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考えの再構築/書評/Gioru

率直な感想をまず書けば、結局は自分の意見をまとめたいがために書いた本ではないのか。自身の考え方の押しつけではないのか。そのような印象を私は持った。

第二章では「家族のことしか話題がない人はつまらない」という題で話が進められている部分がある。たいていが自慢話か愚痴かで、傷の舐めあいか一方的に話されるかで不愉快でしかないらしい。実際にそればかりを聞かされ続けたら不愉快にもなるだろうし、聞いていても何の生産性もないような気がする。

では、なぜそれでも家族の話をしたがるのか。それは今の自分を整理するためなのではないだろうか。今現在自分が置かれている状況を言葉にして再確認することで、改めて自分という存在を認識するのだ。家族の自慢話は、そこに至るまでに自分も少なからず関わってきたのだという自負(良い意味でも悪い意味でも)。家族に対する愚痴はそれは自分が経験していることであるという確認であり、存在証明である。

別に話す必要はないではないか。文章にして書くことでも良いし、自分の頭の中で整理して一人で解決できるのではないのか?それをできる人もいるであろう。その証拠にこの本の筆者は実際にそうしていると書いている。このことについては、”誰か”に話すことが重要なのではないかと思う。自分のなかで抑えきれなくなってしまった人は、それをどこかで放出しなければならない。それが路傍の石よりは人間であって話を聞いてくれる方がいい。それだけのように思う。誰かに話すことですっきりとした経験を持つ人は少なくないだろう。筆者の考え方もわからないわけではないが、それでも所々の断定口調によってそうではないと、このように反発する気持ちが出てくる、

 

この本がたくさんの人に読まれているのはなぜか。やはりみな家族という形について何かしらの思う所があるのだろう。文章中には筆者の実体験からの考察が数多く出てくる。第三章の「一番近くて遠い存在が家族」と題された部分では確かに、と共感する部分も私には存在する。また、そんなことはない、と反感を持つ部分でも”家族”という身近な存在に関する文章であるから改めて自身で考えることもできる。

 

私は意見を押し付けるような断定的に書かれた文章に違和感を感じ続けたが、家族という身近な存在について考え直すという面でこの本は確かに役立つのではないだろうか。ただ、全てを鵜呑みにしていいとは到底思えない。筆者の言う家族という甘やかされただけ世界でも、それによって成り立っている世界でもあるだろう。それが虚構だったとしても、それを崩そうとしない限りはそれは虚構ではなく実態としてあり続ける。それの何が間違っていると言えるだろうか。お互いを深く知ることこそが大事なのだろうか。私にはわからないが、断定だけはされたくない。

どんな本や話でも言えることではあるが、これは筆者の考え方であると認識したうえで、自分の中でもう一度再構築する必要があるように思う。筆者に違和感や反発感を覚えさせるこの本は、考え方を再構築する上では非常にやりやすい本であると感じた。

家族という病/書評/ケチャねえ

 

 

日本人は家族という言葉を美化しすぎであり、良い家族というイメージにとらわれすぎではないか、と本書の著者はいう。家族形態は年々変わってきており、今では夫婦別姓、事実婚の割合も増えてきている。そんな中で家族とはなにか、というテーマが本書では述べられている。

時々ニュースを見ていると、息子が両親を殺害した事件や、両親が生後まもない赤ん坊を殺したという事件が取り上げられていることがある。そんな時、近隣住民にインタビューをすると、住民たちはみな口をそろえて「殺人事件など起こすような人ではなかった。」や「そんな殺人事件が起こるような家族ではなかった。」と言う。

筆者はこのような例を挙げて、家族というのは、家族という単位ではなく個人という単位の集まりではないかと考察する。

本書は筆者の経験をベースとして書かれているため、主観性が激しい文章が中に混在しているという印象を受けた。筆者は本書の中で「『だんだんお母さんに似てきたわね。』と言われて、どう思うだろう。うれしいと思うか、困った、と思うか。私は少なくとも後者である。親に似たくはないと思ってこの年まで頑張ってきた。」と述べている。この節の文章は家族の在り方を考えるというよりは、仲の悪い家族のエピソードのようにも思えた。さらに、この文章を読んで、~だと私は信じている。~ではないか。という主観的な文章をにおわせる表現が気にかかった。節の題名の中に「大人にとってのいい子はろくな人間にならない」というものがあったが、この題名の中にある「いい子」というあいまいな表現に対し、「いい子」という定義が明確に示されていない。筆者の思う「いい子」しか述べられていない点も印象強かった。

家族形態は昔と比べて大きく変わってきているが、今の日本において日本人が家族というつながりを大切にするという根本的なところは変わっていない。だから、この文章に対して反論がとぶことも当然の結果ともいえる。しかし、家族によって父母の職業、家族形態あるいは性格それぞれが違うため、家族の持つ問題もそれぞれであるので、筆者のいう個人の自立は促進していくべきであろう。

