人のように立派な人にとって、形骸化した家族を拭い去ることは可能なものなのかもしれない。正しい心構えさえあれば気持ちの良い心の通った家族関係を作れるのかもしれない。

しかし多くの読者は一般人である。血のつながりは家族にとって大いに関係がある。経済的援助は受けません、という強い意志をもって自分の家の名字を継がなかった母は、その決意通り祖父母からの支援を全く受けずに結婚生活を送っているが、祖母からの時折かかってくるヒステリック電話に悩まされている。「長女なのに私を見捨てて」と恨みつらみ言われてしまうと、どうすることもできないらしい。逃げられないし、どんな信念や理想を持とうかと選ぶ余地もない。ただひたすら我慢するしか道はないのであり、そこに絶望をして病んでいるのだ。内容は読者が求めるものに触れない、何の救いも納得もないものだった。

エッセイとしても面白さはなく、印象に残った言い回しも表現もない。最後の家族と自分手宛に書いた手紙は少し興味深かったが、結局、戦争は日本にとって視点を変える大きな出来事であったことを再確認するだけで終わった。

5段階中☆2つでもためらうほどの駄作だと私は思った。

 

家族という病という病/書評/さくら

幻冬舎新書 「家族という病」 下重暁子著。

 

今回私は、この本を読んだ。

まず、この本が話題になっていることは分かると思った。筆者は一般的にタブー視されるような批判を遠慮なく行ったので、普段から「家族とはこうあるべき」などという固定観念・強迫観念に囚われた人々に一石を投じる文章であり、そうした人々の奥底に抑えつけられた感情に訴えかけ、共感を促すだろうと思ったからである。

しかし、話題になることが必ずしも賞賛ではない。この本の内容では物議をもたらすこと必至である。実際自分もいくつかの読了後レビューを読んでみたが、否定寄りの賛否両論である。自分はこの本に共感できなかった立場として、読んで感じたのが、筆者に対する強い不快感で、反駁せずにはいられなかった。

筆者は、伝統的な家族主義のあり方をただひたすらに貶め、個人主義者として持論を述べていくが、主張に多くの矛盾や疑問点が見られた。

矛盾として気にかかったのは、「家族の話題はつまらない」「家族の話は所詮自慢か愚痴」と非難しながら、当人も自身のつれあいを誇りに思っている話や、自身の両親を強く侮蔑する話を繰り返し、内容の多くを占めるので、にわとり頭が3歩歩いたので持論を忘れてしまったのか? と思うほどに壮大な矛盾を犯してしまっている。

また、筆者の文体が、一方的に自分の考え(それも多くは勝手な推定に基づく)を押しつけ、そうでない価値観を徹底的に非難する内容に終始するので、筆者の論と相容れない考えを少しでも持っているのならば、この本を読んでいる最中、読者は謂れもなく何度も侮蔑されることを強いられるだろう。個人的な話になるが、家族や親戚の仲が比較的良く、周りに育てられて生きてきた自分としては、自分だけでなく、自分の血縁一同を愚劣であると貶されたようで、怒りすら覚えてしまった。

文章の中で、「どこどこではこうなのが普通である。だからこうあるべきだ。日本はダメだ。」というロジックが多く用いられる。これは前述した、自分の考えの押しつけに他ならない。この本に限らず、日本的なものを批判し海外を例に挙げて礼賛する文章をよく見るが、それぞれ異なる文化背景のもと成長してきた社会は、異なる個性があるのは当然だ。そんなに日本が嫌ならば日本に住むことに固執する必要は一切ない。そして日本に住み満足している人間にわざわざ「君たちのその価値観が嫌い」アピールをする必要もない。

タイトルやあらすじの説明を読むと、データなど客観的事実に基づいた本であると期待してしまうが、内容は終始個人的な愚痴である。自分の家庭環境が悪かったのが拗れて、それでも自己を正当化したいがために、一般的な微笑ましい家庭を僻み、恨みを抱くようになったのではないか? と疑問視されてもおかしくないだろう。

ここまで書き綴ってふと我に返った。筆者を批判しながら、自分も感情的にレビューをしてしまった。「炎上商法」が最近流行しているが、もしかしてこの本はその類なのだろうか? だとしたら、してやられた。

家族という病/書評/ボブ

この本で扱っているテーマは言うまでもなく「家族」である。私たちは自分の家族について実はほとんど知らない。それなのに、家族という存在を盲信する日本人に筆者は疑問を投げかける。理想とされる家族団欒を無駄だと捉え、時には血縁までも否定する。現代社会に蔓延っている家族絡みの問題を交え、また、筆者と筆者自身の家族との関係について赤裸々に言及し、家族とは何かという素朴な疑問を私たちに投げかける。