カゾクトイウヤマイ/書評/JBoy

「家族という病」というタイトルが示す通り日本全体の家族礼賛的な風潮を、実際の生活に即して揶揄している記述のために論文調な学術書テイストよりも「家族」という自分たちの最も身近な存在を意識しやすく描いている。「家族を『個』としてとらえる」という新たな家族の切り口は、近すぎて見えない家族の様態を観察するのに大いに役立っているといえる。一方でいくつかの疑問点も残ったのでその点を掘り下げていきたい。

 

まず初めに文章全体に言えることだが、引き合いに出す著者自身の家族の様相があまりに特異ではないかという点である。家族のことを考えるきっかけになったという軽い叙述だけで済むならいいが、文章全体にわたって出てくる元軍人の父、愛情深い母、腹違いの兄がどうもいまいちピンと来ない。更にそこからくる妙な時代錯誤感も否めない。戦争に関する記述も多々あるが、我々今の若い世代は戦争を知らない。家族の様態の変化を考えるのではなく、家族という概念自体を考えるのではないのか。こうしたことから今現在の時間軸に即した家族の考察ができているのかは少々疑問である。

 

次に家族の生存中に歩み寄ることは本当に不可能なのかということである。「日々の暮らしで精一杯であり、相手の心の中まで踏み込んでいない」。家族が生きている間はお互いがお互いのことを理解しているつもりで生きていると。家族が死んでいなくなって初めて家族が自分にとって何を意味するのかを知ることができるのだろうか。

家族に関するありとあらゆるデータを収集し分析することで量的に家族を考えることはできるだろう。許されるかどうかは別として、量的な理解ではなく質的な理解をする一番手っ取り早い方法は、自分以外の家族を殺すことか。そうすれば家族が自分の中でどんな位置を占めていたかを過去形の形で理解することができるであろうが。

筆者は家族を理解することは自分を理解することだとして少し茶を濁した感があるのは自分だけだろうか。

家族という病という病/書評/染色体XY太郎

私はこの本を読んでいて、非常に辛くなった。
あまりにも読んでいて気持ち悪かったのだ。
更に、この本は売れているらしい。
そのことにも戦慄した。
とはいえ、ただただ、気持ち悪いと述べてはただの悪口である。

この本の気持ち悪い理由、それはこの本に書かれている内容がまるで一貫していないからである。

例をあげよう。
筆者は話の話題に家族についての話が出た時、それはどうでも良い話だから、聞き流すのが得策だと述べている。
しかし、この本、家族についての本である。
さらにタチの悪いことに、筆者は自分の家族について詳しく述べているし、最後には感傷的な死んだ家族に宛てた手紙さえ書いている。これはどういうことだろう。
これだけではない、筆者は地域、国も含む大きな意味での家という概念を否定している部分がある。その中でも特に、血の繋がった家族というものについては忌み嫌っていると言ってもいいほどだろう。
その論は、「血の繋がりというのは何の意味もなく、家族といってもただの他人である!」といった風である。
だから彼女は血の繋がりではなく、思いやりで繋がった家族を作っている自分も含めた人間を賞賛している。
しかし、待って欲しい。
家族が血の繋がった他人であるというなら、思いやりのある家族も考えられるのではないか。なぜ血が繋がっているだけで忌み嫌わねばならないのか。
まだまだ、突っ込みどころは多くあるが、書いていてもキリがない。
そこで、なぜ筆者はこのような矛盾に満ちた文章を書くことができたのかを考えてみることにした。

普通であれば内容がまるで支離滅裂であることには気付くはずである。
しかし、そのことに気づかないのはなぜか?
それは恐らく、彼女もわかっていないからである。
読んでいると彼女は確かに家族というものを忌み嫌っていることはわかる。
しかし、驚くべきことに、家族に強い憧れをを持っていることもわかるのだ。
そして、どうやら自分の中にその相反する思いを抱えていることに気づいていないように思える。
そしてそのまま、文章にするとこのようなとんでもない本が出来上がるというわけだ。
そして、頑なにこだわる血の繋がりというワード。
血の繋がった家族を他人だというのなら、事更に嫌ったりせず、筆者がパートナーだという人や、社交辞令的に対応した大学教授と同じように対応すれば良いなずなのだ。
ここからわかるのはつまり、筆者ほど家族に固執している人間はいないという事。
家族という病の重症患者は筆者なのかもしれない。

あ、あともう一つある可能性はこの本が盛大なネタ本であるという事です。

典型的家族/書評/なべしま

家族という病、現代における家族のあり方の歪みを書いた本だ。他人の眼という前提の上に成り立つ家族のあり方は、果たしてそこまでして家族を成り立たせる必要のあるものだろうか。筆者は家族というものに依存する現代人へ注意喚起している。その指摘はもっともだと思える。子ども離れのできない家族、他人への優越感で包まれたような家族。そうした家族は閉鎖的で、嫌悪感を覚えさえする。
しかしこの本に対し、反感を感じてしまう。

理由はいくつかあるだろうが、まずはこの新書という形式だろう。新書には文庫本とは違い、学術的なにおいがある。この内容自体は全否定をするような内容ではない。けれど新書という割には、個人的な話という印象が強い。論の根拠と言うべき情報が薄いのだ。家族についての記述はほとんど自分の家族、また自分の周囲の家族に終始している。たしかにそうした家族はいるだろう、と思えるくらいには普遍性はある。だからこそだろうか、よくいる家族という虚像を筆者の都合に合わせ、違和感のないように使われているように見えるのだ。根拠といえる話の引用元もないので、よりいっそう自分の都合の良い部分だけを切り取ったようでさえある。これがエッセイのような自由度の高い形式ならばここまでの違和感は感じなかっただろう。

個人的な意見の印象の強さはまた、反感の原因になっている。著者の論を読んでいると、家族すべてを批判しているわけではないのはわかる。しかし現代において大多数である歪んだ家族に対しての非難が書かれていることにより、読者全員に対してのあなたの家族はそうした歪みがあるのではないか、という非難にも感じられるのだ。見ず知らずの他人から分類され、非難されるのは不愉快だ。そのため勝手に決めつけないでほしい、という反感を覚える。論に入る前に家族を分類し、それに対応した形で疑問を投げかけるのなら抵抗も少ないだろう。エッセイならよかったのではないかと書いたが、この点においても同じことが言える。勝手に断定されたとしても、それが学術的な色を帯びたものではなく、個人の一意見ならば受け入れやすかっただろう。

全編を通し、著者の個人的な意見、体験を押し付けられているせいで、著者の自分の在り方に対する賞賛を書きたかっただけではないかという偏見さえもってしまう。自分のことを非難されれば反発したくなるという人間は多いだろう。まさにその部分を突く、挑戦的な文だった。だからこそそれを裏付ける根拠さえあれば、現代人を啓発することができたかもしれない。もしこの本を読むにあたって留意すべきことがあるとしたら、これを新書だと思って読んではならない、ということだろうか。エッセイや自叙伝としてなら、あるいは著者のファンとして読むことをお勧めする。

家族とは、むずかしい/書評/T

元NHKアナウンサーで、作家として活躍する著者が、現代社会の「家族」の実態や問題点を提起する一冊。

著者自身の家族体験や、彼女の知人や友人の体験を主な軸として各章は展開されている。著者がこれまでの自身の人生の中でたどり着いた「家族」というものに対する見解や主張を、それについて直接論じたり、現在の彼女の生活(自身の夫との関係性など)の様子を綴ることで、読者に伝えている。

 

 

「家族を固定観念でとらえる必要はない。家とはこういうものという決まりもない。そこに生きる、自分たちが快く生きられる方法をつくり上げていくしかない。問題を抱え、ストレスのもとになる家族よりは、心から通い合える人がそばにいるかどうかが大切なのだ。」

     ~第二章 「家族という病」より~

 

父・母・子といった家族関係や理想にとらわれていると、一人ひとりの個人の個性は埋没してしまう。それが現代社会において、夫婦関係や親子関係にさまざまな問題を引き起こし、多くの人々を生きにくくしていると著者は指摘している。そして自身は、夫婦関係にある男性を「主人」ではなく「つれあい」と呼び、お互いに甘えや期待を排除した家族としての生活を実行していると文中で述べている。家族として生きるストレスや負担を減らす術が存在することを、読者に提示して気付かせようとしている。

 

 

しかし著者は、過去に両親との確執と、母の過大な愛情を重荷に感じていたことを明かしている。それはストレスや負担のかかる家族関係の状態を、彼女自身も経験していたということだ。その経験があったからこそ、現在の著者の主張やライフスタイルが生まれたといえよう。

また著者は、子は親の価値観に反発することで成長すると述べている。親と子は対立せざるを得ず、仲の良い家族よりも仲の悪い家族の方が偽りがないと彼女は考える。子が親に反発するのは、子が親に対してその関係に負担を感じているからであり、仲の悪い家族も、親子が互いにストレスを抱えた状態であるといえる。著者自身の家族がまさにその典型である。

つまり著者が問題としている、家族関係や理想にとらわれていることで生まれるストレスや負担が、実は人間の成長において必要であり、また著者自身の人格形成にも不可欠であったとも読み取れるのである。

 

 