 

正直なところ、私は筆者の家族に対する強い執着、コンプレックスを感じた。家族の話をする人はつまらないとしながら、筆者は自分の家族に関してかなり深く言及している。最後の方になるにつれてその執着は大きくなる。母親の話をする友人を筆者は冷たくあしらうでもなく批判するのでもなく、羨ましく思うのだ。そして極め付けは手紙である。「家族を知ることは自分を知ること」という言葉が、とってつけたようにしか思えてならない。ただただ家族に対する後悔の念を認めているだけではないか。現代の人々は家族に縛られていると筆者は語るが、それをそのまま筆者に返してあげたい。

 

筆者は血の繋がりを否定する。血が繋がっているから家族、繋がっていないから家族じゃないという考えを否定するのだ。家族というのは血の繋がりより前に思いが先行するらしい。だとすると思いが通じ合っているつれあいは筆者の家族といえよう。そうすると矛盾が出てくる。「血のつながらない、他人と一緒に暮らしてみることは、大事だと思うようになった。」という一節。なんとここでは筆者は血縁関係を重視しているのだ。なんと一貫性のないことだろうか。それとも筆者は自分と他の人々とを全く別次元で考えているのだろうか。いや、それだと筆者自身が排他的になっていることになる。他人を思いやれず排他的になっている家族を批判していることと矛盾が生じてしまう。

 

私はお世辞にもこの本を他人に薦めることはできない。自分の責任は自分でとれとか、部分部分で共感できるところはあった。しかし、これまで述べてきたように一貫性のないところがあまりにも多すぎる。それだけ「家族」を述べるというのは難しいということなのだろうか。それだけではないような気がしてならないが。

下重暁子『家族という病』/書評/山百合

著者が、論じる過程の拙さは抜きにしても、一貫して主張しているのは、家族という枠組みが強要されることは良い結果につながるとは限らないので、一個人として自立し既存の枠組みではなくそれぞれの関係の深さを重視しよう、ということである。この信念が先んじているために、主観的な判断で様々なシチュエーションを判断していくのだろう。主張に根拠を持たせる場合、実例から読み取るべきなのに、実例に当てはめてしまっているのだが、著者の主張について論じるために論じる過程については一先ず置いておく。

この主張に対しまず考えられる反証は、関係性の深さの帰結として家族という形が選択される場合である。なぜこんな単純な発想が著者から出なかったのか。

そこで考えたのが、著者自身、家族という枠組みは否定しつつ他の枠組みを前提としてはいないか、という疑問である。初めに違和感が生じたのが、そこかしこに出てくる元服や地域コミュニティ等の日本の伝統という、それこそ幻想的な価値観である。そもそも、家族制度と個人との齟齬が日本固有の問題なのだろうか。この前提を不問としている時点で、旧来の枠組みの内家族制度のみを取り上げて批判しているに過ぎないと言える。個人主義というといかにもリベラルな響きを持つが、実際述べられているのは保守的な価値観に頼り切った主張である。

その最たるものは、関係性が不変であるという思い込みだ。第一章で著者は家庭内での不和は家族が親密であるべきという観念のために実際の関係性がないがしろにされて起こると述べている。だが、関係性が深すぎたために不和が起きたとも考えられる。個人個人の関係性を絶対視するなら確かに家族制度がやり玉に挙げられるだろうが、関係性は流動的である。個人として築かれた関係性の礼賛の実態は、関係性を担保するものを絶対視している時点で形式的な家族制度の礼賛と何ら変わりはない。

家族制度の変化に関連して、12月16日に夫婦同姓規定についての違憲訴訟に対する最高裁判決が下される。夫婦別姓に対し家族の絆が薄れるという批判がある。この批判に対して、夫婦の姓と家族の関係性は関係ないという批判もある。家族という枠組みが家族の関係性と結びつくものではないという著者の論旨と親和性の高い批判である。だが、家族の関係性は、姓で規定されるほど単純なものではないという指摘は、姓の同一化が無意味であるとまでは踏み込むことは出来ない。姓が関係性の全てではないが、姓によって保たれる関係性も存在するのだろうし、その想像力無くして個人の尊重は語れまい。

『家族という病』は家族制度という価値観の絶対視を否定しながら別の価値観を絶対視するという欺瞞を抱えている。個人として自立せねばならない近代的理想を受け入れながら我々が形式的な関係性から断ち切れないのは、既存の枠組みに甘えているのではなく、我々が弱いためだ。弱者への視点を欠いた改革論は弱者の手によって否定されるべきだ。そして、我々は誰もが弱者としての一面を持っている。弱者の一人として、私はこの著書に対し明確に異議を述べなければならない。