本書において著者は、家族の話はつまらないと述べながら、自身の家族関係を赤裸々に語り、嫌悪感を抱きながらも、二度と会えぬ家族への手紙を最後に綴っている。著者自身が家族関係にとらわれ続けた、彼女の言う「家族という病」に苦しみ続けてきたのかもしれない。章題にもあるが、「家族とは、むずかしい」ということが彼女の人生で得た一つの結論なのだと思う。

 

ある意味面白い/書評/温帯魚

あまり読んでいて気持ちの良い本ではなかった。事例に対して意見が批判のみ、あるいは賛同のみに固定され、筆者が中立的な立場にいないように感じた。また、その事例も一般化できるようなものではなく、結果、どこか独善的な意見の押し付けのように感じられた。

 

一方でこの本が話題になるのも理解できた。世代間の、あるいは各個人の常識が急激に乖離した現在、旧来の家族というシステムが追い付いてないことの指摘は確かに的を射ている。また前述のとおり良くも悪くも筆者の立場がはっきりしているため、またテーマが誰に対しても共感をあるいは反感を得やすい題材のため、読者が読んでいく中で自分の意見を持ちやすい。(それが筆者の意図かはわからないが)筆者が賢くない、それゆえ自分と同じ高さに居るように感じられる。その結果読者それぞれが家族というものがどう思ったか、どのように考えているかが読んでいて浮き彫りになる。

構造として考えて書いたのならば天才である。考えて書いたのであれば。そして恐らく違う。

 

内容に対する感想として。解釈が一方的過ぎるきらいはあるが、事例があまり聞いたことのないような話で面白い。道徳の教科書と一緒に読めばバランスが取れるかもしれない。家族に対する不満や不安は誰しも持ち得るものだろう。その内容をある程度ついている。誰の中にも常識としてしか存在しない「家族」というものが、別に起こる人間関係と比べてどれほど変わっているものなのか。考えるきっかけとしてはいいかもしれない。文章も(内容を除けば)スタイルがはっきりしていて読みやすくはある。

私自身、ある程度(悔しいが)賛同できるところもあった。人間関係という訳の分からないものの中で、自分自身の考えを明確に宣言する筆者はこじつけ気味にしてもある程度は憧れられる。ある程度は。

しかしこれならネットの掲示板を読んだほうが良い気もしなくもない。

 

本としては薦められないが、一つアクシデントとしては面白いかもしれない。

タイトル負け/書評/峠野颯太

 私は「家族」というものを知らない。いや、実際は知っていたのかもしれないが、今ではこれっぽっちも思い出せないのだ。友人から聞いた家族の話や、フィクションとしての家族の姿が、今の私の「家族」のイメージだ。その家族が病とされているタイトルからして、私は個人的に非常に興味を持った。
 
全体の流れとしては、現在の家族の在り方を、殺人事件の起こったニュースや、正月や盆のシーズンのインタビュー、電車で遭遇した親子など、非常に具体的な例を挙げながら問うている。筆者自身の家族や夫婦についても織り交ぜており、より比較のしやすい構造となっている。基本的に、現在の家族中心の考え方を筆者は批判しているようだ。結局最後は一人なのだから、家族の一員としてというより、自分は自分として考えるべきだと考えている。家族の枠組みとしてしか考えられないのはつまらない、家族にそして他人に期待するのではなく、自分に期待するべきだ、など納得のできる部分は多々あった。読んでいる最中、なるほどと何度か頷いたほどだ。しかし、「親の躾はどうなっているのか、と家族に責任を求めようとするから本人が反省しないのだ」と筆者は否定気味に言ったにもかかわらず、後から自身で「親の躾はどうなっているのか」と述べるなど、軸のぶれた部分が所々に見えたため、少し説得力に欠けているように思える。また、自分は絶対に正しいと思い込んでいる描写や、何かの例として自身の体験談を出すことはより論に現実味が増し、読者の共感を得やすいとは思うのだが、筆者はその体験談に自身の価値観を押しこみすぎているなど、客観性にも欠けているように感じた。「家族の話ばかりする人はつまらない」と言いつつ、「筆者の仕事を手伝ってくれる女性が、母親のことを話したくてたまらないという姿は微笑ましく羨ましい」とするのは、単に筆者の好き嫌いが関係しているだけなのではないか、と疑問を持たずにはいられなかった。これも先ほど述べた、軸のぶれた部分の一つである。

 総合的に見ると、夫を主人と呼んだり、血の繋がりを気にしたりといった、私たちの根底に常識として根付いている考えを違和感として批判しているという点では、読者の考えを見直すことができるきっかけとなるため評価できる。しかし、それらの意見は筆者が自身を正当化した上で論じられたものであるので、簡単に推薦できる本ではない。そのせいか、冒頭に述べたような興味を抱いたのはタイトルにのみであり、内容にはあまりいい印象を抱けなかった。