意見の述べ方/書評/ネズミ

 

この本は今まで神聖化されてきた家族のあり方に疑問を持ち、家族主義である現代の日本に待ったをかけ、家族というものは何なのかということを今一度考え直すといった内容のものだ。基本的には具体例や実体験を挙げ、そこから浮き彫りになった家族の実態について考察していくかたちで論は進められていく。論と言っても、その大部分は家族のあり方に対する批判が占めている。もはや著者が家族への不満を吐き出したいだけなのでは?とさえも思ってしまう。とにかく読んでいてあまり気分の良いものではなかった。

この本を読み始めてから読み終わるまで、一貫して思っていたことは客観性に欠けているということだ。挙げていく例のほとんどが実体験や知人に聞いた話など、著者の身の回りだけで片付いてしまっている。日本全体の問題について言及しているのにも関わらず、論を展開している場所があまりにも狭いように思えた。例に出す人物もまた、同じジャンルから引っ張り出してきたような著者と似た考えを持つ者ばかりで偏っている。凝り固まった考えを持ち、それを曲げずに一方向からしかものを述べようとしないから、ただ愚痴を聞いているような感覚に陥る。何か自分とは真逆、もしくは別の角度からの意見を提示すれば信憑性は増したかもしれない。

また著者による決めつけが多い。これはこの文章の様々なところに見て取れたのだが、一つ例を挙げてみる。著者の知り合いの家族について語る場面だが、その知り合いの弟たちが父の病院を継がず、地方へ行ってしまった。そのことについて(知り合いが)「二人の弟が父の跡を継がず、病院勤めを続ける理由など聞いてみたこともないに違いない」と述べている。だがそのことについて知り合いに問いただしたという記述はどこにもなく、これは単なる著者の推測に過ぎない。裏付けされていない事実をやたらと載せるのは控えた方がいいだろう。

このようにこの本は評論としては至らぬ部分が多くあるが、私が反感を覚える理由として最も大きいのは、この本で述べている意見そのものだ。私は小さい頃から家族や親戚を大事にしろと教え込まれ、今でもそう思っている。だからこそそれを否定するこの本が気に食わない。この意見が思いっきり主観で、客観性が欠けているという先程の批判に矛盾しているのは重々承知だ。だからこの本を読んだ他の人たちが内容に対してどのような意見を持ったのか知りたいというのが正直な思いである。

家族という病/書評/ゆがみ

家族というものはバラバラになってきた。具体的には、核家族化が進み三世代で暮らす家が減ったほか、家族が個人としてバラバラに生活する傾向が強まり、家族だんらんをする時間も今までと比べて減っている。一方で年賀状には家族写真が載せられるほか、親は人と話すとき家族のことを話題にすることが多いように、依然としてつながっている。『家族という病』は、現代のこのような家族像に対して、80歳近くにもなる筆者の経験から、家族というものについて世間に問いかけている本である。

まず、この本を読むにあたって注意しなければならないことは、この本があくまで著者の経験から書かれたものであることである。この本は本屋の新書のジャンルで扱われ、タイトルもいかにも新書である。しかし、実際には筆者が今までの経験から直感的に思う「家族像」について述べられている。このことに注意しなければ、私がそうであったように、論拠や結論が見えにくい文章に困惑されてしまい、本に対して余分にネガティブな感情を持ってしまうのではないかと思う。

さて、本の中身の話に入ると、この本は大きく二つの部分に分けることが出来る。一つ目は第1章、第2章の部分であり、ここでは主に冒頭で上げたような今の家族について筆者が考える問題点が述べられている。二つ目は第3章、第4章の部分であり、ここでは主に家族というものの問題点を挙げながらも、家族がどのようなものであるかを突き詰めることが中心となっている。この二つは一見あまり一貫性のないもののように思われる。そのため、読者はこの文章の言いたいことを掴めず、消化不良感が出るかもしれない。しかし、これは筆者が80年近く生きてきて、どんなに家族の形に不満があったとしても、家族に立ち返ることが重要であるという結論に至ったのではないかと感じる。私は現在まだ19歳で、結婚もまだしていなければ身近な人を亡くしてしまった経験もない。そのため、この本の内容を感覚的に理解できない部分が多い。しかし、断言はできないが、将来この本の意味が理解できる日が来るのかもしれない。なので、著者と世代の離れた若い人にとっても読む価値があるのではないかと思う。